萱谷家・西国屋
浅口郡阿賀崎村
この家は代々半十郎を襲名、西阿知の本家から分家して玉島で商家となりました。
大田茂弥著「玉島地方史研究、下」に掲載された阿賀崎新田村町人移住者名簿によると、西国屋半十郎は宝永二年に西阿知村(倉敷市)から移住、新町に住んで、問屋を営んでいたようです。檀那寺は「?」とありますが、墓地に一番近い本覚寺ではないかと思います。名簿には、「西阿知五郎左衛門倅、はじめは森屋次郎右衛門の借家に住み、その後同人兄丸川屋治兵衛世話にて(家を)買い求め転住。その後、関屋左衛門へ売り払い、酒津屋文左衛門屋敷を買って居住す。三代目に女子二人あり、一人は新町紙屋庄兵衛妻、一人は連島弥平治倅入り婿の妻」とあります。連島(倉敷市)弥平治倅入り婿とは、親純のことになると思います。五郎左衛門は故郷の西阿知村に葬られているようです。
また、丸川屋治兵衛とは西阿知屋丸川治兵衛、即ち丸川源太夫林宗と同一人物と思われますので、半十郎正衆と丸川林宗は兄弟ということになるようですが、林宗が窪屋郡西郡村の守安家からの養子であるので正衆もまた本姓守安氏かも知れません。
安永九年に阿賀崎村西浜から出された運上銀減額願書、十六軒の問屋中に西国屋半十郎の名が見えます。
明治維新後も甕江銀行(後に中国銀行に吸収合併)の取締役四人中に萱谷半十郎の名前が見えるように、この家は玉島湊に出てきて約二百年もの長期に渡って繁栄を続けていることが解ります。
半十郎正衆――+――半十郎雅規――+==半十郎親純 ――+――半十郎友諒――+――敬 享保5 | 延享2 | 三宅氏 | 文政4 | 小野正雄妻 室吉田氏 | 室佐藤氏 | 寛政4 | 室正次娘 | | | 室雅規娘 | +==竹之助正義==文太郎正文――+ +――半十郎正真 | +――和太郎 小野氏 小野氏 | 宝暦6 +――幸 | 三宅家嗣 明治43 大正6 | 室佐藤氏 ・・庄兵衛妻 | 室那須氏 室小野氏 | 室福武氏 +――直 | 那須敬富妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――真太郎正道――+――誠之正章――和昌 | 大正8 | 昭和55 平成8 | 室高橋氏 | 室 | | 室 +――女 | +――二男子
雅規の妻栄は道口村佐藤良忠の娘ですが、乙嶋村(倉敷市乙島)の庄屋守屋良脩の養女となった後に萱谷家に入っています。雅規が早世した後に三代を嗣いだ弟正真の妻となります。雅規との間には二女があり、正真との間には一男林次郎がありました。四代親純は連島西之浦の富島屋三宅弥右衛門の次男で、雅規長女松(真津)の婿養子です。そのあと五代を正真の長男正次(林次郎)が嗣いで、六代が親純の長男友諒となっています。
半十郎正真――半十郎正次――+――以麻 宝暦6 寛政7 | 友諒妻 室佐藤氏 室高戸氏 | 室福武氏 +――美須 寛政10
友諒夫婦は二いとこ同士になっています。夫婦には二男二女がありましたが、小野家に嫁いだ長女以外は皆幼くして亡くなり、あとは外孫になる竹之助が嗣いでいます。竹之助は小野正雄の四男で、のちに半十郎(また竹芝、号遠庵、隠居して寿仙)と名乗りました。寿仙妻幾は牛窓村那須三平祐孝長女です。
文太郎は長尾村小野忠蔵長男で、妻満佐は船尾村小野岡次郎四女です。
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