高戸家・奈良屋宗家浅口郡鴨方村

高戸家・奈良屋宗家
浅口郡鴨方村



この一族を気に留めはじめたのは、倉敷市天城の中島家から嫁いだ人があるということを知ってからです。即ち、間野多利助貞義の外孫桑(くわ)が善平孝善の妻となっています。
その後、あちこちの家を調べて行くと、鴨方高戸氏との縁戚関係を記した書類や墓碑文に度々巡り会うようになりました。なかでも気になったのは、高戸林之丞文茂という人で、この子息吉右衛門忠順の妻は前記中島家の本家から来ていること、更にその娘が下道郡川辺村加藤條太郎政比妻となっていることが判ると、善平の家と林之丞の家は株家に違いないと確信するようになりました。加藤家のページに書いていますが、條太郎の姉が、桑の甥中島常太郎直方の妻となっています。

つまり、中島家は善平の家も林之丞の家も同じだと認識して縁戚関係のブロックを積み上げていたわけです。
この一族でもそうでしたが、一定地域内の同姓集団の中でありながら、うちの家とあの辺りの家はルーツが違うとか、うちの家と親戚(株家)になるのは○○さんところと△△さんところだけと聞いていますという言い方をよく耳にします。
関係者が言うことを疑うのはおかしいという指摘もあると思いますが、当事者が判らないことを離れた位置にいる人が的確に判断していることもあるのです。これは離れた小高い場所から全景を見わたすことが出来るのとよく似ています。

さて、私はもう長い間、岡山市三手渡邉家と縁戚関係にある柳井原の原田家の消息を追っています。
原田家の縁合書に出ている内藤家のご子孫から、「その原田家は鴨方の方から出てきたそうです」とお聞きしました。除籍でも原田慎四郎妻は鴨方村高戸佐左衛門三女となっていますので、渡邉家と縁戚関係にあった諸家を検証するという作業の一つとして鴨方高戸氏を再調査してみることにしました。

鴨方には何度も脚を運んで長川寺、浄光寺裏の墓地を中心にずいぶん巡ったつもりでしたが、それでも未だ見つかっていない高戸姓の墓地があるので気になっていました。それは「郵便高戸」と云われる家で、間野與平克明の孫君子が晩年に再縁した国富友次郎元岡山市長の実家です。
明治になって郵便事業に関わったのでこう呼ばれるそうです。田舎では郵便局、なかでも特定郵便局というのがその地の旧家、門閥家であることが多いのです。
国富家の墓地を調べてみると、国富家と早島の奥佐藤家が重縁になることが判りましたので、もしかしたら「郵便高戸」かその一族に佐左衛門という人がいるのではないかと考えました。

以上のような次第で、「郵便高戸」家の墓地を訪ねてみることにしました。地元でだいたいの方角を聞いて歩いてみましたが、高戸家の墓地を見つける前に少々迷って奥へ奥へと脚を運ぶうち、たいへん歴史と風格を感じさせる墓地に迷い込んでしまいました。
いったい、何処の家だろうといくつか碑文を覗くと、三宅姓であることが判りました。
中島常太郎の妹順が鴨方の三宅という家に嫁いで離縁となっていることは頭にありましたので、もしかしたらという気持ちでもう少し丁寧に碑文に目を通していると、「三宅倉三妻浅口郡柳井原村原田武左衛門長女称千勢」という墓碑がみつかりたいへん驚きました。
取り敢えずいくつかの墓碑文を抜き書きして、後日再調査に来ることにして「郵便高戸」家の墓地に回りました。

墓地を訪ねたのは正月明けのことでしたが、きれいに掃除をされてしきびが供えられた墓碑群、きれいに掃除をされてはいますがしきびまで供えられていない墓碑群、枯れ草に覆われた墓碑群、三つの群に分かれて全部で六十基ほどありました。
最近はこれくらいの数だと二時間弱もあれば判読して雑記帳に書き取ることが出来るようになりました。

きれいに掃除をされてはいますがしきびまで供えられていない墓碑群の中に林之丞文茂の墓碑を見つけて小躍りして喜びました。何年も待ち続けた人に巡り会った気持ちでした。
一挙に多くのパズルの部品が得られましたが、佐左衛門の墓碑は見つかりません。また、部品が増えていくらかは不明箇所が埋まりましたが、新たに不明箇所も出てきました。たいていはこういう状態で放置して別の家に取りかかる、そのうちにまた以前放置した家の系譜解明のヒントを得てまた作業を始めるということを繰り返しています。パズルを埋めて行く作業も同じでしょうか。
ところが、今回は少し事情が違いました。パズルの部品がそろった段階で、高戸善平孝善の子孫になるS氏から突然連絡が入り、鴨方町教育委員会に保存されているという高戸家系図をご紹介いただいたのでした。この系図は、現在、町屋として公開されている旧奈良屋高戸家(善平の家とその本家に相当する居宅)解体作業中に発見されたもので、文化十一年に高戸丈右衛門清通が記したものです。

系図を核にして墓碑調査の結果を肉付けして一族の全貌を紹介しようと思います。

浄光寺境内大銀杏の木の元に備中高戸一族の祖と云われる弥左衛門正吉夫婦の供養塔が建てられています。S様からこの存在をお聞きし、「奈良屋という屋号から、私は先祖の地と思われる奈良県内を調べてみましたが、何も手がかりは得られませんでした。弥左衛門正吉夫婦の供養塔の裏に書かれている文章にそのヒントがあるかも知れない」とのことでしたので、この供養塔を調べに行きました。ところが、これは正吉以前のことについては何も触れられていませんでした。



清通が記した家譜序には、「正吉は天文・天正年頃(元亀はこの間に入る)に、故郷南都神戸村(大和国宇陀郡神戸村=奈良県内)から備前児島へ来て農業、商業をはじめて富をなした」とあります。
南都は今の奈良県、奈良屋という屋号はこれから採ったものでしょう。S氏の調査に依れば、現在の奈良県内に遺っている神戸という地名は、御所市(神戸郷)、桜井市(神戸郷)、宇陀郡大宇陀町(神戸村)がありますが、未だ、「南都神戸村」は特定出来ていないそうでした。ただ大宇陀町史の戦国期の記述に、宇太水分(うたみくまり)神社の祭礼(大永七=1527年)に於ける酒樽献納者の一人に神戸与太郎の記録が見られるそうです。「氏姓家系大辞典」に「神戸とは神社領有の戸を言う」とあり、もとは神社の仕事をする集団に属していたようです。
高戸(たかと)の苗字は、神部(かみべ かんべ=神戸)から「こうべ=高部→高戸」と同音異字を使って変化したようです。
伊勢国(現在の三重県)に中世、神戸城という城郭があって神戸氏が勢いを伸ばしていたようです。織田信長の勢力が拡大してくると、この中世豪族もその地を追われました。その一面は、邑久郡下笠加森家の系譜にも書かれています。奈良屋のルーツを現在の奈良県に絞って追うよりも、その本貫地である(?)三重県にも拡げて考えた方が良いのかも知れません。ただ、伊勢神戸氏は関氏一族で桓武平氏、家紋も揚羽蝶ということで、鴨方の高戸一族とは異なる点もあります。

浄光寺境内供養塔には正傳寺開基が高戸彌左衛門正吉であるとかいてあります。
長川寺駐車場の前(下)に鴨方高等女学校の校門に使われた龍宮門の解説札が立てられています。この場所には元亀年中の創建浄土真宗正傳寺があり、龍宮門は桃山時代の建築様式といわれます。
正傳寺は真宗本願寺派、西本願寺末。明治三十年頃に寺号を安芸国山県郡戸河内村に移転して廃寺になり、檀家は浄土宗鎮西派浄光寺に移ったそうです。
「釋・・」というのは浄土真宗の戒名で、「郵便高戸」家の墓にあるのもみな「釋・・」となっています。善平の家は浄土真宗から曹洞宗(長川寺)へ改宗したことも理解できます。
正吉夫婦とその長子彦兵衛の系統、次男弥左衛門の四男宗左衛門の系統が浄土真宗で、他の家は曹洞宗清瀧山長川寺と浄土宗浄光寺の檀家になったようです。墓地は、次男弥左衛門四男宗左衛門のあとが鴨方東幼稚園の上にあるほかは、本家を含めて大部分が長川寺の上(城山)にあり、正吉の長子彦兵衛のあとの一株と、弥左衛門長男與市右衛門のあとの一部の墓が浄光寺に確認出来ています。城山の墓地は現在は長川寺の墓地のように見えますが、上記のような次第で、実は正傳寺の墓地だったのです。

系図筆頭に「彌左衛門正吉妻は竹井将監の娘生二男一女、竹井氏は小豆島或いは備前児島産両説あるが、墓は都宇郡早島村千光寺境内にある」と書かれています。
S氏は、「竹井将監は備中・小田郡を地盤とする豪族竹井氏の一族とのことなので、彌左衛門正吉又は神戸氏が竹井一族又は将監個人と何等かの関係があって、竹井氏の地盤である鴨方の地に居住したのではないかと推定」して居られます。

さて、系図には正吉の長男彦兵衛の箇所に次のように記載があります。「室は加藤某娘延宝元年 この枝流西奈良屋一統と唱う 或る説に肥後守清正の娘なり 木香蛇の目は加藤家の定紋なるが故に蛇の目を以て次男又兵衛定紋と言伝う」
正吉の主人竹井将監と一騎打ちをして勝った相手である清正の娘を正吉嫡子彦兵衛が妻に迎える、一見矛盾した関係のようにも思えますが、秀吉が敵将である将監の供養までしているところをみると、ただ将監の勇猛ぶりを評価しただけではなく、背景になにか別の人間関係があったのではないかと考えられます。高戸家がもともと伊勢、尾張地方に勢力を張っていた神戸氏の流れとすれば、尾張の一農民層から大出世した清正は鴨方高戸家の家筋についても或る程度の知識もあり、娘を縁付かせることになったのかも知れません。

二代彌左衛門には四人の男子があり、三男が家督相続、他の三子はそれぞれ分家しています。以前本家として認識していたのは、その次男多郎左衛門のあとで、林之丞は四男宗左衛門の子孫、「郵便高戸」家は林之丞の家の分家になります。

三代市郎左衛門(助左衛門)は、系図に、はじめて里正となると付記されています。この夫婦の墓碑は多郎左衛門家(即ち善平孝善の家の本家)の墓地への上がり口にあるゴミ焼き場の横にうち捨てられたように立っています。

郷土史家某氏から写させていただいた西奈良屋の系図に、本家二代娘が又兵衛妻とあるので、清通系図にはない女性を下記の系図には加えました。他にも、西奈良屋の系図には、清通の系図に落ちているような縁合が的確に記されていて、西奈良屋が嫡孫になるのではないかと思えます。



清通系図では、三代市郎左衛門の三男新助は長兄甚右衛門早世により本家相続して彌左衛門と改名、室は地頭上村塚村安右衛門娘とあります。西奈良屋の系図では、甚右衛門を本家四代としています。新助よりあと三代の墓碑は善平家(新宅)の墓地のすぐ上に並べられていて、その後の代は新宅のすぐ下にあります。
つまり、新宅は本家の墓地の開いた所に墓を建てて行き、本家が絶えたあとに墓を整理したと思われます。長川寺の墓地を下から見上げると、ひときわ目を引く立派な土塀で囲まれた墓地はこのようにして造成されたようです(上写真)。
天城中島家の文書に、間野多利助貞義の外孫桑(くわ)の墓碑が「鴨方城山」にあると記されていることを知り、更にその城山が長川寺の墓地らしいと気付いて、ダメ元で訪ねた時、この立派な塀がどれだけ心強い目印になったことでしょう。予想以上に簡単に墓碑が見付かり、系図調べを始めて間もない頃の私はとても嬉しく、自信を深めましたが、この分断された本家墓地を認識し、歴史というものはそんなに簡単に語られるものではないということを改めて思い知ることとなりました。

彌左衛門正吉――+――彦兵衛
慶長3     |  西奈良屋
室竹井氏    |
        +――彌左衛門    ――+――與市右衛門
        |  寛永9       |  分家
        |  室赤木氏      |
        |            +――多郎左衛門
        +――女         |  分家
           米本与三左衛門妻  |
                     +――市良左衛門 ――+――女
                     |  貞享4     |  熊越彦右衛門妻
                     |  室田井氏    |
                     |          +――女
                     +――宗左衛門    |  田中與右衛門妻
                     |  分家      |
                                          |                   +――甚右衛門
                     +――女       |
                        高戸又兵衛妻  +――女
                                |  高戸彌市兵衛妻
                                |
                                +――七左衛門
                                |
                                +――新助      ――+――定右衛門吉矩――+
                                |  享保7       |  明和5     |
                                |  室塚村氏      |  室名越氏    |
                                |            |          |
                                +――女         +――長七要明    |
                                |  高戸理兵衛妻    |  明和4     |
                                |            |          |
                                +――女         +――女       |
                                   三宅彌三右衛門妻  |  高橋弥兵衛妻  |
                                             |          |
                                             +――女       |
                                             |  原田直治妻   |
                                             |          |
                                             +――源五郎     |
                                             |  藤井家嗣    |
                                             |          |
                                             +――満津      |
                                                高戸新七郎妻  |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――丈右衛門清通――+==忠蔵忠?   ――+==定右衛門――+――
|  文化12    |  三宅氏      |  宮地氏   |
|  室高戸氏    |  文政2      |  嘉永5   +――倉三
|  室清水氏    |  室清通娘     |  室忠蔵娘     三宅家嗣
|          |           |
+――嘉平次敬久   +――女        +――忠蔵正知――須摩
|  三宅家嗣    |  江木仲右衛門妻  |  慶應1   西山煕政妻
|          |           |  室
+――源助      +――女        |
|  高戸家嗣    |  早世       +――女
|          |
+――文兵衛敬基   +――壮蔵
   高戸家嗣       文化9

六代定右衛門吉矩の嫡子が七代丈右衛門清通で、この人が発見された系図の作者です。
その序文に「家祖が鴨方に定住して二百余年、本家分家十数家は親しく付き合うもの、疎遠になっているもの様々であるが、この家譜を見ればお互いにみな同じであることは明かである。従って、我々の子孫はお互いに助け合って親睦を図り、家名を落とさないように努めて欲しい」と書かれています。
「名門でもない普通の人が系図など作って何になるんだ」といわれる人がいます。つまり、天皇貴族を冒頭に置いた系図でないと何の値打ちもないそうです。
しかし、私は、系図の本当の値打ちは上記清通の序文に集約されていると思います。初代正吉の先が室町、鎌倉、平安とさかのぼることが出来れば良いでしょうが、その前に清通が遺した系図を検証し、更にその後現代に生きているそれぞれの子孫たちを認識することこそ大切なことであり、心の宝になると思います。

甚右衛門――+――喜兵衛 ――+――女
元禄2   |  寛保3   |  高戸嘉右衛門妻
高戸氏  |  室高戸氏  |
      |        +――女
      +――女     |  馬越繁右衛門妻
         中桐氏妻  |
               +――定八
               |
               +――吉十郎
                  寛延1

定八は「東武に下り行方知らず」とあります。吉重郎も早世とあり、甚右衛門夫婦の墓碑は大東の東、今井家の墓地との間にあって、草木に覆われていますので、この系統は絶家して久しいのではないでしょうか。

七左衛門は福山侯に仕えて「東」と改姓したそうです。

東        田井
七左衛門――+――為右衛門
      |
      +――浅右衛門――+――浅右衛門==恵治郎
         備前侯仕  |  備前侯仕  室家女
               |
               +――源七郎

為右衛門は池田内匠侯に仕えて郡目付となり、「田井」と改姓、嗣子はなしとあります。
為右衛門の弟浅右衛門は備前侯に仕えて三人扶持二十四俵。その子は三人扶持二十五俵、男子がなく同家中から恵治郎という婿養子を迎えています。源七郎は東武に下るとあります。


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