石井家
小田郡矢掛村





石井家の先祖は戦国時代末期に備中猿掛城主毛利元清に仕えていました。関ヶ原の合戦後、源次郎喜之は西国に下った兄たちに従わずに矢掛に住み着いています(初代)。

江戸時代を通じ、佐渡屋という屋号で酒造業を営み、同村庄屋、庭瀬藩小田郡大庄屋を勤めた家です。また、参勤交代制が定められた寛永12(1635)年以来、山陽道矢掛宿の本陣を世襲しています。

元和2年から酒造業をはじめ、元禄年中の酒造高は30石余、寛政年中には600石を越えます。また、土地の持高は元禄年中に60石ほどであったものが、寛政年間には270石にも膨れ上がっています。
そして、文化3(1806)年、田畑245石を、本家分145石、新家70石余、隠居料30石に分地しています。この新家が梶谷千恵の実家宮嶋屋です。石井家は備中有数の豪商大地主としての地位を維持して明治維新に至りました。

しかし、この経済力とは裏腹に、石井氏の血脈は長続きせず、本家の血脈は他家に交代され、江戸時代初期に分かれた西佐渡屋、最盛期の分家宮嶋屋など多くの分家は軒並み跡が続かずに倒れています。源次郎世昌は下道郡岡田村の片岡直助経積の子で、その妻房は浅口郡阿賀崎村(倉敷市玉島)の中原丹右衛門の娘です。房の母は義智の妻竹の実家になる矢掛の隣の北田村の鳥越家から来ていて、鳥越家と石井家は重縁がありますから、なんとか血脈が続いていたのかも知れませんが、千恵の嫁いだ梶谷家では、実家の本家の血脈は絶えたと言い伝えられたようです。鳥越家は摂津麻田藩青木家の代官を勤めていた家です。

左近――刑部左衛門秀勝――+――某
             |  長州へ
             |
             +――某
             |  肥前佐賀へ
             |
             +――治郎左衛門秀昌――+――四郎兵衛喜昌――+――次郎右衛門
             |  元和10     |  明暦3     |  役屋
             |  室中西氏     |  室中西氏    |
             |           |          +――十左衛門
             +――某        +――仁兵衛     |  西佐渡屋
                伊予へ                 |
                                    +――次右衛門秀昌――+――源次郎喜綱  ――+
                                       元禄4     |  享保11     |
                                       室武氏     |  室石井氏     |
                                       室高取氏    |  室片山氏     |
                                               |           |
                                               +――彦三郎      |
                                               |  天和二      |
                                               |           |
                                               +――三郎右衛門秀英  |
                                               |  分家新屋     |
                                               |           |
                                               +――四郎兵衛     |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――治郎右衛門喜門――+――源次郎義智  ――+==治右衛門
|  享保18     |  安永5      |  平松氏
|  室疋田氏     |  室鳥越氏     |  
|           |           |  室水野氏
+――源野右衛門    +――治郎右衛門綱貞  |
|  水野家嗣     |  寛保3      +==源次郎世昌――+――逸平喜哉
|           |           |  片岡氏    |  天保7
+――女        +――佐忠治政静    |  文政2    |  室鳥越
   高取庄左衛門妻  |  元文3      |  室中原氏   |  室佐藤
            |           |         |
            +――牧        +――又右衛門   +==源次郎喜祉――+==源次郎喜通 ――+
               山岡貞良妻       分家宮嶋屋     江原氏    |  河野氏     |
                                     嘉永4    |  明治25    |
                                     室中原氏   |  室喜祉娘    |
                                            |          |
                                            +==圭次郎     |
                                               江原氏     |
                                                       |
                                               室喜祉娘    |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――女
|  富山久三郎妻

+――鑑吾喜延   ――+==力太郎
|  明治3      |  鳥越
|  室久山氏     |
|           |  分家
+――徳        +==始三郎
|  中原兼有妻    |  堀氏
|           |
+――カツ       +――源次郎喜彬――+――梅緒
|  羽田清季妻離縁     昭和14   |  近藤常三郎妻
|  小松七右衛門妻     室三好氏   |
|                     +――遵一郎
+――三芳                 |  昭和54
|  中島安兵衛妻             |  室橋本
|                     |  室岡崎
+――より                 |
|  安政5                +――禮二郎   ――+――*子
|                     |  昭和38    |
+――金士郎                |  室保田氏    |
|  弘化4                |  室田上氏    +――***
|                     |          |
+――勝                  +――春緒      |  室大津寄
   月田庄左衛門妻               久山俊一郎妻  |
                                 +――*子
                                 |
                                 |
                                 +――*子

鑑吾喜延の跡を継いだのは源次郎喜彬ですが、鑑吾が幼少の源次郎喜彬を残して若くして死去したために、親族の鳥越家から力太郎という養子を迎えています。力太郎はずいぶん頭の良かった人のようですが、生年を2歳ごまかして14歳で庄屋見習いを勤めていたために、「もの云わぬ庄屋」といわれたそうです。子どもだったから大人に向かって偉そうにものが云えなかったわけです。小田郡誌第20章村役人、矢掛町に、明治3年から同5年にかけて「里正 高草郁次郎 見習石井力太郎」という記録があります。力太郎は明治8年8月に石井家から実家に復籍し、その後、窪屋郡生坂村の間野與平克明娘里の婿養子となっています。しかし、同12年10月には間野家からも離縁され、安芸国竹原(広島県竹原市)の高橋家の婿養子となりました。
私が石井家の系図を調べたのは、この力太郎の生涯を明らかにすることと、下記の宮嶋屋との関係が知りたかったからです。

始三郎喜将――+――保三郎   ――+――深一郎
氏     |          |
       |  室赤木氏    |  室町井氏
室喜延娘   |          |
井上氏   +――薫       +――常
       |  岡田源市郎妻  |  福永家嫁
       |          |
       +――直三郎     +――貞
       |  分家      |  大正10
       |          |
       +――冨恵      +――泉二郎
       |  板倉基介妻   |
       |          |
       +――與三郎     +――幸子
          大正7     |  大橋骼l郎妻
                  |
                  +――吟三郎
                  |
                  |  室
                  |
                  +――達郎
                  |  室森田氏
                  |
                  +――彌榮子

始三郎は、賀陽郡八田部村から浅口郡玉島港に移住した油屋堀家から鑑吾娘昌代の婿養子として石井家に入り、後に分家しています。直三郎は直樹と号し、歌人として有名な人です。この分家は現在も本陣の前で醤油の醸造業を続けていて、本陣の中でもここの醤油が売られています。

直三郎 ――+――初子
室三好氏  |
      +――謙一郎
      |
      +――潤二郎

宮嶋屋の系譜復元はたいへん困難ですが、次のようになると思います。

又右衛門――秀助  ――+――齢
            |  丸川行義妻
室     室中西氏  |
室           +――千恵
室           |  梶谷正順妻
            |
            +――又右衛門盛久――+――藤枝
            |  安政6     |
            |  室       +――嶋の
            |          |
            |          +==保太郎 ――+――恕吉  ――秀助  ――+==保正
            |             石井氏   |  明治35  昭和34  |  橋田氏
            |             明治23  |  室末廣氏  室山口氏  |  後離縁
            |             室池田氏  |        室篠原氏  |
            |                   |              +――照
            |                   |              |
            |                   |              +――コウ
            |                   |              |
            |                   |              +――春子
            |                   |
            |                   +==観吉
            |                      大平氏後離縁
            |                      
            |                      室保太郎二女
            |
            +――秀三郎   ――+――菊五郎
            |          |
            |  室       +――瀧五郎
            |
            +――隣吉
            |
            +――ちゃう

梶谷家の除籍によれば、梶谷伊平次正順妻千恵は「保太郎孫又右衛門姉秀助次女」となっています。更に、江口伯母から梶谷伊平次夫婦、及び伊平次と千恵宛の書状が6通あり(岡大附属図書館所蔵)、矢掛云々という件があります。梶谷家と江口家の直接の縁合は両家の系譜を調べても出てきませんので、江口伯母とは梶谷千恵、即ち石井千恵の伯母になるはずです。千恵の母が矢掛中西八十七の姉妹ということになります。

矢掛町史によると、「石井家は、文化三年、集積した田畑約二百四十五石を、本家(源次郎分)百四十四石八斗五合六勺、新家(又右衛門)七十石、隠居料(石井義英)三十石に分地した(石井家文書、世塵記)」とあり、梶谷千恵が石井本陣の分家から来ていることは、千恵の孫松野が嫁いだ溝手家に「本家(本陣)はその後まもなく血が入れ替わった」と伝えられています。

観音寺境内を隈無く歩き回りましたが、初代又右衛門、及び秀助夫婦の墓は見当たりません。わずかに見つかった
「石井又右衛門後妻美可 文化四」
「石井又右衛門娘嶋野 元治元年歿年十三」
「石井又右衛門娘里者 文化十年」
「石井又右衛門後妻美津 文化十三年」
などの墓碑が関係あると思われますが、このうち
石井祐四郎から梶谷伊平次に宛てた手紙に
「智賢善童女 元治元年二月三日 石井又右衛門娘嶋野 行年十三」
という記録がありますので、嶋野だけは戸籍、過去帳、墓石と揃って遺っていることになります。
美津の墓碑は本家の新しい墓地の西、塀を隔て、道路べりに並べられた無縁墓碑列の中で偶然見つけました(下写真 矢印)。
系図では何とか人が並べられますが、ほとんどの人の墓碑が不明なのは、無縁となり片付けられている可能性が高いと思わざるを得ません。



秀助(昭和34歿、享年79)は明治の終わり頃に矢掛を離れ、兵庫、大阪と転籍しているようですが、その後の子孫の行方は不明です。秀助には高知県香美郡土佐山田町神母ノ木出身の篠原ミツとの間に、照、コウ、春子という3人の娘があったことを突き止めています。昭和53年11月11日に、「子孫が大阪より矢掛に参られた」との記事を或る郷土史家が記されています。恐らく血縁の子孫が何人か居られると思います。お心当たりの方はご連絡下さい。

西佐渡屋の系譜は、

十左衛門――十左衛門――+――女
正保2   寛文7   |  喜綱妻
室武氏   室鳥越氏  |
室鳥越氏        +――孫兵衛秀奥――源五郎
               寛保3    明和9
               室藤井氏

現在、石井家住宅は国指定重要文化財として整備され、一般公開されています。

役屋

次郎右衛門  ――+――次郎左衛門  ――+――利兵衛  ――+――女
         |           |         |
室浅野氏     |           |         |
         |           |         +――養助
         +――太兵衛      +――吉左衛門   |  安永6
         |           |         |
         |           |         |
         +――女        +――清兵衛    +――女
         |  長七妻      |         |
         |           |         |
         +――女        +――女      +――女
            又助妻      |
                     |
                     +――七郎兵衛
                     |
                     |
                     +――女

綿

吉左衛門  ――+――源四郎喜意――+――喜右衛門  ――+――半蔵喜胤
天明6     |  延享3    |  明和9     |  享和2
室       |  室      |  室       |  室松室
渡邉氏    |         |          |
        +――喜八     +――女       +――平右衛門  ――+==和右衛門正一
        |            元文2        寛政4     |  占部氏
        |                       室       |  嘉永6
        +――文次郎                          |  室平右衛門二女
        |  享保17                         |
        |                               +==利右衛門喜定 ――   喜明――+
        +――善五郎喜白                           齊藤氏             |
        |  明和3                             安政3      室      |
        |                                  室平右衛門娘?         |
        +――女                                               |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――敬太郎
|  慶應4

+――太平
   慶應4

和右衛門正一夫婦の墓は三山の三宅家(油屋)にも建てられています。また、油屋と同株の新屋三宅家の墓地に、三宅真策久蕃(妻は岡谷友野氏)娘小牧の墓碑がありますが、真策久蕃夫婦の墓碑は石井家の墓地に建てられています。
**

喜八  ――源四郎



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