土師家
下道郡矢田村





妹尾太兵衛尉康正は庄屋役を娘婿土師治兵衛に譲って毛利家に仕官したといいます。
妹尾一族墓地に土師姓の墓碑をいくつか見つけました。

○土師多兵衛享保八年歿
○土師多兵衛妹享保十四年歿
○土師忠右衛門母宝暦九年歿
○土師忠右衛門明和九年歿

太兵衛尉康正の弟が太郎左衛門尉兼長、この次男作左衛門兼時、兼時第四子七左衛門(元禄から宝永頃の人か?)のあとを土師治兵衛子甚七が嗣いだという記録もあります。
玉島の白神與三右衛門盛之の父は下道郡市場村白神盛康で、母が土師氏。この白神氏と墓地を同じくする瀬尾家が箭田から出ていることが判っていますので、盛之母土師氏も箭田土師氏であろうと思います。
白神氏は菅原道真の後裔と云います。道真の先祖出雲宿祢野見は、垂仁天皇の皇后が崩じた時、それまであった殉埋(=身近に仕えていた人を主の墓の周りに生き埋めにすること)の風習をやめ、代わりに埴輪を造るように提案しました。天皇は大いに感心してこの案を採用し、その時に土師連の姓を賜っています。
岡山県には作州地方を中心に有元、鷹取、江見など菅原一族と称する古い歴史をを持つ諸家があり、備中には白神姓が広く分布しています。箭田の土師諸家の家紋から、土師氏もまた同族と考えられ、そうすると県内で菅原一族は大族の一つに数えられることになります。

備中村鑑上に、
○松平内蔵頭様 御城下備前岡山
七百五十石          下道郡矢田村    土師治平
百七十八石五斗九升八合       古地村    土師治平
とあります。

この家の系譜が気になりはじめたのは、三手の渡邉家、本家分家をつなぐ鍵=綱太の姉妹が土師治平次男佐藤信利へ嫁いでいることを知ってからです。即ち、
早島町の佐藤*(言扁に求)三郎信利が
「箭田村土師治平次男幼名郡次郎天保十三(1842)年」
この妻左代が原田武左衛門次女(生一男三女大正十一年歿年七十四)となっています。
もしかしたら土師家に原田家系譜解明のヒントが得られるかも知れないと期待してお墓を訪ねることにしました。

ちょうどS氏が、私が実際に調査に歩いているところに同行したいとのご連絡がありましたので、平成十四年十月、東京から訪ねて来られたS氏と共にこの家の墓地調べに行きました。調査のために用意した資料は、諸家の系譜に見られる土師家の情報を整理したものと、住宅地図だけでした。
住宅地図上に見られる何ヶ所かの「⊥」印を確認しました。畑を耕しているおじさんに話を聞いたりしながら歩きましたが、なかなか土師姓の墓地が見つからず、車に乗って移動しようとした時に上写真の墓が目に入りました。

新三郎  ==八郎次邦元――儀左衛門邦久――+==秀太郎利直 ――+――治平利庸――+――國太郎 ――+――
       木谷氏            |  松井氏     |  明治11  |  明治19  |
       宝暦7    室溝口氏    |  文化11    |  室佐藤氏  |  室安原氏  |
       室家女            |  室安原氏    |        |        |
                      |          |        +――郡次郎   +――玉
                      +――高       |           佐藤家嗣  |  荒木高敏妻
                         市右衛門妻  |                 |
                                 +――二男二女           +――
                                                      中塚儀八妻

墓誌を照合すると、八郎次邦元から右助利庸までは碑文に刻まれた親子関係でつなぐことが出来ます。木谷家の情報から八郎次が新三郎の嗣子として入っていることが判ります。早島奥佐藤家を嗣いだ郡次郎の父治平は明治十一年に七十五才で亡くなっていますので(1878-75=1803)、秀太郎利直の三男子の一人かも知れません。なお、秀太郎の墓碑は二つあり(文化十一年歿三十一才 1814-31=1783)、最初に建てられたと思う墓碑には邦直と彫られています。即ち、この家では諱の通字が、邦=利であったようです。秀太郎利直は備後安那郡西中条村松井氏です。

儀左衛門邦久妻は「備前岡山溝口長太夫娘文化四年歿」とありますが、「三門山方面墓碑上(渡辺知水)」に、
「溝口孝範 至善商 中峯 明和九年
 〃 光範 縄屋長太夫 源左衛門 寛保三年五十二才(1743-52=1691)」
という記録があり、溝口(長太夫)孝範の娘が邦久妻かも知れません。

日枝平助在久の後妻が
「岡山藩溝口氏嘉永七年歿年五十八(1854-58=1796)」
となっています。この人も縄屋溝口家の人かも知れません。財を貯えた有力商人が藩政に組み込まれることはよくありました。

佐藤信利の親治平夫婦の後ろに同じ形式で國太郎夫婦という墓碑が建っています。治平と國太郎(明治十九年歿五十一才 1886-51=1835)の生年は三十二年開いていて、二人は親子、信利は國太郎より七才ほど若くて二人は兄弟のようです。治平の妻は佐藤氏とだけ書いてありますが、その子が奥佐藤家を嗣いでいることから、早島の奥佐藤氏に違いありません。
「**童女 天保四年二才(1833-2=1831)土師利庸女八重」
という墓碑がありますので、八重は國太郎の姉、即ち治平は右助利庸と同一人物であると思います。幼くして亡くなった子どもの墓には意外な情報が記されていることがあり、小さい墓碑だからと云って無視出来ません。

國太郎のあとがどうなるのか墓だけからはよく判りませんが、玉島勇崎中塚一族の墓地を調べたとき、儀八妻寿が
「吉備郡箭田村土師國太郎長女大正十二年五十二歳」
とあるのを拾っています。年も合うので上記のように並べてみました。
また、荒木貫一郎高敏の妻玉が、
「箭田村土師氏昭和九年歿年六十七(1934-67=1867)」
となっています。
江戸期のかなり古い時代から既に何軒かの家に分かれていたことはお墓の多さですぐ解ります。

小野光右衛門以正妻琴が、
「下道郡矢田村土師平兵衛祇利次女母芳賀氏天保八年歿年四十六」
とあるので、平兵衛祇利という墓がないか探してみました。そうすると、**如水居士(=平兵衛祇利)と**智水大姉の夫婦墓が見つかり、妻の方には「井手村芳賀恭宥長女」とありました。小野以正は大谷村の領主蒔田家膝元である賀陽郡井手村付近の大庄屋も勤めた人です。なるほど、こういう縁もあったのかと納得しました。江戸時代の大名領地はあちこち飛んでいることがあります。従って、かなり距離があっても、それらの地域間の領民同士の縁組みがよく見られます。こういう付き合いは明治以降も残っているところも多く、配偶者が○○氏としか書かれていない場合、これを念頭に置いて調査範囲を絞って成功することもあります。
さて、**如水居士の隣に、
「**教山居士=安永三年安左衛門利幹」
という墓があります。戒名の共通文字「翁」と歿年からみて親子ではないかと考えました。お墓の石造りもよく似ています。その後ろには
「**鶴翁居士=安政六年七十才平兵衛與利(1859-70=1789)」
という、やはり石造りがよく似た墓があります。妻は北田村鳥越氏とありますので、鳥越の一族だろうと思います。

安左衛門利幹――平兵衛祇利――+――平兵衛與利
安永3     文政3    |  安政6
室浅沼氏    室芳賀氏   |  室鳥越氏
               |
               +――琴
               |  小野以正妻
               |
               +――曽能
                  由良長憲妻

平井平十郎箇則(享保三年 室安永二年八十二才1773-82=1691)姉が土師次兵衛妻とありますので、上記系図の新三郎先代が次兵衛となるのかも知れません。

ほかに、小野又左衛門軌休(明和六年)妻が土師佐平治娘「宝暦六年」となっています。
また、西山太郎右衛門安政(宝暦九年)の妻が「土師氏宝暦二年」更に、其の子政武(寛政二年七十五才1790-75=1715)妻は妹尾氏となっています。



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