池田家
西北條郡津山戸川町



母の実家は「池田」姓ですが、母の祖父辰治郎の臍の緒には「戸川」辰治郎と書いてあったそうです。
戸籍に、辰治郎は明治元年二月三日生とあります。明治の改元は九月ですから、慶應四年二月三日生と記されるべきです。ともかく、戸川から池田に改姓したのはそんなに昔のことではないのですが、改姓の経緯はよく判りません。

戸川家の先祖は宇喜多家の家老戸川肥後守逵安と云われ、幕末まで津山町に住んでいました。伯父辰二の記録によると、
「天保二年、辰治郎の曾祖父藤助は嫡男の鶴蔵を頼って西々條郡中谷村入に来た。彼は天保十二年にこの地で亡くなりここに埋葬された。・・・後日祖父が藤助・鶴蔵夫婦の法名を探した時、それが津山の妙法寺にあった。彼の妻の『とよ』は、夫婦で一時津山の家に帰っていた時期に亡くなり、津山の墓地に葬られた。鶴蔵が最初この地へ来たのは、日蓮宗不受布施派の弾圧に関係があったらしい。父は津山藩の久塚(この辺りの別の呼称)番所の役人に関係していたとも言っていた。鶴蔵は父が亡くなり、一度は津山へ帰っている。嘉永四年再び、「三室屋」を買ってこの地に来たのであった。」



一 上入村三室屋店家屋鋪外商株
家付諸道両  敷地田畑不残
代銀札四貫目にて此度中谷下湯差村
源吉立入慥に約定仕候當代銀之儀者
来る弐月限一銭も不残急度御算用可
仕旨慥成書付相渡置候処後日
双方相違御座有間敷候仍而如件 已上
   嘉永五壬子二月
        上森原村
           乕五郎 印
     池田丈右衛門殿

このような古文書が遺っています。鶴蔵は津山中之町の池田家に養子に入った叔父丈右衛門の援助を受けていたようです。
鶴蔵夫婦は子に恵まれず、丈右衛門の娘愛を養女に迎え、これに入村の紺屋池田家から廣蔵という婿を取っています。
ところが、鶴蔵と廣蔵の仲がうまくゆかず、鶴蔵は愛を連れて津山へ引き上げます。しかし、生まれたばかりの辰治郎を父のない子にするわけには行かないと、愛は養父からの勘当を覚悟で入村に戻りました。
こういう複雑な家庭事情の中で、明治新政府による戸籍編製が行われ(明治五壬申年)ていますから、愛は自分の実家の姓を名乗ってしまったのではないかと思います。家紋も中之町池田家の紋と同じ「丸に立ち澤潟」です。
後年、村役場の火災による戸籍管理の不行届もありました、上記の明治元年二月三日という辰治郎の生年の誤記はこの時におきたと考えられます。
関東大震災の時、実際に、消失した戸籍を住民の申し出、記憶による口述に基づいて再製されています。

墓地は鏡野町中谷入の無量寺参道脇と津山市西寺町の妙法寺境内にあります。藤助までの墓は妙法寺にあるはずですが、墓地は敷地が凹型で、丈右衛門の嫡子丈助夫婦の墓まで建てられているように、周辺墓地の都合でかなりな修飾を受けているようです。下記は祖父氐三と伯父辰二が作成した系図によりますが、助三郎吉房以前は位牌、過去帳などの原記録がなく、墓碑も確認できません。

戸川
平右衛門秀安==源兵衛安吉==助左衛門嘉吉――+――助三郎吉房――助三郎吉富――+――藤重郎吉仁 ――+
慶長2     秀安孫    池田氏     |  明和5    文化7    |  文政1     |
        延宝3    正徳2     |  室市氏    室長尾氏   |  室妹尾氏    |
        室池田氏   室戸川氏    |                |          |
                       +――吉植            +――儀右衛門    |
                          荒木家嗣          |  市家嗣     |
                                        |          |
                                        +――女       |
                                           長尾丈兵衛妻  |
                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==藤重郎
|  天保3

+――嘉兵衛
|  押入分家
|                     池田
+――藤助親仁  ――+――鶴蔵吉清  ==廣蔵  ――+――辰治郎   ==氐三   ――+――昭雄   ――+
|  天保12    |  明治8     池田氏   |  昭和15    竹村氏    |  平成7    |
|  室藤井氏    |  室植木氏    明治19  |  室脇坂氏    昭和48   |  室池田氏   |
|          |          室池田氏  |          室辰治郎娘  |         |
+――女       +――京助武仁          +――兵六             +――辰二     |
|  竹内家嫁    |                |  植山家嗣           |  室竹内氏   |
|          |                |                 |         |
+――女       +――女             +――猪徳             +――T子     |
|  齋藤家嫁    |  仁木和吉妻            竹村嘉四郎妻         |  清水氏妻   |
|          |                                  |         |
+――丈右衛門吉徳  +――女                               +――S之     |
   池田家嗣    |  山崎小吉妻                           |  室前田氏   |
           |                                  |         |
           +――女                               +――N之     |
           |  水島駒吉妻                           |  室松原氏   |
           |                                  |         |
           +――女                               +――Y之     |
              池田喜四郎妻                          |  室佐々木氏  |
                                              |         |
                                              +――M子     |
                                                 垂井氏妻   |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――H子
|  北山氏妻

+――R介    ――+――
|  室金丸氏    |
|          +――
|          |
|          +――

+――N子
   谷口氏妻

源兵衛安吉は、秀安嫡男逵安の七男で母は岡越前守元忠娘、戸川家の本家を嗣いでいます(延宝三年・月・日歿年五十九・・院昭恭日・)。妻代記は池田與左衛門娘(・年二月・日歿年五十一・・院妙慎日・)。
助左衛門嘉吉は、池田越前守薫彰の三男で寛文元年に江戸で生まれ、延宝三年五月に家督相続、その後主家の断絶により浪人、後に八木勘十郎高補に仕えています(正徳二年・月・日歿、年五十二・・院自在日・)。妻久利は宇喜多家浪人戸川助之進の娘(享保十五年・月・日歿・・院妙聞日・)。
助三郎吉房は宝永元年に江戸で生まれ、享保十年主に従って津山へ来ています。享保十一年十一月に浪人し、玉野屋を称しています(明和五年・月・日歿、年六十五・・院如雪日・)。妻祥は津山油鍵屋市源左衛門の娘(安永元年・月・日歿、年六十六・・院妙正日・)。この市という家は「玉野屋戸川家親類記(以下親類記と略す)」に出ています。

もとの書類は不明ながら、下記のような記録は書写されて遺っています。

本家戸川氏は元備前の洲児島に住、往時一族苫西郡富川宿に移る
先祖は四国伊豫の水軍也河野氏の庶流と称す
始富川後一族戸川に改姓
氏の長者富川禅門君は先年の天文の頃当洲乱れ
其節戦にて斃、其時一族皆為離散す
禅門は養子平介君を幼少の為、戦火から逃し某寺に隠す
後日平介君成人し宇喜多家に使え
平介君の母君遺言に依り、
覚如不變院殿源兵衛安吉君に津山本家の世継と定
源兵衛殿は戸川家の再興の人也
始父に仕え府に有り妻は宇喜多家の旧臣池田與左衛門殿の女也
養子は播州新宮池田越前守三男嘉吉君戸川家の祖也
養母は戸川土佐守女也、生母は側室某也
予の父は嘉吉君の嫡男也
祖母は同族戸川助之進殿の女也
母は旧宇喜多家の臣の油鍵屋市氏の女也
   宝暦十年庚辰正月
           吉房嫡男
               戸川助三郎吉親
                  藤写

先祖の事を書遺す
安吉君
 源兵衛殿の時
 葬地は府也本門寺
嘉吉君
 源之助・助右衛門殿の時
 葬地は府也、本門寺
 主家断絶後八木勘十郎様に仕える
吉房君
 茂右衛門・助右衛門後は助三郎殿の時
 享保十年春、八木様に従い津山に来る、同十六年六月禄を辞して
 浪宅を玉野屋に定む
 玉野屋は石洲浪人戸川勘介殿の一時の仮住也
           助三郎吉親記
                  藤助写

吉植は荒木吉當の養子となっています。妙法寺の墓地に、
「荒木氏代々合祭之墓 天保十四年十一月廿六日 戸川藤助建之」
という碑があり、この家の墓も同居していたのかも知れません。「親類記」に、
「荒木吉當君之為養子吉植君戸川家ヨリ入家正徳年中之頃ヨリ書始ム夫ヨリ前者本家荒木氏ニ有依而省之」
という記述があります。

「清光院宗心日要霊 文化七庚午年十一月廿八日 玉野屋助三郎吉親夫婦之墓
 清月院妙心日了  文化十二乙亥年十一月廿六日」
という墓碑が「玉野屋戸川家親類記」の記述と一致しています。これは、鶴蔵の弟(親仁四男)京助武仁が嘉永四年正月に書いたもので、中之町池田家に遺っています。
辰治郎と和平(丈右衛門の孫、二人は従兄弟同士)が、この冊子を破って「凧の尻尾」に加工しているいるところを義大叔父の水島駒吉に見つかって咎められたという話が伝わっていますが、一部が欠損していて、解読が難しくなっています。

鶴蔵の妻佐和は土居の植木氏です。この土居は「西の土居」といわれ、現在の落合町の一部です。この植木氏は久世町草加部の福島家のページで紹介している植木氏か或いはその一族ではないかと考えています。作州では一般に「土居」と言えば英田郡作東町の土居(東の土居)のことを指します。

**

辰二  ――+――T之
平成25  |
室竹内氏  |
      +――Y子

妙法寺の墓地に、
○清心院宗浄日敬 安永九年庚子年八月十八日
 奉唱満首題一千部 霊
 浄心院妙清日光 寛政三辛亥年六月廿八日 中之町紺屋甚助夫婦
○慈峯院清雲信士  紺屋助三郎
 鷲峯院妙乗信女霊
○自清童子 五月七日 俗名紺屋長吉事
 信受宗悟霊 安永八己亥二月十七日 俗名紺屋忠助事
○良達醇厚 安永二癸巳四月二日 紺屋清助
などの墓碑があり、中之町池田家位牌に、
○妙法 浄心院妙清日光 寛政三辛亥年六月廿八日
    清心院宗浄日敬 安永九年庚子年八月十八日
    良達醇厚    安永二癸巳四月十二日
○妙法 慈峯院清雲信士 享保六年十二月廿八日
            右之聖當家之祖也末代迄可致大切者
    鷲峯院妙乗信女 享保五庚子年四月廿三日
があることから、中之町池田家と玉野屋戸川家は丈右衛門の代よりずっと前から「遣ったり取ったり」という」重縁関係があったと思われます。

**

紺屋
助三郎  ――甚助  ――+――忠助
享保6    安永9   |  安永8
室      室     |
             +――清助
                安永2

中之町池田家では、「玉野屋の分家に今津という家がある」と伝えられています。墓地は蓮光寺にあり、
「開権院妙實日相信女 出店玉野屋太助妻 文政十三年四月廿七日」
という墓碑があります。妙法寺にある、
「開了院浄蓮日實 (無銘)
 花開院妙蓮日現 花 寛政三辛亥年三月七日 玉野屋太助夫婦墓」
と比べると、戒名に使われている文字の共通性から、浄蓮=太助の先妻が妙蓮、後妻が妙實でないかと思います。

出店
玉野屋(今津)

戸川          今津
太助  ――太助  ――茂平  ==東平  ――+――喜一郎
      嘉永6   大正3   松尾氏   |  昭和49
室     室     室     昭和2   |  室
室                 室     |
                        +――清   ――+――女
                        |  昭和61  |
                        |  室     |
                        |  室     +――妙子
                        |        |  平成23
                        +――里子    |
                           昭和57  +――浩雅
                                    昭和58



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