山路家
備後国沼隈郡藤江村
山路家の先祖は北畠氏と云われます。秀吉が柴田勝家と戦ったときに、秀吉軍から柴田軍に寝返った山路將監正國という者がいました。ご存知の通り、柴田、羽柴両軍の戦は羽柴軍の勝利に終わりましたので、正國は敗軍の将ということで、加藤清正に首をとられてしまいました。この正國の遺児孫三郎之光というのが藤江の山路家の祖と云われます。この時の清正の活躍は、賤ヶ岳の7本槍と云われて語り伝えられています。
之光が備後國に来たのは、父の仇の清正を討とうと肥後國(熊本県)に向かう途中、備後國鞆津(広島県福山市鞆)までやってきたときに、清正が毒殺されたと聞き、目的を失ってそのまま鞆津に隠棲したそうです。天正19年に91才で亡くなっています。之光は、二代之次(慶長12年歿、享年75)と共に鞆津南光山に埋葬され、三代から代々藤江の念仏院に葬られていますので、藤江村に移ったのは三代目からのようです。宗家の屋号を「表」と云い、株家17軒にも及ぶ大族となります。
三代之重は90才、四代之勝は89才、五代之章は83才、六代之好は82才、七代允之は74才、8代之保は84才と歴代男性の長寿者が続いていることは注目に値します。むかしは人生50年とかいってみな短命のように思われていますが、それは社会全体の平均でしかなくて、実際には現代に負けない長寿者もいて、とくによく栄えた家には多く見られます。衣食住の環境が良かったから長生きしたのかも知れませんが、鶏と卵の関係と同じで、家族構成員の生命力が強いことと家門の繁栄はどちらが先なのかは云えませんが、長寿はその人が生前健康であったことを窺わせ、病弱であれば仕事もできないし、薬代もかかりますので、経済的に大いにマイナス要因となることは確かです。
宗家三代之重の次男保兵衛は道之下(みちのした)、三男吉右衛門は岡本屋、四男利右衛門は梶屋を、また、四代之勝の次男與右衛門言時は分家茶屋を興しています。分家が次々に立っていることはその経済力に溢れていることが窺えるでしょう。
五代之章は松岡藤十郎へ嫁いだ娘の子に森脇山路利左衛門の子七郎治を婿に迎えて浦崎村小新涯へ分家機折(機織)屋を立てさせますが、松岡氏の娘がはやく亡くなったので、之好の娘を後妻にしています。系図では之好のきょうだいの様になりますが、世代は之好の子の代になります。これも之章が長寿であったために出来たことでしょう。
之好次男重元は、品治郡新市村に分家藤本屋を立てています。
八代之保は若くして里正となり、塩田を開いて、帆木綿製織の方法を広め、近郷の人々はこれに従事して地方経済は大いに潤いました。天明年間に福山藩御用達、計吏となって、寛政年中に苗字帯刀許可を貰っています。文政8年に亡くなったとき、郷人はその徳を慕って、黄幡宮境内に「之保社」という社を建ててお祀りするようになりました。
之保には生涯4人の妻がありました。最初の妻は分家岡本の重常娘で16才で亡くなっています(明和8)。後妻は中山南村亀山桑田儀右衛門娘(安永7年歿)、三妻は福山天満屋松本長左衛門娘(寛政1年歿)、四妻は出所不明ですが文政6年に亡くなっています。
孫三郎之光――孫太郎之次――三右衛門之重――+――嘉兵衛之勝――+――嘉兵衛之章――+――嘉兵衛之好――――+ 天正19 慶長12 万治2 | 元禄8 | 享保9 | 宝暦6 | | | 室山路氏 | | +――保兵衛 | +――女 | | 分家道之下 +――與右衛門 | 松岡藤十郎妻 | | | 分家茶屋 | | +――右衛門七 | +==七郎治 | | 分家岡本 +――女 分家機折屋 | | 室石井氏 岡崎長右衛門妻 | | | +――利右衛門 | 分家梶屋 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――八三郎允之―――+――歓兵衛之保――+――嘉兵衛之基――+――亀太郎之齢==歓兵衛之恒――+――女 | 天明7 | 文政8 | 弘化4 | 万延1 田邉氏 | 松阪芳太郎妻 | 室桑田氏 | 室山路氏 | 室小野氏 | 室難波氏 室之齢娘 | | | 室桑田氏 | 室亀山氏 | 室 +――伊三郎 +――八十八 | 室松本氏 | +――女 | | 分家藤本屋 | +――ツネ | 松本家嫁 +――昌夫 ――+ | +――女 | 土佐屋嗣 | 昭和16 | +――女 | 土佐屋へ嫁 | +――女 室大森氏 | 山路七郎治妻 | +――忠平重信 林家嫁 | +――ヨシ 分家吉本 | | 重義妻 | | | +――女 | 岡崎六郎右衛門妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +―― 一雄 昭和40 室原氏
之保の長男之基も名村長(里正)であったようで、副食用に甘藷栽培を広めて藩から表彰されています。当時、疫病が流行すると、他への感染を恐れて病人を殺すことがありました。しかし、変死者は勝手に葬ることはゆるされません。之基は、ある不幸な家庭で起きた殺人事件を哀れんで、殺された病人を私的に葬ってしまいました。これが役人の知るところとなって取り調べを受け、之基は事情を説明して、自ら罪に服しました。こういう下に優しく、上に屈しない態度が郷村の人々に大いに受けたようです。
之基の母は松本氏で、弟忠平重信と同腹になります。妻理恵は福田村小野吉兵衛廣昌娘で、跡継ぎの之齢が理恵との間に出来ています。理恵は41才で亡くなり、備中総社亀山定兵衛原綱次女を後妻に迎えています。亀山定兵衛原綱夫婦の墓碑は、総社市元町戎屋亀山一族の墓地に確認していますが、系図のどの位置になるのかは不明です。原綱妻は守安常昌娘となっています。
十代之齢は父の跡を継いで藤江村の名主を勤めていましたが、晩年に中風を煩って体が不自由になりました。妻(備中国賀陽郡延友村難波忠五郎吉興長女喜奴)は、この夫をよく助けて家内親睦に勤めたということで藩からご褒美を貰っています。この夫婦の墓碑文は親族の松坂芳太郎が書いています(上写真)。松阪芳太郎の母は馬越恭平の妹浅です。
之齢のあとは、娘愛に備中長尾村(現在の倉敷市玉島)禮治満廣の男寿之助を婿養子に迎えて相続させています。これは「山路機谷先生傳、昭和八年、池田春美著」の系図と田邉満廣の墓碑文が一致しているので理解しやすいのですが、念仏院の墓地には「亀太郎娘掌蔵妻於愛慶應元年歿年廿三」という墓碑はあっても、夫掌蔵=之恒の墓碑が見当たりません。之恒のあとを嗣いだ昌夫は後妻の子のようです。
道之下の系譜は次のようになりますが、直系は絶えて分家の久屋が遺っています。之朝の娘タツは幸蔵死後に今津村秦野屋河本氏を迎えますが、タツの死去により、この人は離縁したようです。朝道の妻は深安郡徳田村の徳永氏となっていますが、この徳永氏は備前児島柳田村の篠井家とつながる徳田家と思われます。
道之下 保兵衛――嘉右衛門――保兵衛――兵助――利三治――藤蔵允義――+――重盛 ――直太守忠 元禄9 延宝8 宝永7 安永8 寛政1 文政5 | 弘化2 天保2 | +――作平利貞――+――朝太郎之朝――+ 分家久屋 | 明治40 | 安政2 | 室松岡氏 | | | +――女 | 友野家嫁 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==幸蔵 ==朝道 ――誠之 | 岡本氏 藤田文泰男 | 室之朝女 室徳永氏 | +――女 藤田文泰妻
岡本屋は宗家之重の三男吉右衛門(後に右衛門七と改める)が分家したのに始まります。妻は神村土居石井徳右衛門娘とあります。初代重直は元禄13年に88才で、妻は宝永3年に91才で亡くなっています。いま、重直の墓碑は崩れた土塀沿いにあってかろうじて元の位置に建っています。妻の墓碑は見当たりませんので、倒壊した塀土中に含まれていると思われます。重直の3女は郷分小畠與左衛門に嫁いでいます。
二代重勝も享保2年に79才、その妻は同族梶屋庄兵衛娘で享保14年に亡くなっていますので、やはり80才前後の長寿であったと思われます。初代、二代の長命が家産の礎を築いたのではないかと思われます。
山路一族の中で、この岡本屋が最も栄え、貞享3年に福山藩主水野勝種から松永湾の漁業権を拝領して、一時は13ヵ村に渡る田地と塩田15箇所を所有し、傍らで質商を業とし、
「松永湾の海の潮は干るとも岡本の財は失せず」
とか
「福山のお殿様十万石、岡本の財産十万石」
とまで云われる大金持ちになりました。これほどの大金持ちの岡本屋も、銅山発掘の失敗、廃藩置県に伴う漁業権の没収、主人の甚だしい浪費、等々によって、明治の中頃になってとうとう皆破産してしまいました。倒壊して放置された墓碑群で、その盛衰の歴史を窺うことができます。
重勝の長男理右衛門は正徳4年に分家、次男治郎三郎は松永に分家して岡本屋を称しています。土地がずいぶん離れていますので、同じ屋号でも問題がなかったのではないかと思われます。三男三十郎は貝原へ分家しています。三代を嗣いだのは末子重元で、この人は69才で亡くなっていますが、その妻は81才まで生きています。重元の次男和平治は延享4年に分家して蔵本屋を興します。次々と分家を設けていることからも、当時の岡本屋の財力が判ります。
4代重常、5代重好は各々50、64才で亡くなっています。重常妻は夫に先立つこと18年、重好妻中藤氏は23才で早世していますので、長寿の歴史はそう簡単に続くことはないようです。中藤氏は備中國浅口郡勇崎村(現在の倉敷市玉島)の人です。この人が早歿したあと、重好は宗家之保妹を後妻に迎えています。重好の妹が之保妻ですから、本家分家の重縁になっています。一族の系図を見渡すと、こういう重縁関係が至る所にあります。生物学的には、遺伝子の重複が増えるということになると思いますが、同じ様な系図を描かせる諸家の歴史を眺めてゆくと、こういう遺伝子重複は一方でとくべつ優秀な子孫を生み出している反面、たいへん病弱だったり、短命な子孫も生み出しているように思えます。一言で言うと「当たりはずれが大きい」ようです。ただ、昔の人は生物学的損得で縁組みをしていたわけではなく、ほとんどは財産を身内で保全することが目的だったのではないかと思います。
6代重敏は病弱で27才という若さで妻を迎えることもなく死去してしまいます。ここで岡本屋男子系は絶え、その財力の歴史に生物学的な歴史が誤魔化されるようですが、たったの6代、ほぼ200年足らずということになります。
重敏は私財を投じて藁江村字坊寺に農業用水池を掘っています。これによって、天明の飢饉以来の農民の困窮が和らぎました。実務は岡本屋の家監(=番頭?)松兵衛が仕切ったようです。藩主はこの事績を表彰して、重敏に時服、松兵衛に白銀を与えました。松兵衛の姓は不詳で、幼い頃に岡本屋の牛飼い小僧として入り、次第に岡本屋で頭角を現した人です。天保8年74才で亡くなり、墓は阿弥陀堂にあります(釋頓学恵教信士)。
重敏を補佐したのは宗家之保の三男で、分家して吉本屋を興していた忠平重信です。重信妻は重好娘ですが、重信の実母は之保の三妻松本氏ですから、重信夫婦はいとこ結婚ではありません。
7代を嗣いだのは重信の長男熊太郎です。妻は山南村何鹿(いかづか)の桑田氏です。熊太郎は諱を重濟、機谷(きこく)と号しています。機谷は公共の土木工事、貧しい人達の救済事業、地元産業の振興など、多くの社会事業を行う一方、詩文を愛し、頼山陽、頼三樹三郎、菅茶山など、交友関係も多彩でした。また、勤皇家としても有名で、6年間も志士森田節齋を匿い、自らも師事していたそうです。
8代重快は機園と號し、三津の菅一郎右衛門娘を妻に迎えています。明治12年に県会議員に当選しますが、本人が立候補していたことを知らなかったという面白い話があります。晩年は機谷の志を継いで鉱山発掘を手がけますが失敗して家産を傾けました。
家運挽回をはかって、子の球太郎、康次郎は渡米して米国ペンシルバニア工業大学に学び、マサチューセッツ州で事業を興しますが皆失敗しています。康次郎は帰国して外務省嘱託となり、大正14年に56才で亡くなりました。
岡本 右衛門七重直――+――女 元禄13 | 梶屋へ嫁 室石井氏 | +――右衛門七重勝―――+――理右衛門 分家森脇 | 享保2 | 延享2 | 室山路氏 | | +――治郎三郎 分家松永岡本屋(後に田島屋) +――女 | 享保20 | 杉原四郎兵衛妻 | | +――三十郎 分家貝原屋 +――女 | 享保9 | 小畠與左衛門妻 | | +――孫八 +――女 | 梶屋へ養子 | 山路之章妻 | | +――右衛門七重元――+――右衛門七重常――+――右衛門七重好――+ +――女 寛延4 | 明和1 | 文化4 | 松岡藤十郎妻 室 | 室 | 室中藤氏 | | | 室山路氏 | +――和平治重義 | | 分家蔵本屋 +――女 | | 山路之保妻 | | | +――女 | | 蔵本屋へ養女 | | | +――女 | 瀬尾安道妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――右衛門七重敏==熊太郎重濟――+==幸太郎重幸 分家備前屋 文政6 重信男 | 高橋氏 明治2 | 室重濟娘 室桑田氏 | +==央之介重央 分家丸本屋 | 古志氏 | 室重濟娘 | +――延太郎 | | +――右衛門七重快――+――球太郎 明治21 | 室菅氏 +――康次郎 | 大正14 | +――徹 | 明治38 | +――徳 | +――順 平田煕善妻 | +――照 | 昭和2 | +――清 野間信煕妻 | +――静 田中勝聴妻
機谷は六女鶴野に備後府中の古志盛義の長男(母越智氏)央之介を婿養子に迎え、丸本屋という分家を立てさせています。
央之介重央――栄 ――+――昌子 吉本屋修二郎妻 古志氏 大正12 | 明治41 室安田氏 +―― 一雄 室重濟娘 | 昭和61 | 室 | +――治雄 昭和62
右衛門七重好妻は安永八年に二十三才の若さでなくなっています。そのためでしょうか、浅口郡勇崎村に実家墓地にも墓碑が建てられています。
さて、「表」8代之保の3男忠平重信は分家して吉本山路家を創設します。岡本山路家の重敏が病弱であったために、これを補佐して家政にあたっています。妻は重敏妹富佐です。3男3女をもうけますが、この吉本山路の2代に、備中国窪屋郡生坂村の間野與平克明の弟(茂二郎重明)が婿養子として入っています。重信の墓碑には、「養備中小野氏男重明配以中女而継吉本家」とありますが、茂二郎の墓碑文には「備中幾坂之人為備後山路篤義所養娶以其女」とあり、その碑文は従兄小野久敬が書いています。重明の諱は、養家の通字「重」と生家の間野家の通字「明」の組み合わせと思われます。しかし、重明は養父重信の死後2年で亡くなってしまい、その後は備後甲山屋地松本勘蔵春郷の次男吉太郎が婿養子となって相続しています。重明の妻と重春妻は同じ女性かと思います。重信の墓碑には、「二女亦夭」とあり、「重明配以中女」ですから、重信の長女と三女は夭折、次女美賀が成人して子をもうけたと理解するのが良いと思います。
重春の跡を継いだ重源の墓碑には「吉本家三代之戸主」とあり、重明が二代に数えられていないようで残念です。重源は妻も迎えていないので、そのあとは備前屋邦吉郎の子修次郎が相続に入り、その妻が丸本屋から迎えられます。
吉本屋 忠平重信――+――熊太郎 之保3男 | 岡本屋嗣 天保14 | 室重好娘 +==茂二郎重明 室島居氏 | 間野氏 | 弘化2 | 室重信娘 | +==吉太郎重春――+――能恵 重幸妻 松本氏 | 慶應2 +――源次郎重源 ==修次郎 室重信娘 | 大正5 重敬男 | 昭和20 | 室山路氏 | +――瀧 明治10
機織屋は60石を分与して興されました。念仏院の墓地には彌太郎秀幸夫婦の墓が確認されるだけです。
七郎治 ――和助秀親==弥太郎秀幸――+――楽 平川五助妻 天明1 文化11 田中氏 | 室松岡氏 室井上氏 弘化4 +==菊松 室秀親娘 岡崎氏 慶應4
梶屋の流れは「山路機谷先生傳」の「表」と岡本屋の系図から一部が推測されるだけです。
梶屋 利右衛門――某 ==孫八 ――? 寛文4 室岡本屋娘 重勝男 享保12
蔵本屋の流れは、念仏院墓地に散在する墓碑、及び倉敷市玉島本覚寺にある大坂屋瀬尾家の墓碑文を対照させて下記のようにまとめてみました。
和平治重義==和平治重利――源兵衛重恒――+――八十治重廣 寛政6 某氏 嘉永6 | 文政7 室允之娘 文政4 室瀬尾氏 | 室重常娘 +――女 | 尾道大入屋嫁 | +――同平――+――達太郎 | 瀬尾家嗣 | +――重蔵重脇――和平治重和――勝子 安政5 明治35 明治38
初代は岡本屋三代重元三男で、延享四年十二月に分家しています。妻は「表」之保の妹です。二代は岡本屋から重義の姪が養女に迎えられたと系図にありますが、その夫の詳細は不明です。四代は、「蔵本四代同平妻」という墓碑がありますが、同平と彫られた墓碑が見当たりません。五代、六代、七代は「蔵本五代重蔵重脇」「蔵本六代和平治重和」「蔵本七代勝子」という墓碑があります。
瀬尾達太郎の墓碑に、沼隈郡藤江村山路同平長男(昭和十二年歿年七十九)とあります。
重脇の墓碑は源兵衛重恒夫婦の墓碑の隣に建てられ、三人の戒名は共に院号の付いた四文字の居士大姉です。重恒は嘉永六年に六十九才で無くなっていますし、その妻は瀬尾安道次女ですから、三代を重恒に宛ててみました。
なお、岡本屋の系図に示すとおり、瀬尾安道の妻は重好の妹で、重好の妻も瀬尾安道の母もともに浅口郡勇崎村の中藤氏です。中藤氏を介する縁戚関係から山路家と瀬尾家の重縁が生まれたのではないかと思われます。
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