守屋家
浅口郡乙島村





代々備中浅口郡乙島村庄屋を勤めていました。

五兵衛長利――四郎右衛門重吉――左平治重政――五兵衛豊政――惣兵衛豊重――久左衛門豊之――四郎右衛門尚信――+
応永2    康正2      明応3    天文13   永禄5    文禄3     寛永21     |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――惣兵衛尚次――佐平治吉尚――+――佐平次――――+――重左衛門――千右衛門――千右衛門
   寛文12   元禄4    |         |
                 +==又太夫吉久  +――傳次郎――玄啓――重左衛門――+――勝太郎―――+
                           |           天保10  |  明治17  |
                           |                 |  室阪本氏  |
                           +――佐平治政定          |        |
                              室吉田氏?          +――英三郎   |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――徳太郎 ==弘太
|  大正12  川口氏
|  室村井氏  昭和44
|        室加藤氏
|        室大塚氏

+――武
   阪本百六妻

重左衛門は120町の新田開発を計画して倉敷代官から認可を得ました(文政9)。その子勝太郎は父の計画を推し進めますが、玉島村をはじめとする17ヶ村の上郷村々から水はけの問題で文句がでて、江戸訴訟にまでなりました。これは、文久1年になって窪屋郡倉敷村の植田武右衛門方清の仲介で双方納得となり工事が行われました。慶応4年に乙島新開が完成しました。
吉久は守屋弥治兵衛の次男で吉尚の養子となって分家を立てています。おそらく同族の子息を家女に迎えたものと思います。

又太夫吉久==又太夫良脩――民右衛門方弘――+――熊太郎元安――+――又太夫元芳――+――允保
享保9    佐藤氏    寛政1     |  天保2    |  文久3    |  藤野家嗣
       宝暦8    室田中氏    |  室吉富氏   |  室吉富氏   |
       室吉久娘           |         |         +――志賀二 ==潤三
                      +――女      +――文一郎元秀     大正12  金谷
                         黒瀬淳妻      明治9       室大森氏  平成3
                                   室間野

良脩は玉島阿賀崎新町の海産物問屋西国屋萱谷半十郎親雅の妻栄の養父となっています。栄は道口村の佐藤氏ですから、良脩と栄は叔父と姪くらいの間柄になるのではないかと思います。

生坂清水家の古い書類の中に守屋姓の仏様を記した書き付けが数点あります。利太郎貞基の実母が三田村(倉敷市)の守屋家から来ていることから、この守屋家過去帳の一部と理解していましたが、守屋家を始め諸家の調査が進んでも一向に該当墓碑が見あたりませんでした。

疑問を抱いたまま他家の調査を進めていたところ、浅口郡誌に乙島村庄屋を勤めた守屋家系図が載せられているのを見て、清水家所蔵文書に書いてある人名(熊太郎、又太夫、時之助)と一致していることに気付きました。更に、時之助は大田茂弥先生の著書「玉島地方史研究」でも熊太郎の次の乙島庄屋と紹介されているあることにも気付きました。

そこで、地図を用意して乙島を訪ね、地元の方に聞きながら守屋家一族の墓地を探しました。熊太郎夫婦、その次男時之助(文一郎)と長男又太夫元芳夫婦の墓碑はすぐに見つかり、清水家所蔵の書類に記入されたは仏名、歿年月日など完全に一致することを確認できました。なお、浅口郡誌では熊太郎の長男又太夫がもれていて、子は文一郎と志賀治となっています。

では、どうして清水家でこの守屋家の仏様を2代にも渡って書き遺す必要があったのかと考えてみました。乙島守屋家の墓碑を1代ずつ遡りながら、熊太郎よりも前には清水家又はその極近い関係親族との縁戚関係はないということが判りましたので、熊太郎妻繁の両親のいずれかが清水家(間野家)の出なのかもしれないと思って、繁の実家になる吉富家墓地も調査してみました。しかし、ここでも我々の先祖との関わりは証明できませんでした。

利太郎貞基には久良という異母姉があり、明治6年に49歳で死去して墓碑は生坂清水家墓地にあります。乙島守屋家の墓地内に時之助の妻の墓碑がないことから、久良は時之助(明治9年歿、享年59歳)の妻となったが、なにかの事情で離縁となり、実家で死去したと考えました。久良さんは、夫の他にその舅姑と兄の仏名を記して実家でお祀りをしていたのではないかと思います。同じ仏名を記した書類が数通あることも、このような極近い親族関係を証明していると思われます。

この家のご子孫も探し出して手紙を書いてみました。先方には清水家との関係を証明する書類は見当たらないとのことでしたが、私の調査にご理解いただき、ご参考までにと詳しい先祖書きを贈っていただきました。成果は得られなくても、こういう形で気持ちが通じ合うのはたいへん嬉しいものです。上記の系図はこれを参考にまとめてみました。志賀二妻は浅口郡長尾爪崎大森英太郎2女となっていますが、この大森家は爪崎庄屋を勤めた松田氏ではないかと思います。

上記の清水家所蔵書類(乙島守屋家過去帳の一部)には、他にも
○○貞順信女、文久2
○○清操信女、明治6
という2人の仏名が記されています。守屋家と吉富家の墓地を隈無く捜しましたが、今のところ対応する墓碑が見つかっていません。時之助には他に2人の弟と4人の妹が居たようですから、他家に嫁いだ義妹の仏名か、あるいは時之助との間に出来て他家に嫁いだ娘の仏名かと考えています。私は、この2人の仏名を頭の隅で暗誦しながらあちこちの墓地を訪ねていますので、そのうちにまた新たな縁戚関係を掘り起こすことが出来るかも知れません。


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