平川家
川上郡平川村
佐々木源氏の流れで、遠祖高泰は近江国三上郡平川荘に住んだので平川と称するようになりました。居宅跡は備中国川上郡平川村(川上郡備中町平川)の大字本郷にあり、屋号を土居といいます。家紋は近江源氏の代表紋「四つ目結い」です。
高泰の子高親は、建武3(1336)年に備中国川上郡穴斗郷の領家職を与えられ、紫城という山城を築いて支配の拠点とし、一族の守護神として鋤崎八幡宮を建立しました。菩提寺は曹洞宗観音時ですが、この境内には平川家歴代の墓碑と云われる室町時代の五輪塔が10数基遺っています。江戸時代になってからの墓地も、ほかにちょっと例をみないような広大な土地に多数の墓碑が乱立しています。
戦国時代には尼子、後に毛利家の旗下となって生き抜き、関ヶ原の乱の後は、孫兵衛盛吉のように、一族のある者は毛利家の家臣となって長州萩に移住しましたが、本家の当主親倫は郷士として帰農しました。親倫の曾祖父元忠の弟伊豆守忠親は布賀村の菖蒲城の城主として分家しています。親倫の叔父親盛は同村内に分家(中西屋)を立てています。久親、親倫の時代は戦国時代の末期にあたり、毛利領の最東端として備中もしばしば戦の場になりました。土居平川家の系図を見ると、親倫の代の記事として、「天正10年備中高松城篭城により成羽城主申談差遣 其節平川親常篭城後離散西阿知に住」という記事があります。この西阿知平川家に付いては、こちらへ書きました。
平川村(2145石)は、元和3(1617)年から寛永18(1641)年の20年余を除いて、江戸時代を通じて幕府の直轄領として、代官所支配を受けたところです。土居平川家は備中松山代官小堀氏の時代から大庄屋に任命され、以後子孫がその職を継承し、元禄年中には苗字帯刀御免となっています。
土居平川家の持高(田畑財産)は、延宝5(1677)年には68石でしたが、中興の祖といわれる代右衛門高迢の頃には240石余に増えています。元禄4(1691)年の土居平川家の家族は56人で、この大家族が2反4畝の(700坪余)の屋敷に住んでいたようです。この内の大半は田畑の耕作や酒造を手伝う奉公人であったようです。
金兵衛親忠は蘭風軒と号し、享保20年に「古戦場備中府史」を自費出版しています。弥七郎親芳は江戸、大坂へ年貢米の輸送を、それまでの笠岡港から玉島港に変更しようと玉島港に自費で蔵を建設しています。これは、笠岡の問屋海運業者によるピンハネに腹を立てて、その経費が少しでも安くなる玉島港へと鞍替え(蔵替え?)しようとしたものですが、笠岡の辣腕の問屋連中に邪魔され、大きな借金を背負う始末になります。ただ、弥七郎の行動は、川上、阿賀郡内24ヶ村の幕府天領農民総代としてのものであり、これらの村々の農民が港問屋に収奪されることを防ごうとして立ち上がったことは賞賛されるべきものと思います。弥七郎の借金は養子揖右衛門親寛にも返し切れず、揖右衛門はそのために一時入牢までしています。この様に、幕末は平川家の家運も最低でしたが、次第に経済力も回復し、庄屋から戸長へと呼び名は変わっても、地方政治の責任を果たし続けています。
栄三郎は長女りくに甥(田邉)貞五郎を養子に迎えますが、後に貞五郎は家を出て、平川姓のまま、一宮則武家相続人大守熊と結婚しました。その娘英も平川英のまま生涯を終え、英の長女が則武姓を嗣いでいます。平川のおヒデさんは清水多喜野の仲の良い従姉の1人であったようです。
佐々木 宇多天皇――敦実親王――扶義――義経――経房――秀定――+――秀義 ――+==定経――+――信綱 | | | | +==経高 +――泰綱――長綱――貞長――+ | | | 真野 | +――行定 | | | | 愛智 | +――家行 | | | +――定経 | | 秀義跡嗣 | | | +――経高 | | 秀義跡嗣 | | | | 加地 | +――盛綱 ――+――信実――+――秀忠 | | | | | +――高綱 | +――実秀 | | | | | +――盛秀 | +――義清 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 平川 +――高泰――+――掃部助高親 ――民部太夫光親――+――右近満経 ――+――備前守親香――+――信濃守経親――+ | 貞治1 明徳4 | | 長禄1 | | | | | | | | +――女 +――親兼 | | +――駿河守親永 | 椋梨左衛門妻 | +――玄寿 | | | +――俊兼 | | +――又太郎則親 +――左衛門満定 | | 貞和3 +――主殿介頼治 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――三郎左衛門親實――+――上総介元忠――+――駿河守親豊――+――女 | | | | 在鬼大輔妻 | | | | | +――伊豆守忠親 +――女 +――與七郎親国 +――覚弘 | 菖蒲城主 | 内藤高益妻 | | | +――孫兵衛盛吉 +――左衛門景親 +――与七郎公治 | 毛利家仕 | 金子山城主 | | +――三郎右衛門久親――+――左近親倫 ――+ +――女 | | 寛永16 | 三村家親妻 | 室楢崎氏 | 室横山氏 | | | | +――対馬守親盛 +――女 | | 分家中西 | 平川正親妻 | | | | +――源次郎親賢 +――亦左衛門親常 | | | 西阿知村住 | +――元親 | | 永禄4 +――長左衛門親清 | | | +――女 | 赤木友忠妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――助市郎親治 ――+――市左衛門親吉―――+――弥市右衛門兼久 | 寛永9 | 元禄3 | 延宝8 | 室物部氏 | 室横山氏 | 室平川氏 | | 室武並氏 | +――作左衛門親房 | +――市左衛門宗共==金兵衛親忠――+――和忠治親賢 | 明暦1 +――女 | 享保8 親重男 | 延享1 | 平川重盛妻 | 室横山氏 延享5 | +――六兵衛親国 | 室赤木氏 +==女 延宝4 +――女 室西氏 | 章親娘 室 | 平川宗親妻 | 窪木良孝妻 | | +――女 +――栄蔵親彌 ――+ 渡辺平太夫妻 | 文化14 | | 室三上氏 | | | +――女 | | 赤木忠季妻 | | | +――女 | 平川備穀妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――代右衛門高迢 ――+==平策源賢 ――+――佐登 | 文政6 | 宇野氏 | 平川親信妻 | 室赤木氏 | 文政1 | | | 室高迢娘 +――久野 +――女 | | 有木平次郎妻 | 杉三郎右衛門妻 +==彌七郎親芳 | | 後離縁 有木氏 +――熊之助高弥 | 嘉永1 | 天保15 +――恵十郎親盈 室高迢娘 | | 江草家嗣 +==真八郎親寛 ――+――瀧代 | 吉岡氏 | 田邉義質妻 +――吉左衛門高賢 明治14 | | 藤井家嗣 室源賢娘 +――栄三郎親俊――+==貞五郎親貞 | | 明治45 | 田邉氏 +――和右衛門親義 | 室赤木氏 | 明治29 | 田邉家嗣 | | 室親俊長女 | +――吉二郎 | +――桂助 石原家へ +――保 ――+ | 宮田家嗣 | 昭和3 | | | 室大橋氏 | +――女 | | 朝比奈兵右衛門妻 +――徳次郎 | | 石原家嗣 | | | +――富太郎 | 妹尾家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==範義 ――+――方通 ――男 高橋氏 | 室尾崎氏 昭和34 | 室豊田氏 室保長女 | +――和 | 神原定妻 | +――功 | 昭和10 | +――太久 ――+――男 | 昭和47 | | 室土田氏 +――女 | +――佐枝 | 荻原家へ | +――杲加 | 昭和20 | +――富久 | 昭和26 | +――政哉 赤木家嗣
親寛の子荘一郎は賀陽郡日近村(岡山市)の大庄屋石原寿之助の養子となって分家を立てています。貞五郎の妻りくは離縁後、後月郡井原村(井原市)の大津寄(おおつき)環造妻となっています。保の妻は窪屋郡倉敷村(倉敷市阿知)の別家大橋家の2代十蔵忠信の次女です。別家大橋は中島屋大橋家の3代剛直が下道郡服部村の田中家に嫁いだ妹の子を養子に迎えて分家させたものです。範義は広島県御調郡向島の高橋家から婿養子に入っています。この高橋家は代々心臓病を得意とする医家であったそうです。
下記は分家中西
対馬守親盛――源左衛盛治――助左衛門親重――+――治左衛門重盛――+==助左衛門宗親 慶長2 慶安1 | 寛文6 | 忠利男 室 室 室横山氏 | 室平川氏 | 宝永1 | | 室平川氏 +――庄兵衛忠利 | | 分家 +==武兵衛親重 ――+――金兵衛 | | 杉沼氏 | 宗共跡嗣 +――女 | 享保15 | 森助兵衛妻 | +――伴七親貴――+ +――牧右衛門親敷 元文2 | | 寛保3 室村田氏 | | | +――兵衛親武 | | 延享5 | | | +――左近右衛門章親 | 享保3 | 室陶山氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――直左衛門満倩――才兵衛親孝==助左衛門親信――豊太郎親愛==基太郎 ――延太郎 天明3 文政6 吉岡氏 明治11 平川氏 昭和23 室 室 嘉永7 室 明治43 室 室家女 室 室土岐氏
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