吉田家
賀陽郡足守村



吉備郡誌に「日置流弓術足守木下家指南番吉田氏略系譜」が掲載されています。これは福武求馬氏の調査報告書をもとに著者(永山卯三郎)が考察を加えたものです。

上野介重賢――+――助左衛門重政――助左衛門重高――助左衛門重綱――+――助左衛門豊隆
文亀3    |  永禄12    天正1     天正15    |
       |                          +――與右衛門
       +――和泉守                     |
       |                          +――五兵衛
       +――若狭守                     |
                                  +――五左衛門
                                  |
                                  +――女
                                     葛巻源八郎妻

吉備郡誌によると、

出雲守重賢という人が近江佐々木の一族である六角満経の家来となり、蒲生郡龍王ヶ嶽の城主吉田谷を領有したために本姓の葛巻氏を吉田と改めました。弓道が得意で、自ら一流を開いて日置流と称しました。日置弾正より伝授してもらったといいます。文亀三年に七十八才で死去して、法名を瑠璃光坊威徳大居士といい、墓は高野山にあります。吉田家記に、「出雲守重賢は日置弾正と称し・・」とあります。武芸小伝の射術の部には、「下州の住人吉田上野介源重賢は佐々木の一族で、始め太郎左衛門といい、弓術を好んで熟達し、後に日置弾正正次についてその術を学んだ、これが吉田家弓術の祖である」と書いています。

郡誌には上記に続いて、日置弾正正次について「大和国の人で、我が国の弓術中興始祖である。紀州高野山で剃髪して瑠璃光坊威徳、五十九才にて死去」という引用があり、吉田重賢と日置弾正の情報が混乱しているようだと著者が注記を加えています。
更に、吉田重信系譜の引用「日置弾正は伊賀国の住人、その門人は数人あるが吉田出雲守は中でも優れていた」が加えられています。

重政は父の跡を嗣いで日置流六十ヶ条の目録を作成、入道して一鴎と号します。永禄十二年に八十六才にて死去。
武芸小伝によると、重賢の嫡子で、始め助左衛門といい、佐々木左京太夫義賢からその射伝の伝授を頼まれたが拒否して不仲となり、領地を捨てて越前一条谷に移住しました、六年を経てから下州に戻り、義賢から領地を倍増して与えられ、ついに射伝を伝授しました。

助左衛門重高は出雲守方郷ともいい、天文十八年に父の跡を嗣ぎ、佐々木承禎に仕え後に入道して露滴と号しました。天正元年に三十八才で死去しています。

重綱の代に六角氏が滅亡して吉田氏も所領を失います。道春、花翁と号し、天正十五年に二十一才で死去したと云います。武芸小伝によると、四男一女があり、四男五左衛門が備前池田家に仕えた、娘は葛巻源八郎に嫁ぎ、この人は後に吉田一水軒印西と号したとあります。

彦左衛門家勝――覚兵衛良方――+――源五兵衛経方――多兵衛経吉――源五兵衛経屋――源五左衛門経候==源五兵衛方寿――+
        寛文6    |  元禄2     元禄7    宝暦2     宝暦4      野間氏     |
               |                                  寛政12    |
               +――定右衛門忠辰                          室吉山氏    |
                                                          |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――源五兵衛方行 ――+――兵太夫方弘――+――農夫也方候――+――臺之助   ――+――  方恕
|  天保8      |  慶應1    |  明治16   |          |
|  室三宅氏     |  室鈴木氏   |  室      |          |
|           |         |         |          |
+――四郎       +――久米之丞   +――民次郎    +――婦喜      +――女
|           |  土肥家嗣   |  吉田家嗣   |  梶谷糾妻    |  
|           |         |         |          |
+――桂蔵       +――直三郎    +――男      +――於菟之助    +――静枝
|              田村家嗣   |         |  家田家嗣       名越有全妻
|                     |         |
+――女                  +――栄三郎    +――卯女
|  喜多村惣兵衛妻               家田家嗣   |  塩尻級長男妻
|                               |
+――女                            +――通
   祢屋官治妻                           江田家嫁

彦左衛門家勝については、吉田家の記録にある「五兵衛定勝」と同じだろうかとか、武芸小伝に重綱の子として記載がないので、四男五左衛門のことかと考察されています。
家勝は朝倉義景に招聘され、後に長束正家の客となりました。正家は関ヶ原で敗れて水口に籠城しますが、ここに池田輝政が攻めてきて、この時から家勝は輝政に仕え、入道して清元と名乗ることになりました。

覚兵衛(後改多兵衛)良方は池田家を辞して森忠政に仕え、忠政の死後、備中足守に来て、生石村門前に居住、藩士の弓術指南をしました。承應元年、木下淡路守利當の斡旋で池田光政に仕えることになり、長男源五兵衛経方を足守に残して、次子定右衛門忠辰と共に岡山に移りました。二百五十石の俸給をもらって、寛文六年に七十三才で死去しています。

経方は承應二年二月に木下利當に仕え、百五十石。元禄二年六十四才で死去、圓譽経方居士。延宝頃の足守藩侍帳に、
「百五十石 吉田源五良兵衛」
とあるのが経方にあたると思います。

経吉は父の跡を嗣いで足守藩弓術指南番となり、元禄七年十二月二十七日に死去、嶺雲暁山居士(足守正覚寺に葬)。

経屋(経季)は生まれつき病弱で勤務が出来なかったので、岡山から吉田源之丞が来て代行しました。宝暦二年に死去、**院暁岳居士。源之丞は源五兵衛方行が提出した「由緒書 文化九1812年)」にある和左衛門のことかと思います。



経候(源五兵衛高方)も子供の頃に左腕を骨折して勤務が出来なかったので、岡山同姓の高弟である丸亀藩主京極氏家臣野間小左衛門次男多平太を養子として弓道指南役を勤めさせました。高方は宝暦四年に死去しています。
郡誌には、「又云、源五兵衛方寿。寛政十二年歿**院**実相居士」とありますが、「由緒書」に依ると、多平太=源五兵衛方寿となるようです。妻は吉山林庵娘、夫婦養子になっています(上写真が夫婦の墓)。

方行は弓道指南及び*(槌の木扁が王扁)琢舎、側用人を勤めて新知八十石、天保八年死去、七十八才、**院義衛方行居士。
方行妻八重は岡田藩医三宅仁安の娘で、母は地理学者古川古松軒の妹です。岡田の射越屋三宅家一族の墓地に、
「仁安実父 安永八年歿年八十九 **院**三無居士」
という墓碑に並んで、
「三宅悳實母仮墓 宝暦十三年歿**院**妙義大姉 足守家中吉田方行妻建」
という石塔が建てられています。

吉備郡誌に古松軒から八重宛の手紙が二通紹介されています。

その一、閏霜月十日
「最早御出産やすやすと・・・」「我ら事日々に老衰・・・」という記述から、閏霜月は寛政六(1794)年十一月であることは明らかです。
この年には未だ方弘が生まれていません。方寿の墓碑傍らに
「夏岳童子 寛政十二年六月十六日 吉田弥之丞藤原方家」
という小さな墓がありますから、これが古松軒の手紙に出てくる八重の長男かも知れません。

その二、七月十日
これは倉敷代官を勤めた三河口輝昌の送別が記されているので文化三(1806)年の書簡のようですが、「ほんそ子」は六才の兵太夫、あるいは二才の久米之丞のことと思われます。

兵太夫(初名孫四郎)方弘は指南番、側用人、倉庫奉行を勤め、慶應元年死去六十六才、**院**感晃居士。妻利也は旧庭瀬藩士族鈴木甫祐二女です。

農夫也(初名廣)方候は指南番、旁物頭役、学校目附を勤め、維新の際に足守県少参事に任命されています。明治十六年死去、五十一才。**院**寛裕居士。
明治四年廃藩置県のときに足守県から提出された足守藩士名簿、「上禄の分(四十三人)」中、吉田農夫也が見られます。



久米之丞(太平太、隼人、号天中、吉備郡誌には天柱とある)は方行の次男で、同藩士土肥家を嗣ぎ、後に小早川氏を称して小早川秀雄と名乗りました。江戸時代に於ける吉備郡に関する地理、歴史、考古学上の貢献者の一人です。

慶長の昔、小早川金吾中納言秀秋に跡継ぎがなくて改易されましたが、足守木下氏は親戚ですから、秀秋の庶子某を迎えて養育しました。しかしその子も幼くして亡くなったので、小早川氏は断絶しました。
久米之丞はこの家を復興しようとして、小早川の宗家に当たる長州毛利家に交渉に行きました。毛利家は足守木下家に相談し、木下家は幕府に叱られては困ると断りました。久米之丞は思うようにならなかったので、しばらく不満をもらしていましたが、このような行動を再び起こされては困ると考えた親族がつとめを辞めさせました。
壮年には荻生徂徠の学問を勉強し、歴史が好きで諸家の系図は暗唱していました。絵も上手で、宇佐美流兵学に詳しく太平軍師と自称しました。兵学の講義には、砂をたらいに盛って地形、村落、城郭などの模型を造って戦の解説をしたのでたいへん評判が良かったそうです。
戦が起きたときに備えると云って、普段から飢えや寒さに耐えるような清貧の生活を送っていました。
国家老の失政があったとき、それを指摘する文を染めた特注の衣服で町中を歩きました。権力に屈しない正義感であったようです。
諸国の旧跡を探訪して遺物を集めては古今の盛衰を考察して楽しんでいました。
引っ越しの時に、近所の者が手伝いに来ましたが、貧乏なために運ぶものもありません、ただ、長い箱が三個あり重さ数十キロ、何だろうと開けてみると古瓦がいっぱい入っていました。これほど古い物が好きな人でした。
客が秀雄の家で正午を迎えましたので、秀雄は行燈に残った油で豆腐を煮て食べるように勧めました、それには灰燼が点々と混入して食べられそうもなく、客は箸を付けるのをためらっていたところ、秀雄は笑って「貴方を毒殺しようとしてはいない、もし毒があれば自分も一緒に喰うので自分も一緒に死にましょう」と笑って云いました。このようにものに拘らない人でした。
晩年は倉敷の大坂屋家の援助を得ながら歴史学の研究をすすめました。林源助永寧は久米之丞の母方従兄弟になり、永寧の養嗣子が孚一となります。この様な親族関係に加えて、秀雄の将来性を見込んだ林家の投資によるものだったと思います。大坂屋はもともと薬種商でしたが、当時は書籍も扱っていましたので、秀雄の図書館になりました。昼は遺跡を巡ったり古老を訪ねて古文書を捜し、夜は燈火の下で読書するという生活を続けました。神社仏閣の遺跡など、一般見学が出来ないものは、夜中に忍び込んで観察をしたものもあります。この様な研究の成果が「吉備国史」「吉備拾遺」などの著作ですが、一部は未完のものもあります。生前から将来の出版を計画して、その費用を財布に入れて肌身離さずにしていました。
安政二年正月四日(吉備郡誌には嘉永六年正月三日)に五十二才で死去しました。碑文に、
「権征軍師天中剛弼土肥隼人景雄 平秀院軍巧圓覚居士」
とあります(上写真が墓碑)。
遺族は秀雄が出版しようとしていたことを理解せず、原稿は四十年余放置され、明治三十年五月、沼田頼輔、山田貞芳の校訂で吉備叢書に収録されました。「吉備国史」は林家に所蔵され、賀陽郡、窪屋郡の記述は精密で高く評価されています。

「由緒書」に、「二男 葛巻九馬治郎」と記されています。葛巻(くずまき)姓は、吉田家の本姓とも云われ、又、助左衛門重綱娘の夫葛巻源八郎が後に吉田一水軒印西と称したという記録もありますので、絶家した姻戚を再興しようとしたのかも知れません。

「由緒書」にある方行の親族は、

母  吉山寿庵叔母
妻  岡田御家中三宅仁安娘
嫡子 吉田大之助
二男 葛巻九馬治郎
三男 田村直三郎
弟  作州赤野に罷在候    吉田四郎
同  当時摂州大坂に罷在候  吉田桂蔵
妹  備前御家中池田隼人家来 喜多村惣兵衛妻
同  真星村に罷在候     祢屋官治妻
伯母 蒔田備中守様御家来   中島半左衛門妻
叔母             吉山寿庵母
従弟 讃州丸亀御家中     野間鉄之丞
同  蒔田備中守様御家来   中島勘之丞
同  同           同弁左衛門
同  備前御家中土肥右近家来 野呂尾久左衛門妻
   同           石河清助母

これらを上記の系図にも組み込んでいます。蒔田家来中島氏というと小寺の中島一族と思われますが、中島家系図では確認できません。

墓地には他に庄司方敏(安政二年歿)夫婦、四郎悟(安政二年歿)と震太郎重業(安政三年歿)の合祀墓があり、悟と重業の墓には「藤原」姓が刻まれていて、吉田家由緒書にある「源」姓と異なっています。葛巻家系譜との混線も考えられ、この差異は注目に値します。
四郎悟は、「日置の源流」に源五兵衛方寿の三男、享年八十とあります。

臺之助は昭和十年十一月から翌年十一月まで足守町長を勤めています。

吉田家墓地のすぐ近くに家田家墓地があり、栄三郎義比、於菟之助義道の墓碑から上記の関係を拾いました。於菟之助義道の墓誌に「姻末吉田方恕誌」とありますので、臺之助の嗣子が方恕としました。
農夫也以後を葬った吉田家累代之墓(昭和三十一年建之)の前に、
「慶應二年五月 右に 吉田方敬 家田義明」
「佐良木尹正 吉田守方 右に 家田於菟之助 梶谷富貴 建者」
という二本の石燈籠が建てられています。


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