難波家
賀陽郡延友村
難波家は代々延友村の庄屋を勤めた家で、古文書の署名を拾って行くと、清水家に嫁いだ多嘉の父忠右衛門吉興、祖父忠五郎道興は大庄屋を勤めていたことが判っています。この家の墓碑は大庄屋まで勤めた家にしてはたいへん質素です。でも、一つ一つの墓石の大きさが小さめに統一されているのですが、1つ1つには故人の生前業績がきちんと深く彫り込まれています。どこの家でも栄枯盛衰があります。この家では、子孫が少々貧乏になっても先祖の墓碑に引けを取らない墓が建てられるようにと、代々墓碑の大きさを統一してあるそうです。私は今まで十数年観てきた中でここの墓がいちばん素晴らしいと思います。
難波家には位牌、過去帳、系図すべて散逸しています。しかし、上記の丁寧に記された墓碑の他、縁戚にあった家の系図や墓碑からひじょうに多くの情報が得られています。
多嘉の姉喜奴が備後国沼隈郡藤江村(福山市藤江町)の庄屋山路家に嫁ぎ、妹が備中国下道郡川辺村の岡田藩士加藤家に嫁いでいること、及び、叔母登久が賀陽郡八田部村の清水屋安原家に嫁いでいることなど、これらはみな、難波家の記録からではなくで、縁先の系譜情報を調べて判ったことです。
墓碑によると、多嘉の伯父興孝妻は賀陽郡東阿曽村(総社市)鳥越新助常成の長女、多嘉の母は窪屋郡酒津村(倉敷市)の三宅彌平太長興の長女です。また、多嘉の兄国興の墓碑文は浅口郡大谷村(金光町)の小野光右衛門以正の撰ですが、16歳で庄屋となり、算術を好んで学んで、すばらしい才能があったと書かれています。大谷の小野家と難波家は彦崎の下野家を通じて親戚になります。
平三郎 ――忠治郎政興――+――忠右衛門兼興――+――女 宝永2 明和1 | 寛政10 | 寺尾宗房妻 室遠藤氏 室岡崎氏 | 室下野氏 | | +――忠右衛門道興――+――小忠太 +――豊 | 文政12 | 佐藤包信妻 | 室間野氏 +――為五郎興孝 | | 享和3 +――女 | 室鳥越氏 | 佐伯継房妻 | | +――忠右衛門吉興――+――喜奴 +――正茂 | 弘化4 | 山路之齢妻 | 安田光従の嗣 | 室三宅氏 | | | +――義三郎国興 +――平五郎良邑 +――女 | 天保8 享和2 | | +――女 +――多嘉 | | 間野貞秀妻 +――登久 | 安原正路妻 +――女 | 加藤政軌妻 | +――貞興 ――+ 明治14 | 室 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――浦太郎――+――峯太郎 明治33 | 明治28 室国富氏 | +――真左喜 昭和26 室橋本氏
忠五郎道興の妻は「岡山間野弥五郎廣謙四女母倉敷岡氏」とあり、清水家の先祖との関係がありそうですが、この家を探す手掛かりがありません。岡氏は蔦屋一族と思いますが、該当する人が見つかっていません。
兼興の妻は備前国児島郡彦崎村下野半九郎の娘、兼興の妹豊は、都宇郡早島村の佐藤家(大佐藤といわれ、早島東3ヵ村庄屋佐藤家の分家)に嫁いでいます。この豊の墓碑は佐藤家と難波家の両方に建てられています。政興の妻は同村の岡崎氏(後に丘咲と改姓)、母は門前村遠藤氏です。
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