大山家
小田郡甲弩村
賀陽郡生石村三手、石橋渡邉分家の血脈を検討する過程で調べる必要を感じました。墓地には渡邉家除籍にある仙右衛門という通称を刻んだ墓碑が二基見つかりました。千右衛門泰會の家(下記)の隠居分家になるそうす。
仙右衛門 ――+――琴 | 谷元一郎妻 | +――仙右衛門泰清――仙右衛門泰盛――槌右衛門――+――公淳 | 文久1 明治44 明治37 | 平成4 | 室 室大塚氏? 室小西氏 | 室 | 室中村氏 | | +――女 +――佐登 平井儔妻 渡邉是則妻
佐登は
「小田郡甲弩村大山仙右衛門伯母亡仙右衛門三女」
とあり、墓碑から泰清の生存年代(1810〜1861)が判りますので、琴(長女)、泰清(長男)、佐登(三女)と並べてみました。
是則の孫になる輔の実家(大塚家)に、次のような墓誌があります。
「三女適甲弩村大山泰蔵」
これは慶應三年に七十一才で亡くなった(1796〜1867)唯七正久の墓誌文です。泰蔵=仙右衛門泰盛かどうか不明ですが、泰盛妻に大塚氏が迎えられたことで、大塚家と渡邉家を結ぶ糸が出来たのではないかと考えてみました。
上記系図の仙右衛門は鈷右衛門美朝の生存年代を参考にして(1783〜1833)、下記系図の勇平に相当すると思いますが、神護寺には該当墓碑がみつかりません(下記系図は吉田氏の系図を参考)。
千右衛門泰會==庄蔵美冬――+――保左衛門美算――+――鈷右衛門美朝――+――美孝 天明3 鈴木氏 | 天保10 | 天保4 | 室池田氏 室 寛政6 | 室星野氏 | 室桑田氏 | 室泰會娘 | | +――鈷右衛門――ツギ 室小倉氏 +――庄蔵 +――勇平 | 大正4 明治44 | 三宅家嗣 | 分家 | 室西家氏 | 後甲弩村分家 | | | 文久3 +――女 +――タニ | 室名越氏 | 妹尾半十郎妻 | 河合健造妻 | | | +――女 +――ハヤ +――トラ 若林孫次郎妻 | 児玉順蔵妻 妹尾和十郎妻 | +――女 | 中村氏妻 | +――圭蔵 松井家嗣
千右衛門泰會は寛保三年に神護寺に大灯籠を寄進しています。
庄蔵美冬は浅口郡阿賀崎村三宅鈴基氏の子と系図に記されています。妻郷は泰會の娘ですが、安永二年に亡くなり、後妻利野が入っています。利野は備中松山大場屋小倉孫七の娘で一男一女を生んで、寛政三年に三十五才の若さで亡くなっています(1791-35=1756)。この小倉家は太田直七郎巌妻由加(上房郡松山小倉宗七郎豊延之女 文化二年歿年二十八1805-28=1777)の実家と何か関係がありそうに思います。
保左衛門美算の母は郷で、その妻は備後福山紀ノ国屋星野太郎右衛門の長女です。美冬の次男は父の実家を嗣ぎ、後に故有って甲弩村に分家しています。その妻は名越禎蔵妹です。美冬の娘は岡山石関町赤穂屋若林孫次郎妻となりました。
鈷右衛門美朝の妻美壽は沼隈郡山南村亀山桑田栄次三女で、二男三女を生んでいます。勇平同村内に分家、ハヤは岡山藩伊木家侍医児玉順蔵の妻となり一女を生んでいます。ハヤの妹は伊豫下山削村中村氏へ嫁いで二男一女がありました。圭蔵は広島藩医松井俊卓の養子となり松井マチを妻として尾道松井家を嗣いでいます。一男二女がありました。
鈷右衛門の妻千久は川上郡西柚野村西家半蔵の三女です。タニは備中笠岡河合健造妻となり二男がありました。
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