若林家・赤穂屋
岡山城下石関町





岡山城下石関町に住んで藩御用達も勤めた豪商で、多くの文人を輩出しています。

安永六年に四十四才で死去した正武の墓標によれば、姓は中原氏、十三世の祖「貞元」は室町幕府足利氏の家臣で、伊賀州若林城にいたので姓を若林と名乗ったと書いてあります。戦国時代末、次郎右衛門正雄が西国へ下向、毛利氏に仕えましたが、御野郡明見山(妙見山)で宇喜多氏と戦って敗れ、同郡宿に住み、正雄の孫正時が江戸時代になって岡山城下の下出石町に移住しました。

その後、正徳二年、正賀の時に間口十一間の家を建てて石関町に移住しています。当時の生業は酒造、金融業で、後に諸者問屋も営んで、正晁の時から藩へ融資の功績で扶持を受けています。
正賀妻俊(字栄寿)は島村宗休居士の娘で、嫁いで数年して正因をもうけますが、その数年の後に夫が死去、その時正因は十一才でした。俊は宝暦十二年に七十一才で亡くなっています。

正因(字徳甫、号麟州)の妻紋は備前岡山の大村備正娘(寛政六年歿七十六才)で、夫婦には娘が二人、跡は正武が嗣いでいます。正因夫婦の墓前に灯籠が建ててあり、その銘に
「宝暦十二年六月 斎藤義厚 島村安本 若林正恭 若林忠亮 石原完素」
とあります。正恭は正因従兄弟の子、忠亮は備正の養嗣子ですから正因とは従兄弟同士です。島村は正因母の実家ですから、安本も正因従兄弟くらいの間柄の人、そうなると、正賀の姉妹が斎藤家と石原家に嫁いでいるのではないかと思われます。

正武(字素一、号謙亭)は岡山の山下伯正の子で、
「贅徳甫之宗人其冒姓若林氏今尚無恙(伯正は安永七年歿)君其第三子也」
とあります。正因墓碑にも
「宗人之子正武為後」
とありますが、宗人の意味がよく解りません。

正武には五男二女があり、長男正晁、次男直助の他男子は皆夭死しています。正武の妻瀧は正因長女で、安永六年に三十八才で死去しています。
正因の次女秀は延享元年生まれ、幼時から外祖父大村備生の養女となり、平松正栄の次子忠亮を婿に迎えて季左衛門(喜左衛門忠辰)をもうけていますが、忠辰が寛政元年に三十八才で亡くなり、実家の兄正旭の家で文化八年に六十八才で死去しています。

正晁(字子陽、号叢亭、通称朴介)は正武の長男として岡山城下石関町に生まれました。父の跡を継いで諸物問屋を営み、藩の別改扶持人として七人扶持を受けました。漢詩、和歌を好んで、別宅でたびたび詩会を催しました。全国を遊歴して多くの著名な学者・文人と交わり、多くの旅行記を書いたようですが、散逸して現在は残っていません。江戸の儒者・市川米庵が文化十年に正晁宅を訪れたときには、数十人が集まり夜中まで話がはずんだといいます。当時の岡山文化サークルの中心的な人物でした。市川米庵のほか江戸の蘭画家司馬江漢、奥州白河藩の儒官広瀬蒙斎、大坂の文人木村兼葭堂らの日記、旅行記に朴介の名が多く記されています。寛政九年には邑久郡邑久郷吉塔(現岡山市)に尚友居と号す別邸を建て、文化九年には西吉塔村の東北に「白露井」という井戸を掘っています。
正晁の妻與利は岡山仁尾屋入江永祥の長女で、実兄と共に伯父興芳の養女となっていました。祖父永次(道圓)には一男五女があり、長男永祥は故有って家を嗣がずに同町に分家しました。永次は甥の平松興芳を自分の長女の婿養子として家を嗣がせましたが、夫婦には子がなかったので、永祥の息子永芳と長女與利を自分の子にしていました。與利は天明元年冬に正晁に嫁ぎ、生一男右作をもうけますが、幼くして亡くなっています。與利は文化九年に四十九才で亡くなっています。

正旭(字子明、通称直介、後徳左衛門、素一)は正武の二男として岡山城下石関町に生まれました。病弱な兄正晃の跡を継いで、諸物問屋を営み、藩の別改扶持人として七人扶持を受けました。和歌をはじめ木下幸文に学び、天保九年四月、香川景樹の門下となりました。吉備地方最大の歌集といわれる『類題吉備国歌集』に2首収録されています。蹴鞠を京の公家飛鳥井・難波両家に学び、その技法を伝えました。跡は兄正晃の子恒太郎が継いでいます。
正旭の妻多美(千世)は、美作津山の玉置教韶の次女です。祖父玉置恵吉に一男四女があり、備中矢掛中西氏の男教韶をその次女の婿養子として迎えて跡継にしました。多美は安永三年の生まれで、十七才で正旭の妻となり一男周吉をもうけました。寛政十年夏、津山の実家に行った時に病歿しています(享年二十五)。同年十月十二日のことで、柩は十六日に若林家に戻り葬られました。

正武の長女雍は明和二年の生まれ、幼時に伯父正房の養女となり、安永九年冬に難波氏の子正好を婿に迎え、一女をもうけますが故有って天明六年春に実家に戻っています。寛政二年に備前児島八浜村平岡家で病歿、同村蔵泉庵側に葬られました(享年二十六)。実家にはその頭髪を埋めた墓碑が建てられています。八浜平岡家墓地を訪ねると、同じ戒名を刻んだ墓碑があります。

正武の次女貞は明和九年の生まれ、寛政二年に備中三須村福武義行に嫁ぎ、同三年に病歿して三須村明光寺に葬られました(享年二十)。実家にはその頭髪を埋めた墓碑が建てられています。明光寺を訪ねると、同じ戒名を刻んだ墓碑があります。

正旭の後妻古代(奈遠、紋)は入江彦兵衛平征の長女で、明和五年生まれ、享和二年春に正旭妻となり、文化三年に三十九才で死去しています。入江彦兵衛は備中井原の柳本家から入江家の娘婿養子となり二女をもうけています。

正旭の後妻絹は備中吉浜村(笠岡市)の仲尾郡蔵信義の長女で、安永七年生まれ、文化四年夏に正旭妻となり、文化八年に三十四才で死去しています。信義は備中船尾村の岡氏で仲尾家の娘婿養子となり二女をもうけています。

正旭の後妻貞は児島郡八浜村の平岡穀忠の長女で、安永六年生まれ、文化十年に正旭妻となり、天保十年に六十三才で死去しています。穀忠は備中国西江原村難波政方の子で、平岡敷忠の娘婿養子となり二男二女をもうけています。

入江家、玉置家、平岡家の三代に渡る系譜が縁戚の若林家の碑文に詳細に記されているわけで、こういうものを目にすると、縁戚関係があった家を調べる価値がよく解ります。

正旭と玉置多美の間に出来たただ一人の嫡子周吉は享和元年に五才で亡くなり、兄正晁の子正統を跡嗣にしました。

次郎右衛門正雄――喜右衛門正忠――+――徳左衛門正時――+――徳右衛門正孝
                 |          |  上之町分家
                 +――又左衛門正道  |
                    石関町分家   +――清右衛門正賀――徳左衛門正因――+==素一正武 ――+
                            |  室島村氏    宝暦11    |  伯正三男   |
                            |          室大村氏    |  安永6    |
                            +――備正              |  室正因長女  |
                               正道跡嗣            |         |
                                               +――秀      |
                                                  大村家嗣   |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――朴助正晁 ――+――恒太郎
|  文政9    |  正旭跡嗣
|  室入江氏   |
|  妾小笠原氏  +==義兵衛正方――+――悦
|            玉置氏    |  正旭養女に
|            元治2    |
|            室正好娘   +――鈴子
|            室入江氏      生長泰周妻

+――直介正旭 ――+――周吉
|  弘化2    |  享和1
|  室玉置氏   |
|  室入江氏   +==恒太郎正統――弘太郎正弘――倭文
|  室仲尾氏   |  正晁男           片山廣斗妻
|  室平岡氏   |  明治4    室佐伯氏
|         |  室難波
+――雍      |  室平岡
|  若林正好妻  |
|         +==正倫
+――貞         桑田氏後生長家嗣
   福武義行妻     室悦

正統(字千卿、号竹亭、称恒太郎)は正晁と妾小笠原氏との間の子で、正晁弟正旭の跡を継いでいます。

正統の妻喜波は備中国後月郡西江原村の難波純忠の娘で、母は備後國沼隈郡山南村の桑田氏です。文化十二年の生まれで、天保四年に十九才の若さで亡くなっています。

正統の後妻栄は児島郡蜂浜(八浜)村の平岡克忠の長女で、母は同村那須氏です。文政四年生まれで、正統との間に三男六女をもうけ、安政三年に三十六才で病歿しています。

正統の碑文に「孝子正弘建」とあり、正弘とその妻佐伯氏、正禮とその妻天野氏とのみ刻まれた墓碑がありますので、その後のことはよく解りません。ただ、高沼村片山家の墓地に「廣斗:和気町秋山仙造長男昭和十九年歿年七十二、室倭文岡山石関町若林弘太郎次女母錬昭和四十年歿年九十」という墓碑があり、倭文が正統の孫くらいの年代になりますので、弘太郎=正弘と解釈してみました。
明治十八年の天皇岡山行幸では、若林家の屋敷は供奉員宿舎第九号に指定され、宮内大書記官堤正誼ら八人が泊まっています。

正統の六人の娘の内、長女と四女をのぞいて全て幼くして亡くなっています。長女直は同族正當の妻となり一男子をもうけていますが、この子は幼くして亡くなり、直も文久三年に二十六才で死去しています。

正晁の跡は、正好に嫁いだ妹の娘振(慶、信)を養女とし、美作津山の玉置教武の子義兵衛正方を婿養子にして嗣がせています。振は天明六年生まれ、一女をうんで文化二年に二十才の若さで亡くなりました。墓碑には「瑤臺妙大姉」と刻まれています。「瑤臺妙 大姉」で、一文字彫り忘れたのでしょうか。
義兵衛は後妻入江氏を迎えますが、この人も天保七年に死去しています。

正方と振の間に出来た娘悦は正旭の養女となり、備後州三名(山南)村の桑田正倫を婿養子に迎えましたが、故有って夫妻は備中国笠岡村生長家を嗣いで、一男市太郎をもうけました。悦は文化二年の生まれ、文政十年に二十三才の若さで亡くなり、笠岡村寿正院葬られました。実家にはその頭髪を埋めた墓碑が建てられました。
義兵衛正方は上之町の新分家で紙仲買を商っていました。

石関町の分家は天和三年に立家して名主を勤めています。三代七郎治の時から藩への融資の功で扶持人となりました。生業は質商でした。

大村      大村改若林
又左衛門正道==喜右衛門備正――+――紋
享保10    正時の子    |  若林正因妻
室井川氏    明和1     |
        室石原氏    +==七郎治忠亮 ――+――喜左衛門忠辰
                   平松氏     |  寛政1
                   文化10    |
                   室正因次女秀  +――純
                   室       |  天明5
                           |
                           +――日野
                           |  安政5
                           |
                           +――治郎介吉貞――+――美津
                           |  天保9    |  倉知正則妻
                           |  室大村氏   |
                           |         +――孝太郎正貞==正豊久
                           |            安政5    石原氏
                           |                   明治33
                           |                   室
                           |
                           +――三郎介忠貞
                              文化14

大村又左衛門正道夫婦墓前の灯籠に
「井上定長 若林備正」
の名が刻まれています。
大村喜右衛門備正夫婦墓前の灯籠に
「井上長之 伏見明都 石原喜之 若林正恭 若林正武」
の名が刻まれています。

美津は天保九年九月、作州奥村の倉知正則に嫁ぎ、十二月八日病の床につき同十七日に亡くなっています。享年は二十二才でした。
豊久は八世石原弥三郎二男とあります。明治三十一年に亡くなった平妻久美という墓碑がありますので、平=正と解釈しています。
上記の、石原喜之の他、正因夫婦の墓前灯籠に記名されている「宝暦十二年六月 石原完素」、正恭妻(享和二年歿)石原里、備正妻(宝暦八年)石原氏など、おそらく全て同じ家ではないかと思います。

上之町分
家は薬種商と書肆を営んでいました。

徳右衛門正孝――+==権次郎     ――徳右衛門正恭――徳右衛門正直――徳右衛門正輔
享保18    |  某氏        寛政10    文化12    嘉永1
室山下氏    |  室正孝娘善     室石原氏    室大森氏    室藤田
        |
        +==伯正   ――+――和七郎正房 ==正好    ――振
           山下氏    |  文化5     難波氏     正晁養女に
           安永7    |  室玉置氏    室正武娘
           室正孝娘善  |
                  +――正武
                     正因跡嗣

正恭実母幾(寛政三年歿七十九才)という墓碑がありますので、正恭も養子かも知れません。
正恭(字子敬)は妻石原氏との間に子がいませんでしたので、山下氏の子正直を跡嗣にしています。
正輔妻は備中屋藤田半十郎娘津宇、この代で絶家したので、藤田家に祭祀が引き継がれました。

以上の他、岡山県人名辞典(山陽新聞社刊)には、秋長(任有亭・己桃軒また孤桃軒と号し、法名を善勝、後に玄如 安永七年生天保四年正月七日歿)の紹介文があります。


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