永山家
児島郡浦田村内黒石
この家は「倉敷市史」の編著者卯三郎を輩出した家で、私が系図調査をはじめた頃から知っていましたが、藤戸の日笠家や柳田の篠井家の系譜に登場することで少し注目をしていた程度です。
中島の三島家系図に黒石の味野家との縁が記されているので、味野家の系譜が知りたいと思うようになり、黒石の共同墓地を訪ねました。その折りに卯三郎翁をはじめ永山家累代の墓を発見して、少し寄り道をすることになりました。
知り得た情報を簡単にまとめて紹介していましたが、卯三郎家(原永山、仮称)先祖だろうと紹介していた墓地が実は別の永山家(向永山、仮称)のものであることを知り、私の認識に間違いがあったことが解りましたので、訂正することになりました。
原永山、向永山の呼び方は卯三郎がはじめたものだそうですが、卯三郎は墓地に下記のような先祖記を大きな石板に彫って建てています(原版は生歿年が皇紀になっています 以下に続くは私が入れた註です)。
向永山氏 荘屋一 庄屋二 次右衛門――+――助兵衛宗真――治右衛門 ――圓右衛門 元和4 | 寛永18 寛文3 貞享4 〜元禄2 | 〜享保4 〜享保17 〜享保9 | | 名主三 +――長太郎 ――三七郎――+――直右衛門 寛永12〜 承應2 | 元禄2〜 〜享保2 | | 名主四 +――宗閑 | 延宝4 | 〜享保3 | 原永山氏 | 名主五 宗春 ―― 道念禅門―― 暁覚―― +――利右衛門 ――(以下に続く) 〜延宝1 寛永9 寛文1 〜宝暦10 〜元禄9 〜享保3
熱田大宮司慶元中来住 分為二流万治中有荘屋 次右衛門陽哲同子助兵衛宗真元禄中有名主長太郎同長孫助五郎宗閑仲孫善五郎入襲原永山道念禅門之後而改名利右衛門宗譽為名主後實享保十六年也子善十郎是本孫茂左衛門正恒相承為黒石浦田両村名主役曾孫利右衛門厚徳玄孫善十郎厚幸・・・
これを倉敷市史の略系と対比させると、市史の略系は直右衛門が削られていることが判ります。
ところが、共同墓地の上の方に直右衛門から後の流れも記した石板を建てている家がありました(向永山氏、仮称以下同)。この家のご子孫からいろいろと情報を戴くことが出来ました。
卯三郎は向永山氏宅へも先祖記など問い合わされたようですが、黒石以前の先祖がどうであったのかはけっきょく不明であったそうです。しかし、倉敷市史には、藤姓で熱田大宮司家の出で、慶元年中に黒石村にやって来て、万治年間に次右衛門が庄屋となり、以後代々この地で庄屋を勤めたと記されています。
倉敷市藤戸の日笠家系図によると源右衛門猪左衛門栄行(享保廿一年三月十四日歿年七十四智覚院円照宗算居士)妻が、黒石村永山次右衛門娘(寛保二年七月五日歿年七十二理融院月洞理桂大姉)となっています。年を合わせると、上記の系図にある助兵衛宗真あたりが父親になりそうですから、宗家は次右衛門(または治右衛門)を襲名していたのかも知れません。
原永山家の墓碑を調べて下記のようにまとめてみました。
利右衛門――善十郎――茂左衛門正恒――利右衛門厚徳――+==善十郎厚幸――善太郎厚菫――+――嘉仲治厚孝――+ 宝暦10 天明8 文化14 天保8 | 内田氏 明治35 | 明治38 | 室武野氏 室井上氏 | 安政2 室内田氏 | 室金光氏 | | 室厚徳娘 | | | +――千代 | +==一郎厚載 | 内田安太妻 | | | +――女 | 永瀬家嫁 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==卯三郎厚道――+――太郎 ――男 白神氏 | 昭和33 室山崎氏 昭和38 | 室板野氏 室厚孝娘 | 室浅野氏 +――女 室大西氏 篠井尚一妻
「性観道念禅定門 元禄九年」という墓碑は、利右衛門が嗣いだ原家の先祖のようです。即ち、利右衛門は永山家から出て原家の資産と祭祀を嗣ぎましたが、実家の姓をそのまま名乗ったわけです。この背景にどの様な経緯があったのか判りませんが、「姓と共に養子を所望される」ということもあったようです。既に、四代に渡って永山姓の者が名主を勤めているので、利右衛門が名主を引き継ぐにあたっても永山姓の方が都合が良かったのかも知れません。
厚徳筆「諸願控案文留」には、享保十六年に浦田村内黒石名主味野(みの)武左衛門が死去し、同所五人組頭利右衛門を黒石名主に任命するので、大庄屋林村(佐藤)九郎兵衛は利右衛門を連れて役所に出頭するようにという記録があります。また、その後に、利右衛門が名主に昇進して空いた五人組頭の席は入札(=選挙)にて決めなさいと云うことも記されています。備前藩においては、享保の頃から村役人公選が行われていたようです。
宗譽の孫正恒は黒石と浦田の名主を勤め、文化十四年に死去しています。
その跡を子の厚徳が引き継ぎます。厚徳は文政三年に大庄屋に任じられ、興除新田干拓を行った功績により同八年には十八ヶ村を統べる大庄屋となって苗字帯刀を許可されています。興除新田は児島郡の五人の大庄屋、すなわち、迫川村上野八郎平、八浜村野田亀五郎季美、槌ヶ原大塚太兵衛、北方村合田千右衛門と黒石村の永山利右衛門厚徳が総引請となっています。天保六年には福田新田干拓の建白書を提出しています。
厚徳には男子がいなかったので、長女に茶屋町内田幸度の子善十郎を婿養子として迎えていますが、この善十郎も文政十年に黒石名主、天保八年に黒石他十二ヶ村の大庄屋に任じられ、嘉永五年に苗字帯刀を許されています。善十郎厚幸の実母は胸上井上氏ですから、利右衛門厚徳妻の実家も胸上井上家かも知れません。
その後は嘉茂治が黒石、浦田、東塚の名主を勤めて明治維新を迎えています。嘉仲治も戸長・村長を勤めますが、そのあと下道郡市場村の白神孝正三男卯三郎が養嗣子となって継いでいます。
卯三郎は、岡山県師範学校を卒業、倉敷精思高等小学校訓導として働きながら中等学校検定試験に合格、二十七歳で母校の教壇に立ちました。以後、岡山県内の金石文、考古資料、民族資料などを精力的に調査研究をしています。著書に、「岡山県通史、上下」「岡山県における条里の遺跡調査報告」「岡山県金石史」「岡山市史」「吉備郡誌、上中下」「岡山県農地史」「倉敷市史」などの大著があり、郷土史研究家の神様のような存在です。私も全十一巻に及ぶ「倉敷市史(これは復刻版で、もとは二十二冊に分かれていた)」を持っていますが、「岡山県農地史」なども郷土の開墾干拓等に関わった一族先祖の足跡を知る上でたいへん参考になりました。
厚徳は、次女に養子を迎えて分家(新宅)させています。
一郎厚載 ――嘉太郎厚光――+――嘉平治 水川氏 大正7 | 大正7 明治21 室友野氏 | 室 室厚徳次女 | +――茂世 秋山文治郎妻
この分家の累代墓に入れられた紋は「重ね菱に橘」です。
さて、向永山氏の系図は次のようになります。ご子孫から提供を受けた系図には各代の生存年代が記されていませんので、墓碑から判読出来たものを書き入れてみました。文化七年歿の三郎治と元禄二年歿の直右衛門の間には年数にして二〜三世代の開きがありますが、系図では一世代となっています。また、原永山の系図と並べてみても約一〜二代のずれがあるようで、下記の系図はもう少し検討が必要かも知れません。
治右衛門――+――助兵衛宗真――治右衛門 ――圓右衛門 元禄2 | 享保4 享保17 享保9 | +――長太郎 ――三七郎――+――直右衛門 ――+――十兵衛 ――+――和介 享保2 | 元禄2 | | 新田分家 | +――善右衛門 | +――助五郎宗閑 +――三郎治 ――+――十次郎 | 享保3 | 文化7 | | | +――三郎治――+ +――利右衛門 +――新介 安政3 | 原家嗣 | 後永山改姓 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――民次郎 | +――紋吉 ――+==富太郎 ――+――九平治 | 天保11 | 味野氏 | 明治30 | 室星嶋氏 | 明治37 | | | 室紋吉娘 +――紋次郎 ――+――美好 | | | 大正5 | | | | 室中桐氏 +――準一 | | | | 昭和60 | | +――弥太郎 | 室 | | | | | | +――伊久 +――哲良 | | | +――元 | +――直平治
家紋は「六丁字(車)」で、原永山とは異なっています。
和介 ――和平――和平 ――+――重平治 文化14 天保8 | +――重左衛門――和平忠道――+――改十郎 ――+――嘉槌 | | +――義舞 +――勇 | 際太郎妻 | | +――安子 +――太嘉次 | +――徳一
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重平治――弥平治 ――+――たか 明治4 明治18 | 室 室小林氏 +――幸平 ――重平治 | 大正10 昭和7 | +――際太郎 ――+――寛 昭和2 | 昭和15 室永山氏 | +――まつえ | +――精一 | +――四郎 | +――博
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