谷(谷本)家
小田郡下稲木村
小田郡誌の庄屋、村役人一覧に拠れば、下稲木村は、
元禄十三年 傳四郎
正徳四年 孫七
其後谷本五郎右衛門庄屋たり
安政−文久 谷元一郎、谷宇平次
明治三年以後 谷嘉一郎
となっています。
下稲木谷家の先祖は大永五(1525)年に死去した右衛門尉正澄までさかのぼれることになっています。その子藤兵衛は永禄二(1559)年歿、その後不明世代が続いて五郎右衛門(新屋敷)、九兵衛(小迫)、市兵衛(宮之前)の三兄弟がそれぞれ分かれて同村内に居住しています。
右衛門尉正澄――藤兵衛・・・――+――五郎右衛門 大永5 永禄2 | 新屋敷祖 室 | +――九兵衛 | 小迫祖 | +――市兵衛 宮之前祖
同地区岡本妹尾家の系図に、延元元(1336)年に九十一才で死去した小兵衛兼久妻が谷久兵衛孝善の嫡女とあり、享和三年に七十三才で死去した五郎四郎正直が谷孝直の三男となっています。正直の娘は下記の川土井三代菊治妻となっていますから、久兵衛孝善も孝直も共に同じ下稲木谷家の先祖ではないかと思われます。そうすると谷家は右衛門尉正澄よりも更に二百年さかのぼることが出来ます。
三十二代崇峻天皇が蘇我馬子に対抗して軍を挙げた時、その子蜂子皇子は外祖父の一族(大伴氏)と共に伊豫國川之上(川之江)に逃げ民間に潜み大伴姓を名乗って暮らしたとあります。
蜂子皇子より三十二世の孫大伴衛門祐直正は、故あって清水氏を名乗ります。その子清水三郎右衛門は二千石の地を領有していました。三郎右衛門に二人の子があり、長男が新左衛門正道、次男が右衛門正澄、二人の母は源姓谷朝信ですが、正澄は跡継のいない朝信のあとを継ぐことになりました。応仁の乱で国中が乱れ、細川氏の残臣が略奪を繰り返していたので、右衛門尉正澄は伊豫を出て備後三原を経て下稲木へ入りました。宇才田という十八町の土地はその領地であったと言い伝えられます。正澄は大永五(1525)年に死去しています。正澄は伊豫から天神十二柱を北山の頂上に移して谷家の鎮守としました。
上写真は、左端が市兵衛夫婦、中央が右衛門尉正澄の記念碑です。
新屋敷
谷本 谷 谷本 五郎右衛門 ――五郎右衛門 ――五郎右衛門孝直――+――五郎右衛門 ==五良右衛門重賢――+ 明暦1 宝永3 享保12 | 享和1 塩飽氏 | 室 室 室 | 室 文化9 | | 室家女 | | | +――男 | | | +――五郎四郎 | 妹尾家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 谷 谷 谷本 +――五良右衛門直行――+――元一郎清方――嘉内 ==近平 ――+――満寿夫 | 文政13 | 明治11 大正3 西平氏 | 昭和40 | 室平井氏 | 室大山氏 室武本氏 昭和20 | 室西平氏 | | 室嘉内三女 | 室松浦氏 +――蜜 +――男 | | 塩飽林蔵妻 | +――昇 | +――男 昭和45 +――順蔵重明 | 室源氏 | 分家 +――謙 | | 中藤家嗣 +――女 | 後復籍 田中領右衛門妻 | +――儉吾正行 小西嗣
元一郎妻琴は小田郡甲弩村大山仙右衛門長女、明治二十九年に九十六才で亡くなっています。渡邉善右衛門是則妻佐登(小田郡甲弩村大山仙右衛門伯母亡仙右衛門三女)の姉のようです(文政四年生)。
昇は日大英文科を出て、関西外語学院を創立し、関西外国語大学発展の基礎を作っています。
分家小西
谷 順蔵重明――+――亀之丞 弘化3 | 文政6 室塚本氏 | +――里加 | 塩飽磯次郎妻 | | 小西 +==儉吾正行――+==柏之助 ――+――袖 明治39 | 難波氏 | 塩飽多賀平妻 室平井氏 | 明治42 | | 室正行長女善 +――應一郎 ==仟 | | 大正8 塩飽氏 +――福太郎 | 昭和18 | 明治10 +――伯次 室守屋氏 | | 昭和5 +――るい | | 平井政太郎妻 +――小枝 | | +――卯野 +――静枝 | 塩飽林蔵妻 | 大正3 | | +――登志 +――喜千 大山槌右衛門妻
重明妻夏は西濱村塚本猪右衛門娘、儉吾妻は下記の東江原村平井六左衛門盛實の孫娘です。
小迫
九兵衛 ――六右衛門 ――+――九兵衛秋良――+――九兵衛 ――+――九兵衛宗良――九兵衛延良――+ 元禄8 享保10 | 延享5 | 天明6 | 文化13 天保7 | 室亀川氏 室重政氏 | 室 | 室猪原氏 | 室片岡氏 室重政氏 | | | 室 | 室池田氏 | +――孫次郎 | +――菊治 | | 分家川土井 +――幸十郎 | 川土井嗣 | | | 分家川土井 | | +――本寂 | +――甚蔵 | 西光寺中興 +――女 | 猪原家嗣 | | 舟橋伊右衛門妻 | | | +――勇助重賢 | +――女 分家富芳 | 瀬尾金太郎妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――六右衛門利良――+――利惣太利良――+――宗太郎 ――+――忠 | 安政4 | 明治39 | | 昭和49 | 室池田氏 | 室池田氏 | 室 | 室 | | 室三宅氏 | | 室 | | +――恒次 | +――九平 +――絹 | 昭和24 +――二男子 明治32 菊池親典妻 | | 室守屋氏 +――女 +――嘉志夫 | 小野革右衛門妻 小川家嗣 | +――女
九兵衛は藤兵衛八世孫とあります。元禄八(1695)年に死去していますが、藤兵衛の歿年との差が百三十六年ですから、せいぜい間は四、五代にしかならないと思います。かなり言い伝えも混乱しているようですが、戦国時代はどこの家もこの程度です。九兵衛の妻は笠岡の亀川又左衛門女、元禄三年に死去しています。
二代六右衛門の妻は備後上御領の重政氏です。
三代九兵衛秋良の兄弟孫次郎は分家して川土井と称し、本寂は西光寺に入りました。
五代九兵衛宗良の兄弟、甚蔵は後月郡井原町清迫の猪原家を嗣ぎ、勇助重賢は分家して富芳と称します。宗良の妻傳は宇内村の片岡定四郎娘で、嘉永元年に九十二妻の長寿を全うしています。東江原村平井六左衛門盛實の妻志茂が
「宇内村片岡定四郎娘 天保十二年歿年八十六 **妙智大姉」
となっていて、志茂と傳は姉妹のようです。定四郎は未確認ですが、宇内庄屋の片岡氏一族だろうと思います。
六代九兵衛延良の妻は備後神辺の重政新右衛門娘、後妻カルは川面村池田甚右衛門娘です。
七代六右衛門利良の妻カツは川面村池田喜代吉娘、嘉永二年に早世、利良もまた安政四年に亡くなり、長子利惣太は伯父の世話で成長し、明治九年に保長、同十二年戸長、同二十八年に稲倉村長となって村政に携わりました。利惣太妻伊加は川面村池田虎三郎娘です。利惣太を後見した伯父は八世九平を名乗り、妻常は大井村(笠岡市東大戸)守屋嘉助娘です。
利惣太には二男二女があり、長男宗太郎が跡を嗣いでいます。
富芳
勇助重賢――+――桂助重俊 文化11 | 分家芳兼 室川合氏 | +――京 | 舟橋伊右衛門妻 | +――勇助重久 ==勇助為憐――+――多加 安政7 池田氏 | 後藤郡右衛門妻 室 明治21 | 室川合氏 室重久娘 +――村 室 | 池田虎三郎妻 | +――右太郎 ――+――源四郎 ――+――邦一 ――+ | 明治36 | 明治24 | 昭和31 | | 室池田氏 | 室三宅氏 | 室谷氏 | | 室 | | | | +――常 +――常男 | +――半次郎 谷野高三郎妻 | 室守屋氏 | | 分家芳常 | | | +――勇 | +――三郎 | 渡米 | | 近江家嗣 | | | +――清 | +――君 | 橘淑太妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――勇助 | 昭和50 | 室中本氏 | +――菊枝 | 高橋直利妻 | +――巌 | 昭和19 | +――君恵 | +――文晁 | +――正明
富芳初代勇助重賢の妻房は大江村川合仲象娘です。長男桂助重俊は分家して芳兼を称し、跡は勇助重久が嗣いでいます。重久の妻ヨシは文化十一年に二十三才で早世、後妻美代は大江村川合京右衛門娘、この人も天保四年に亡くなり、三妻多賀が入っています(明治八年歿)。為憐は後月郡準井山下屋池田真右衛門次男で、重久と美代の間に出来た娘ミツノの婿養子として入家しています。為憐娘村は西川面村真家池田虎三郎へ嫁ぎ、その娘伊加が本家の利惣太妻となっています。
富芳四代右太郎妻床は小田郡川面村(安精)池田茂平治四女です。
五代源四郎妻久野は後月郡足次村の三宅栗夫妹です。この夫婦は明治二十四年、同二十五年に相次いで若くして亡くなりました。
六代邦一の兄弟は両親が早く亡くなって苦労したようです。邦一の妻石は分家芳兼の亀太郎俊兼長女です。
常男、勇の兄弟は移民として渡米して、サンフランシスコで亡くなりました。この次男「信男」が、鹿児島県出身の重野彦熊と兵庫県出身の田小佳の次女佐和子(ローズ)と結婚して生まれた末男がダニエル・道男・谷(Daniel
Michio Tani)宇宙飛行士です。小佳は参議院議員「田英夫」の父「誠」と二いとこの間柄です(参考)。明治の頃に渡米した日本人の子孫というと、ずいぶん欧米人の血が混ざっていると思いがちですが、日本民族同士の結婚を繰り返しています。
芳兼
桂助重俊==桂介景俊――+――源吾 文化2 守屋氏 | 守屋家嗣 室猪原氏 慶應3 | 室重俊娘 +――輝 | 目崎佐五市妻 | +――操 | 守屋仲太郎妻 | +==佐次郎俊政 ――+――亀太郎俊兼 ――+――石 | 高橋氏 | 昭和4 | 谷邦一妻 | 明治37 | 室安原氏 | | 室景俊三女 | 室諏訪氏 +――桂介 | | | 昭和26 +――千里 +――美登利子 | 室目崎氏 目崎実太郎妻 | 西村準三郎妻 | | +――峯代 +――清子 | 谷勇妻 | 鈴木秀次郎妻 | | +――為蔵 +――志郎 | 室 高橋家嗣 | +――孝平 室鳥井氏
初代桂介重俊の妻は猪原甚蔵娘千代で、二子が生まれた後、桂介が二十八才の若さで亡くなり、簗瀬村の山成友蔵と再婚しました。
重俊は富芳初代重賢の嫡男で、谷家の血を引く従妹千代と結婚しましたが、重俊が早世して千代が残されましたので、千代に婿養子友蔵を迎えて相続をはかったのかも知れません。ところが勇助重久も立派に成長して居心地が悪くなったのか、友蔵夫婦は娘を残して簗瀬に戻ったのではないでしょうか。そこで、残された一女に婿養子を迎えて富芳の分家として芳兼を立てたのではないでしょうか。
二代景俊は備中小田郡大戸村守屋正虎の二男で、重久に迎えられて、重俊の娘峯の婿養子となりました。夫婦には一男四女がありましたが、嫡男源吾は父の実家を嗣ぎ、三女須恵子に小田郡吉濱村高橋廣八郎の次男佐次郎を迎えて跡を嗣がせました(俊政)。長女輝は御領村の目崎佐五市へ、次女操は大戸村の守屋仲太郎へ、四女千里は目崎実太郎へ嫁いでいます。この実太郎と千里夫婦の孫に、浩宮、礼宮、紀宮の出産の責任者鉱太(宮内庁病院産婦人科医長)がいます。
俊政夫婦には三男二女があり、長男亀太郎が家を嗣ぎ、次男治助は早世、三男志郎は父の生家高橋家を嗣ぎました。長女美登利子は甥の西村準三郎へ次女清子は東京の鈴木秀次郎へ嫁ぎました。晩年は東京に住み、神田区小川町で亡くなっています。
亀太郎俊兼の妻仲は備後國芦品郡万能倉村安原真三郎二女ですが、一女石を生んで明治二十三年に二十三才で亡くなっています。後妻お関は高松士族諏訪鹿三妹です。
五代桂介の妻は目崎則男次女、二いとこ同士の結婚になっています。
川土井
傳右衛門邦説==幸重 ==菊治 ――傳右衛門――+――傳右衛門 ――吉郎治 宝暦12 秋良男 宗良弟 天保7 | 明治14 大正13 室 享和1 享和3 室細羽氏 | 室 室 室 室妹尾氏 | +――碌 平井竹二妻
川土井の墓地を見ると、傳右衛門が二代襲名されているのが判りました。三代九兵衛秋良夫婦の墓碑の並びに、
「**了夢 宝暦十二年 谷本傳右衛門邦説」
という墓があります。秋良兄弟孫次郎が後に傳右衛門邦説と名乗ったと解釈しました。
系図には本家四代九兵衛の兄弟幸十郎も分家川土井とありますが、
「**智禮信士 享和元 谷本幸重」
という墓に相当するのではないかと思います。
菊治夫婦の墓碑からは年代を追って上記のように並べてみました。
天保七年に死去した傳右衛門妻は後月郡出部村の細羽吉郎治乙信の娘直で、
「昭和八年三月外孫蔵内静三郎建之」
となっています。
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