白神家浅口郡阿賀崎村

白神家
浅口郡阿賀崎村




天明六年十月に三代盛絃が記している墓誌に依ると、初代盛之(号安心)は下道郡市場村(真備町薗)の白神盛康と母土師氏の子で享保年中に分家しています。二男二女があり、長男盛常が跡を嗣いで、次男安明が同村瀬尾氏を嗣いでいます。そういう重縁関係があり、白神氏の墓は大坂屋瀬尾家の墓地に一緒に祀られています。

與三右衛門盛之――+――忠左衛門盛常――+――團之助
寛保4      |  明和6     |  宝暦2
瀬尾氏     |  室西澤氏    |
         |          +==忠左衛門盛絃――+――哥津
         +――多津         三島氏     |  安永8
         |  三島実貞妻      天明8     |
         |             室中西氏    +==兵作安孝――+――女
         +――安明                    瀬尾氏   |  中藤清孝妻
         |  瀬尾家嗣                  文政7   |
         |                        室三宅氏  +――政
         +――信                     室小野氏  |  白神盛傳妻
            中西勝之妻                 室小埜氏  |
                                  室河相氏  +――忠之丞
                                        |  享和3
                                        |
                                        +――邁

盛常の跡は、妹多津の男子盛絃と、妹信の女子加治が夫婦となって嗣いでいます。そのため、墓地には三島実貞夫婦と中西勝之夫婦の墓碑も建てられています。三島実貞は中島村の産とあり、生年を計算すると、元三島家の九良右衛門吉長と重郎右衛門吉當の間くらいになります。中西武右衛門勝之の先祖は肥前国唐津城主寺澤家の長臣で、曾祖父図書(外記の子)の代から岡山城下に移住しています。
兵作安孝は瀬尾安明の第三子です。妻三宅登志(寛政五=1793年歿)との間に一女、三妻小野千歌(寛政十二=1800年歿)との間に一女、四妻河相高(文化十=1813年歿)との間に二男がありました。このうち一男子は享和三年に二才で亡くなっています(1803-2=1801)。二妻安は長尾村の小野栄蔵正道娘(寛政九=1797年歿)です。
勇崎の中藤家に、
「善寿清孝居士 安政四年歿年八十 十左衛門清孝
 温節慈孝大姉 明治十一年歿年八十六阿賀崎村白神兵作娘(1878-85=1793)」
という墓碑がありますから、安孝と三宅氏との間に生まれた女子が中藤家に嫁いでいることが判りました。
そうすると白神忠左衛門三室となったのは三妻小野千歌が生んだ子となり、享年は二十一~二十四才と推定されましたが、実際に薗の見瀬白神家に墓碑が見つかってみと、
「荘室浄巌信女 白神氏名政浅口郡阿賀崎村人父兵作名安孝娶爪崎小野正笋女生白神氏帰其宗佐賀野佐次右衛門義子忠左衛門今称恕助既帰四歳生一男未而歿行年僅二十有二時文政四辛巳年也」
となっていました。


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