浦田家・八濱屋都宇郡妹尾村 浦田家・八濱屋
都宇郡妹尾村




佐藤三郎兵衛家の墓地を探して妹尾を隈無く巡りはじめた時、目を留めた墓地の一つです。広さ、墓石の配列、それぞれの形、重い歴史を背負った家であることが感じられますが、佐藤姓でないので直ぐにパスして余所へ廻りました。
しかし、佐藤静太S氏が、「浦田は佐藤と同族です」と云われるので、三郎兵衛家の調査が一段落してから再度訪ねて各々の碑文をチェックしてみました。

いまのところ系図に纏め上げるところまで行きませんが、本家分家少なくとも二つ以上の流れがあるようです。

いちばん古い墓碑群は最上段に寄せられていて碑文の解読も不能です。
寛政十一年に五十一才で亡くなった龍山(号)という人の墓碑には傍らに生前業績を記した記念碑が建てられています。庄屋を勤めた人のようです。

「文化二年歿、備前国白石村深井清左衛門二男浦田仙右衛門晋義」という墓碑を見つけたときには「おやっ?!」と思いました。白石村深井家と三郎兵衛家は重縁になります。やはり親族のループがここにも隠されていたのです。

九郎太信忠の墓碑は変わった形をしています。上面に「浦田伊望」とあります。「おかしな名だな?」と思いながら、裏面を見るとビッシリ文字が刻んでありました。狭いスペースで苦労しながら読んで行くと、
「考名信忠通称九郎太都宇郡大福村佐藤三郎兵衛二男也文政六年・月・日生幼而養於浦田家為嗣乃長為村吏勤・・・娶公森氏産三男四女・・・明治二十一年・月・日歿享年六十六才 男保羅浦田信孝誌」
浦田信孝という息子が父九郎太信忠の生涯を記したもので、信忠は都宇郡大福村佐藤三郎兵衛二男として生まれ、幼い頃に浦田家の跡継になり、成長の後村役人を勤めたとあります。妻は公森氏で、三男四女があり・・・ということです。「伊望」「保羅」というのはキリスト教の洗礼名のようです。そう言えば、社会主義運動家山川均のお墓もこの様な形になっていました。浦田家は佐藤家と同じ時期に日蓮宗からクリスチャンに宗旨替えしたようです。
江戸時代に比較的裕福だった村役人層などが明治の始めにクリスチャンに宗旨替えしている例はよく見られます。これは、資本を持っている家々が西洋の技術や知識を導入しようとするときに宗教が一緒に入ってきたからで、その親族関係を伝って浸透しています。戦国時代の末期に裕福な人達を中心にキリシタンが浸透したのとよく似ています。

幼い頃に養子となっていることから、信忠の実親か実祖父母が浦田家から佐藤家に入った人であった可能性があります。見て行くと、
天保四年に死去した浦田九郎兵衛信行という墓碑が見つかりました。この人は日蓮宗の戒名が付いています。諱の通字は「信」のようですから、S氏の云われる通り、もとは佐藤家も浦田家も同じ家だったのかも知れません。

「妹尾・箕島のむかしをたずねて(平成八年三月三十一日 妹尾を語る会運営委員会発行)」という本に、「妹尾のシロサトウ家は大福の葦浜屋(八浜屋)の分家で・・・」とありますが、浦田家の墓地に「宝暦七年八濱屋小民」という墓碑があり、浦田家も(白)佐藤家も八濱屋を名乗っていたと思われます。八浜というのは現在の玉野市八浜ですが、妹尾の農産物(主に畳表)を遠国に運ぶための貿易港になっていたようです。藤井家や他の佐藤家に「郡屋」を名乗っている家がありますが、この岡山市郡も玉野市八浜と隣接した地域で、同様の役割があったと考えられます。

背後に塀や斜面を控えていて裏の碑文が読みにくい時、鏡やデジカメが役に立つことがあります。鏡は日陰になって読みにくい文字に横から光を当てて浮き上がらせるにも役に立ちますから、私は七つ道具の一つとして必ず携行しています。光線を反射させるには鏡でなくても白い紙やノートのビニール表紙でも間に合う事があります。

前記の「浦田仙右衛門晋義」の隣には、「文化五年歿 浦田喜右衛門晋悦」という墓碑があります。諱の通字「晋」は「信」と同音シンです。倉敷の新禄豪商で有名な植田武右衛門方章の妻は、「妹尾村浦田信悦娘方章歿後剃髪受戒天明三年歿年五十五」となっていて、喜右衛門晋悦=信悦なのかどうか判りませんが、この家から嫁いだ人に違いありません。更に方章の姪に信悦末男犀助方英を婿養子に迎えて東町分家出店児島屋が立てられていて、植田家と浦田家の縁も深くなっています。

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