三宅家・富島屋
浅口郡西之浦村





大三宅と通称された家で、西之浦中町に住んで生魚問屋を生業としていました。遠祖仁左衛門は承應年中に連島観音西国33箇所霊場の整備を援助しています。その頃から既に庄屋職を世襲して古庄屋とよばれています。家紋は丸に剣酢漿草です。
宝永・明和の頃の昌純前後が最盛期だったようで、安永9年には藩から西之浦前新田400町の干拓許可をもらって工事をはじめました。それから5代80年に渡り、暴風雨などに見舞われて工事は困難を極めますが、下請けを探しながら、とうとう300余町の耕地を造成しました。

仁左衛門――仁左衛門――弥右衛門――弥右衛門――+――弥右衛門昌純――+――弥平次由將
      寛文12        享保21  |  延享4     |  明和3
                  室三宅氏  |  室小野氏    |  室江田
                        |          |
                        +――女 道矩妻  +――親純
                                   |  萱谷家嗣
                                   |
                                   +――弥平次等公――+――女 岡家嫁
                                      寛政7    |
                                             +==弥平次友直――+
                                                萱谷氏    |
                                                文政12   |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――弥平次公礼――+――景蔵
   天保8    |
   室那須氏   +==直吉弘道==紋五郎==喜造 ――直吉
             那須氏   小野氏  那須
             明治10  明治10
             室公礼娘

昌純の母は矢柄村の三宅氏で西之浦正福寺境内には昌純が母のために建てた宝篋印塔があります。
由將もそのあとを嗣いだ等公も共に俳人として有名であったようですから、昌純親子の元気な頃にはかなり余裕をもって干拓工事を進めていたと思われます。
由將の妻勝は備前岡山上内田町久見屋江田房長娘、同真吉の妹で母は平松氏です。夫の由將が若くして亡くなったあと、姑は弟の等公に再縁させようとしましたが、勝はこれを拒否して自殺したそうです(明和7年歿、享年29)。
等公は干拓工事に失敗をして家産を傾け、その責任をとって隠居しました。等公に子がなかったので、甥の和太郎が玉島阿賀崎新町の西国屋萱谷家から来てあとを嗣ぎました。和太郎は弥平次友直と改めて、天明1年16才で庄屋に就任し、その後は大庄屋を勤め、苗字帯刀を許可されるなど一旦傾いた家運をまた盛り返しています。
友直の子基作(後弥平次公礼)の代には文政開、天保開の干拓地の竣工もなりますが、一方では債務もかさんで家政は次第にたいへんになっていったようです。
公礼は47才、嗣子景蔵も20才という若さで亡くなったので、以前から重縁のあった邑久郡牛窓村の奈良屋那須総右衛門明澄の長子直吉を公礼の娘の婿養子として家を嗣がせました。
直吉は庄屋、大庄屋を勤め、鶴新田村、北面新田村の庄屋を兼務しながら鶴新田弘化開180町の干拓工事を完成させました。しかし、累代の債務は膨らんで破産状態になり、おまけに直吉は子宝にも恵まれなかったので、舟尾村の庄屋岸の屋小野家から紋五郎という養子を迎えて庄屋職を嗣がせました。牛窓の奈良屋那須家の分家になる児島郡八浜村の那須家と岸の屋が親戚であったということから選ばれた養子だろうと思います。しかし、直吉、紋五郎父子は明治10年に病で相次いで亡くなり、とうとう絶家となりました。
一族相談の結果、牛窓那須家の喜造が跡継ぎになりました。喜造は玉島紡績株式会社の取締役を勤めていたそうですが、後に都合で牛窓に移住してしまいました。こうして、連島の歴史に最も功績のあった富島屋三宅家は西之浦から完全に姿を消しました。


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