富田(稲富)家・因幡屋
岡山城下大雲寺町



茂利治貞本が五十七才の時に記したと思われる過去帳があります。(括弧内は私が加えた注釈)

文政九年改
(省略)
寛政十一年六月○日 ○○妙幢大姉 
同 十一年八月○○日 ○○院智貞大姉 天城中島氏ニ嫁ス
文化元年九月○○日 ○○妙艶信女 岡谷友野氏ニ嫁ス
寛政九年七月○○日 ○○院宗継信士 回嫁瀬戸(別の過去帳に作州瀬戸伯父金田弥七郎五十四)
文化二年六月○○日 ○○妙宗信女 直縁、井手、井手
文政三年六月五日 寶蓮浄華 岡山富田氏ニ嫁ス
同 五年五月十二日 ○○妙静  大阪藤井
同 九年三月○○日 ○○院*達(*=台にシンニョウ) 尾上直縁則武
同年六月○日 ○○貞覚大姉 玉嶋太田氏、直縁

いずれも清水家の墓地に眠っている人ではありません。清水家から他家に嫁いだり、清水家に嫁いできた人の親が記されています。
「寶蓮浄華」もおそらく茂利治の姉妹くらいの人で、「岡山富田氏」に嫁いだと思われます。
そこで、図書館に行った時には、必ず岡山の郷土資料を眺めて「富田氏」を捜していました。しかし、なかなかそれらしい家がありません。半ば諦めかけていた頃、大福佐藤家の明治以降の墓碑を追って岡山市東山墓地に踏み込みました。
平成十五年夏、歩き回っているうちに、草山からはみ出ている墓碑裏面に「富田甚右衛門」という名を見つけました。表の戒名を確認しようと近づくと蜂の大群に邪魔されました。
十一月になって再び覗いてみて、「あっ!」と驚きました。
裏面に「富田甚右衛門」と彫られた墓碑の隣に、「寶蓮浄華」と彫られた墓碑を見つけました。他には「六月五日」とあるだけで、年号も享年も俗名も何も彫られていません。しかし、清水家の過去帳ときれいに一致しています。

十一月になれば蜂は大丈夫です。念のため巣に注意しながら邪魔な草を刈り取って行きました。妹尾小村山の佐藤家墓地に挑んでからは、車のトランクに刈込鋏を常時入れています。

墓誌
西側の列北から南へ
○幻△童子 文化五年
○寶蓮浄華 六月五日
○△△宗誓信士 天保八年四月二十日 富田甚右衛門
 △△妙誓信女 同妻
○△△玄流信士 嘉永元年十一月二十三日 因幡屋甚右衛門
 △△妙流信女 同妻
南側に
○△△自芳 天保十二年九月二十六日
東側の列南から北へ
○△△道照 天明二年八月十四日
○道光 明和元年七月二十二日
○△△妙心 安永三年三月二十六日
○△△寿光 寛政十二年五月十二日 因幡屋七右衛門墓
北側の列 東から西へ
○△△院玄雄居士 明治十八年旧七月二十八日 大雲寺町稲富甚市
○△△智賢信士 元治元年十月二十六日 因幡屋房之介
○戒名摩耗 享保元年七月二十四日
○△△貞達信女 明治十六年旧正月二十二日 稲富甚市妻梅

 

草の間から碑文が現れるに連れて、富田と稲富の二軒分の墓地になるのかとも思いましたが、全体が見えて配列が明らかになると、富田=稲富で、屋号が因幡屋であることが判りました。江戸末期か明治の頃に富田から稲富に改姓したようです。
墓地は火葬場の正面にある石材屋の横から東に延びる道沿いから長方形に確保されていて、周囲に石塔が並んでいます。中央は空いていて、そこから群生した草がまるでビールの泡のように周りの石塔に覆い被さって行っていたのです。中央の空き地には燈籠の崩れた部品でしょうか、「稲富」と彫られた石も転がっていました。墓地には籃塔の欠片と思われるようなものも埋まっていて、享保元年以前のお墓もあるのかも知れません。

岡山城下町の町人についての資料は乏しく、僅かに岡山市立中央図書館所蔵の岡山城下各所庄屋一覧(嘉永七年十月)に、
「大雲寺町 因幡屋甚右衛門」
という記録が見つかりました。因幡屋富田(稲富)氏は町名主を勤めていたようです。

富田                    稲富
七右衛門――甚右衛門――+――甚右衛門 ――甚市  ――・
寛政12  天保8   |  嘉永1    明治18  
間野氏  室     |  室      室     室伊丹氏?
            |
            +――佐奈  
               末廣快昵妻



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