中塚家
浅口郡勇崎村
橘諸兄12代後流楠盛仲次男盛継より出た家で、盛継孫季継の次男が中塚二郎兵衛季治と称したといいます。
その後、大塚、小塚、中塚の三家に分かれ、大塚織部正は摂津大城の地を守り、小塚三郎兵衛季房が小塚家の祖となりました。
二郎兵衛季治は今川、大内氏に属し、その後肥後に八代居住しています。
季将、季則、季隆、季盛と大内家に仕えますが、季盛は陶治賢の反乱のときに大内義隆と共に討死します(享年五十二才)。季盛嫡子季纜は毛利家の配下となり備中猿掛城での合戦に参加するために備中へ来て、その後柏島取手の城に居城しました。季信は柏島の戦いで討死します。
長太夫季忠(正吉)は、正保年中、備中松山城主水谷家が勇崎浜を干拓開発した時に柏島小山崎から出て塩田地主となり、同地の村役人になりました。その後、一族には製塩業を主に、塩問屋、石炭商などを営んで成功していますが、一方で文芸資質に恵まれた人たちが多数輩出しています。
「中塚一碧楼研究」には、長太夫季忠の子八郎兵衛某は小山崎に残るとありますが、現在もこの地区に何軒かの中塚姓があります。
長太夫季忠の妻は柏島赤崎出宮伊左衛門娘、柏島には出宮姓がいまでも多いようです。
季安の妻は鴨方米本吉右衛門娘です。鴨方奈良屋高戸彌左衛門正吉の娘が米本与三左衛門妻とあり、西奈良屋一統の墓地がある浄光寺に、米本姓の墓碑がいくつか無縁の状態で放置されているのを見ています。
本家は「表屋」、分家に東(土手屋)と西(泉屋)の中塚家他があります。二代季安(改忠安)の子に季豊、季俊、安怱、季国の四子があり、嗣子季豊のあとが、季綱、季富となっています。
「わが家の源流を求めて」に掲載された系図に依れば、季豊のあとが、平右衛門季綱となっています。墓碑を確認してみると、延享四年に亡くなっている平右衛門という人がいますので、これが平右衛門季綱に当たるのではないかと思います。ただ、よく解らないのは、延享四年に亡くなっている平右衛門の墓誌に三宅氏本名中塚とあることです。季富と季豊はほぼ親子くらいの年代差があり、間に季綱が入れるのは少し窮屈で、季豊と平右衛門がほぼ同年代のように考え易いので、平右衛門は養子ではないかとも思います。ただ、系図に依れば、平右衛門季綱の弟が二人、それぞれ他家を嗣いだり分家していますので、ここでは平右衛門妻が三宅氏と解釈することにしました。
なお、次左衛門尉季豊の墓碑にも「平右衛門長男」とあり、平右衛門も襲名されていたようです。
季俊のあとは季宦(森下家相続)とありますが、系図に依れば、森下宇兵衛義弘三男季宦が季俊娘シュンの婿養子となり、その長子季美が伯父森下伝兵衛義時の跡を継いで玉島に居住したと書かれています。季俊のあとは季宦三男嘉兵衛季道が相続したようです。
季信――長左衛門季経――長太夫季忠――+――八郎兵衛某 貞享1 | 室出宮氏 +――女 | 渡辺又三郎妻 | +――治左衛門季安 ――+――次左衛門季豊 ――+――平右衛門季綱 ――+ | 正徳6 | 寛保1 | 延享4 | | 室米本氏 | 室 | 室三宅氏 | | | 室 | | +――女 | +――幸八郎季行 | | 金田市右衛門妻 +――長太夫季俊 | 原田家嗣 | | | 寛延4 | | +――女 | 室 +――弥四郎季友 | | 大橋三右衛門妻 | | 安永8 | | | 分家泉屋 | | +――女 +――伊左衛門安怱 +――女 | 元禄9 | | 吉井五郎右衛門妻 | | 分家土手屋 | | +――徳左衛門季国 +――女 | | 吉井五郎兵衛妻 | +――女 | | 西山家嫁 | | | +――女 | 小寺初右衛門妻離縁 | 渡辺家嫁 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | +――治左衛門季富――治左衛門季政――治左衛門季貞――+――治左衛門成功 | 文化1 天保3 天保5 | 明治8 | 室 室山邊氏 室荒木氏 | 室山部氏 | 室 | | +――助左衛門功和――+――長十郎季功――+ +――喜代 | 明治19 | 昭和20 | 荒木徳村室 | 室江草氏 | 室中塚氏 | | | | | 分家 | 分家 | +――千賀治 +――偽八 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――格太郎季就――+――誠太郎 | 昭和48 | 昭和18 | 室 | | +――光子 +――多喜 | 亀山徳吾妻 | +――昌治 ――+――庸 | 昭和40 | | 室花房氏 +――真 | | 昭和43 | | 室野村氏 | | | +――弘 +――美鶴子 | 中塚啓祐妻 | +――助夫 ――+――公恵 | 昭和50 | | 室平松氏 +――邦彦 | +――八重 | +――和子 | +――季之 | 室片岡氏 | +――年子
年代を合わせてみると、佐方荒木幸四郎徳村の妻は次左衛門季豊の娘になるはずです。その徳村のあとがよく判っていませんが、季豊の曾孫季貞の妻は同じ荒木家から来ています。季貞の母は小田郡三成村の山邊氏です。
治左衛門成功(幼名国太郎、晩年吉十郎と改名)は勇崎村八代目の庄屋として治績があります。郡内天領庄屋の中で、中原健蔵、守屋勝太郎と並んで名を挙げられます。幼い頃に父を喪い、傾きかけていた家産を復興させて弟に分産、嗣子がいなかったので跡は弟助左衛門功和に相続させています。幕藩体制が傾きつつあった頃のことで、幕府をはじめ岡田藩伊東家、松山板倉家、備前池田家、丹州亀山家などに多額の献金をして苗字帯刀の許状、裃の着用許可を得ています。
成功の妻は小田郡矢掛村山部荘兵衛三女、こちらは成功祖母の実家と関係がある家かも知れません。成功祖父季政は珠算が得意であったそうです。
長十郎季功の妻は分家土手屋から迎えられていますが、その他にも同族間の縁組みが多々あります。功和の妻は笠岡、江草四郎兵衛知見の娘です。
季功の長女多喜は総社の戎屋亀山家の宗家徳吾北峯に嫁いで一女をもうけますが、のちにその娘を連れて離縁しています。
季功の弟儀八のあとは次のようになります。
儀八 ――+――幾久 昭和14 | 室土師氏 +――千枝 | 中藤家へ | +――祐一 | 昭和51 | 室石井氏 | +――文子 | 藤家へ | +――隆治 | 大正9 | +――健治 | 荒木家嗣 | +――沿 | +――順造 平成6
儀八の妻は箭田の土師國太郎長女、早島の奥佐藤家を嗣いでいる郡次郎の姪になるようです。
土手屋も西屋も江戸時代の古い墓は本家と共に本家邸宅の裏にあり、近代の新しい墓碑は福寿院裏の墓地にあります。
土手屋は本家季安の子季国が分家した家で、代々徳左衛門を襲名しています。墓誌には三代までの妻の出所は記されていません。四代季則の妻は金田武左衛門娘、五代季永妻は備前児島郡福田古新田村(現倉敷市)石井氏です。
徳左衛門季国――団蔵季幸――徳左衛門季広――徳左衛門季則――+――徳次季永 ――+ 安永9 寛政10 天保2 安政6 | 明治11 | 室長谷川氏 室 室 室金田氏 | 室石井氏 | 室 | | +――リヨ | | 藤野愛三郎妻 | | 後離縁 | | | +――美寿 | | 安本直明妻 | | | +――女 | | 小川氏嫁 | | | +――とよ | 東盛愚一妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――銀太季成 ――+――脩一郎 ――+――康 | 大正6 | 昭和44 | 高杉俊夫妻 | 室高見氏 | 室鎌田氏 | | 室安本氏 | 室坂田氏 +――啓祐 ――+――信子 | | | 昭和58 | 難波一郎妻 +――信太季明 +――静 | 室中塚氏 | | 分家 | 中塚長十郎妻 | +――銀太 | | | | 室草地氏 +――剛吉 +――寛治 | | | 西山家嗣 | | +――桃子 | +――均雄 | | 井手喜一郎妻 +――虎太正季 | 昭和53 | | | 渡辺氏 | +――節子 | | | 守屋宏妻 | | | | | +――堅太郎 | | 室石田氏 | | | +――壮爾 ――陽平 ――正幸 | | 昭和59 室大塚氏 室尾崎氏 | | 室江川氏 | | 室田邉氏 | | | | 分家 | +――胖 | | | +――正子 | 天野春吉妻 | +――直三 ――檀 | 昭和21 平成5 | 室神谷氏 室 | +――貞 | 天野彦三妻 | +――清 | 中塚謹太郎妻 | | 分家 +――晋平 ――+――則子 昭和40 | 中塚陸平妻 室 | +――洸太郎 | +――春次郎 | 今井家嗣 | +――凡平
銀太季成は、製塩業を主とし、塩卸売捌き石炭商を営み、商才を発揮して産をなしました。一方、書画・骨董・謡曲・生花・魚釣りと多趣味な人であったようです。銀太の子や孫達が次々に文芸に秀でて名を連ねていることをみると、こういう多趣味な傾向は、おそらく季成に始まったことではないと思われます。
銀太の妻由宇は下道郡尾崎村高見順平直穀女とありますが、早世したようです。後妻は従妹になる安本さか恵が入っています。
銀太の四男直三(一碧楼)は自由律俳句の先駆者として有名な俳人です。河東碧梧桐の門に入り、同族の太々夫(実兄均雄 銀波)、響也(妹清の夫 謹太郎)、水仙籠(姉静の子 格太郎)とともに玉島組と呼ばれました。
他にも、長兄脩一郎末子萩女、姉静の二女美鶴子、四男季之も句集を発表し、二男昌治、三男助夫、末子年子も俳句を嗜んでいます。
一碧楼をはじめ、その兄弟姉妹、甥姪に至るまで、いずれも文学的才能を十分発揮した一族であることがわかります。
一碧楼は、年少のころから母親によって芭蕉や一茶や加賀の千代を知っていました。母方の祖父安本恒太直明は旧派の宗匠であったそうです。外祖父から母へ、そしてその子へと、風雅な心持が伝わったようですが、安本恒太の妻は一碧楼の大叔母にもなり、一族の文学的素質が遺伝的に濃縮され結晶したようにも見られます。一碧楼の母の弟(安本健吉)は、古典講習料の第二期生で、漢籍や古文に通じ、書をよくし和歌にも巧みでしたが、健吉の妻は明治浪漫期の代表詩人薄田泣童の姉になります。
一碧楼の末弟晋平は大正2年に「志ほや」を創立して、名物塩むし桜鯛の製造を始めました。土手屋本家の壮爾は「鯛惣」を創立しています。
本家脩一郎の妻は川上郡日里村九名坂田良一郎長女、岡山市内西川に坂田病院を開業し県下随一の外科医として有名であった快太郎とはいとこ同士になります。啓祐妻は宗家「表屋」の長十郎の娘です。
信太季明のあとは、
信太季明――+――利一 ――+――英子 明治29 | 大正1 | 中村家へ 室 | 室小山氏 | | +――裕子 +――貞治 | | 明治40 +――喜美 | | +――幾三 +――泰亮 | 明治38 | 昭和7 | | +――京 +――隆平 | | +――季夫 +――仁
西中塚(泉屋)は一時絶家になっていましたが、表中塚の治左衛門成功弟千賀治が再興しました。
その嗣子一郎は玉島町二代、四代の町長を勤めています。和歌や書が得意でしたが、郷土史研究も熱心で、『柏崎村誌』『浅口郡誌』などを著しています。
伊左衛門安怱――伊助 ――・・・千賀治季齊――+―― 一郎 ――+――繁子 明和5 文化6 明治41 | 昭和20 | 光畑幸雄妻 室 室 室高田氏 | 室北村氏 | 室中西氏 | +――謹太郎 ――+==寿夫 ――+――完郎 +――国五郎 | 昭和20 | 久山氏 | | 阿部家嗣 | 室中塚氏 | 昭和36 +――千賀子 | | | 室家女 | 鳥越家へ +――太吉 +――詮治郎 | | | 分家 北村家嗣 | +――正人 | | +――定男 +――英一郎 ――敦子 香山家嗣 平川公義妻 室旦氏
千賀治の妻すへは柏島村高田平兵衛娘、文久二年に二十六才で早世し、小田郡矢掛町中西周吉惟嘉の娘由宇が後妻に入っています。
寿夫妻妙子は一郎の養女となっています。
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