藤井正安家
賀陽郡宮内村



笘屋間野茂兵衛のあとを継いでいる子孫は
「先祖は藤井若狭守藤原政安」
と云い伝えて、超心寺所蔵間野家過去帳にも享和二年に亡くなったこの人の名が記されています。
茂兵衛のあとを継いだ瓶八貞英の実父塩屋藤井飯瓶が備中吉備津宮社家藤井家の人ということのようです。

明治六年、備中吉備津宮の社家藤井正安が、士族編入申請のために小田県に提出した系図に、
「安廣 若狭 享和二年九月十二日
 正信 左兵衛 寛政六年十月二十二日
 正芳 蔵人 文政九年四月四日
 正之 數太郎 嘉永四年八月十二日
 藤井正安 印(正?)」
と記されています(旧神官歴代叙爵調書三の167頁)。

間野家の過去帳は飯瓶の子平八が作製したものですが、聞き伝えを文字にしたと思われるような間違いも他にいくつかあります。藤井若狭安廣が藤井若狭守政安と書かれたのか、或いはこの家が「藤井正安」と通称されていたので、若狭+正安(政安)となったのか、よく判りません。

明治の当主まで記録があるので何処かにお墓があるのではないかと考え、吉備津神社付近の墓地を歩いてみましたところ、冒頭の写真のような墓地を見つけました。
「藤井若狭安廣神霊 享和二年秋九月十有二日」
の他、旧神官歴代叙爵調書の系図にある、
「藤井數太郎正安霊位 嘉永四年八月十二日」
の墓碑が立つ墓地見つかりました。
正信、正芳に相当する墓碑はありません。

最近の墓碑は、
「藤井直女霊位 明治十二年七月九日 六十五才(1879-65=1814)」
で、その後の墓碑はありません。明治六年に士族編入申請書類を提出した正安の墓碑がありませんから、子孫は吉備津から出たのでしょう。
邸宅はいまの鯉山小学校のところと聞きました。

「内田氏長女神霊 文政十年五月八日 八十一才」
という墓碑は、超心寺所蔵間野家過去帳にも記載がありますので飯瓶の実母、若狭の妻と思われます。
清水家に何部か遺った過去帳の一部に、塩屋飯瓶は、もと備中宮内(岡山市吉備津)の藤井左兵衛と名乗った人とあります。

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相模廣忠――但見  ――若狭安廣――+――左兵衛正信――蔵人正芳 ――數太郎正之――正安
宝暦3   宝暦2   享和2   |  寛政6    文政9    嘉永4
室岡氏   室藤井氏  室内田氏  |
                  |
                  +――飯瓶
                     大坂

上写真の中央墓碑は「藤井六三郎」と読めます。
飯瓶の子忠兵衛正義のあとを継いだ養子禄三が、実家の外村家に生まれた時に六三郎と名付けられたとのことですが、こんな偶然があるのかと驚きます。



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