龍治(料治)家
都宇郡山田村妹尾崎



この家に興味を持ったのは、大崎村の庄屋石原家の系図と日畑村庄屋大森家系図に「都宇郡妹尾崎村料治何某妻」という記録があるのを知ってからです。

妹尾崎は妹尾太郎兼康が開いた新田の根元になるところで、江戸時代は妹尾戸川家の領地でした。



集落の丘の上にある共同墓地を訪ねてみました。料治、龍治両姓の墓碑が混在しています。中央に「龍治家先祖合祀墓」という自然石の供養塔があります。
「○○院○○宗善居士、正徳3
 ○○院○○幽閑大姉、享保14
 此より前の墓石は破損年代不明。墓地が手狭になったので嘉永2年に茶山墓地に移る。」
と昭和4年8月に龍治廉平が記しています。
ところが、正徳、享保時代の墓碑は見当たりません。その替わりに、石原家から料治家に嫁いだ女性とその夫の墓碑を見付けました。ここの墓碑を丹念に見て行くと、明治以後に龍治と改姓したことが判りました。更に、大森家から嫁いだ女性の墓碑も見つかりました。

料治                             龍治改姓
庄八  ――與左衛門==定治 ――+――廣次   ――豊太郎 ――常助  ――保大
宝暦7   文政7   高橋氏  |  明治10   明治36  明治39  昭和27
石原氏  室     天保9  |  室大森氏         室     室浅沼氏
            室家女  |               室中島氏
                 |
                 +――女
                    間野正英妻

都窪郡誌60頁、福田村の項に支配者の沿革が記され、庄屋・大庄屋として妹尾崎分には、料治柳右衛門、料治彦右衛門、料治廉平。明治の町村制施行以後の戸長に龍治竹太郎とあります。
また、備中村鑑には、妹尾戸川家領妹尾崎村 龍治與一郎、龍治太郎右衛門、同丈吉とあります。

妹尾崎で古くから、いや少なくとも下記の系よりも先に庄屋職を勤めていたのは上記の系で、上記の系が宗家、或いは宗家に近いと思われます。



年代を合わせると下記の彦右衛門幸昌は與左衛門の子くらいになりますが、與左衛門=昌延かどうかはいまのところ不明です。上記系と下記系はまた別の家を介して繋がるのかも知れませんが、現在、同じ龍治姓を名乗っていること、及び家紋もよく似ていることから、全く無関係ではないように思います。

昌延――彦右衛門幸昌――廉平長昌――+――女 母佐伯氏
    嘉永5     明治33  |
    室清水氏    室佐伯氏  +――竹太郎正隆 ――醇      ――+――元子
            室塩飽氏  |  大正2     大正13     |
            室三宅氏  |  室中吉氏    室治部氏     +――廉平
                  |          室        |  昭和19
                  |          室佐藤氏     |  室野中氏
                  |                   |
                  |                   +――國治
                  |                   |  昭和20
                  |                   |
                  |                   +――武子
                  |                      竹原家嫁
                  |
                  +――女
                  |  尾崎勘治郎妻
                  |
                  +――彦一郎  ――+――女
                  |  昭和11   |  葛原しげる妻
                  |  室江口氏   |
                  |         +――寿男
                  +――長次     |  昭和19
                     母三宅氏   |  室井手氏
                     明治28   |
                            +――泰助     ――+――男
                            |  三宅家嗣     |  室
                            |           |
                            |           +――男
                            |
                            +――節三     ――+――女
                            |  昭和45     |  毛利家へ
                            |  室河原氏     |
                            |  室花房氏     +――男
                            |           |  室仲田
                            +――好道       |
                            |           +――男
                            +――女 陶守家嫁   |
                                        +――男
                                        |
                                        +――男

竹太郎は数年で職を辞し、撫川精米会社、庭瀬銀行(後に山陽銀行、中国銀行と合併される)などを興し、郡会議員に選ばれて土木事業などに尽力しました。晩年は郷里に引きこもって書画、園芸を楽しみ、大正2年に82才で死去しています。
醇の妻綾子は一男一女を生みますが後に離縁、後妻は兵庫県某氏ですが、一年足らずで離縁しています。三妻政子は一男一女を生みますが、結婚五年目に夫に先立たれています。
廉平は醇と綾子の間に出来た子で、その妻茂は岡山市下西川(柳町)野中類三郎娘です。

長次の母は児島郡林村五流三宅禅真長女綱子で、一子長次はこの母の実家を嗣いでいます。この五流三宅家というのは、三手渡邉分家にある、「備中柳井原 原田家々系」という書類に出ている「倉敷市林三宅善頂」と同じ家ではないかと思われます。

幸昌の墓碑には、「源家昌末孫昌延長男」とあります。

明治24年の岡山県地主録によると、龍治竹太郎は152円余、彦一郎は47円余の直接国税を納めています。この記録には、他に8名の料治姓の人が載っていますが、冒頭に紹介した系の当主らしき人の名は見当たりません。本家が衰えて分家が隆盛になるというのはどこにでもよく見られるパターンです。



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