菅家
久米南条郡下神目村




下神目に菅という家があることは大村家の系図を整理していて知りました。
即ち、大村官右衛門房重母の実家になる同郡建部村綿屋大村家から於直という人が菅周齋妻となり文化七年に廿七才で死去しています。また、房重の直系子孫盛長妻菊子が下神目菅寛次郎次女とあるので、おそらく同じ家だろうから一度確認してみたいと思っていました。
大村房重の次女が江田喜三治に嫁ぎ、その孫の孫が私の祖母です。

その後、父の従兄江田治三氏から、
「薬害エイズ問題に対して立派な対応をされた厚生大臣の菅直人さんは岡山県の人ですよ」
と聞き、作州菅家一統の宗家筋に当たる勝田郡奈義町高円の有元家直系子孫から、
「江戸時代、下神目の菅家の人、つまり菅直人さんの先祖が作州菅一族を代表して、ルーツを確かめるために上京しています」
という話も聞きました。

二百年以上昔の関係を気に懸けていた時、現代に結びつく情報が飛び込み新鮮な刺激を受けました。
「菅さんはホントに岡山の人?、自分が知らなかっただけ?」
と思いながら、回りの人たちへ質問してみました。
そうすると、ほとんどの人が「菅直人さんのルーツが岡山」だと知らないことが判りました。
米国で仕事をしている江田治三氏がどうしてそんなことを知っていたのか益々不思議になる一方で、江田家初代の妻が大村房重の次女であることも面白い縁と思いました。

「菅(かん)」は菅原の「菅」、先祖は藤原氏の陰謀で太宰府に流された菅原道真、作州の菅家一統です。

国道53号線を北に走り、「下神目」という小さな地名標を目印に右折すると小集落があります。ここには菅姓を名乗る何軒かの家があり、それらの家の土蔵には梅鉢紋(天神様の紋)が入っています。みんな同じ株家のようで、山の手の奥まった処に菅直人氏の先祖が暮らしていたという屋敷跡があります。この裏山に上がると、菅一族の墓地がいっぱい並んでいて、一番上に直人氏の家の墓地があります。この村の庄屋を勤めていたようで、この辺りの菅一族の本家筋になるようです。

菅道夫氏作成系図と墓誌他を参考にして下記の様にまとめました。

菅原
道真――+――高視――緝熈――雅規――資忠――良正――董宣――持賢――永頼――美作守知頼――真兼――尚忠  ――仲頼――+
    |                                  嘉保                   |
    +――淳茂                                         室漆間氏      |
    |                                                       |
    +――兼茂                                                   |
    |                                                       |
    +――淑茂                                                   |
                                                            |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

|         有元
+――満佐――+――筑後守忠勝――祐頼――佐高――+――佐弘――+――佐顕――+――佐久――・・・高円有元本家
       |                 |      |      |
       |                 +――佐光  +――佐保  +――佐種
       +――佐友             |      |      |
       |                 +――佐吉  +――佐延  |  菅納
       +――周長                           +――佐常――豊前守佐■――+
       |                                  鷹巣城主       |
       +――公興                              菅納氏        |
       |                                             |
       +――忠門                                         |
       |                                             |
       +――佐利                                         |
       |                                             |
       +――資豊                                         |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――八郎左衛門  ――+――三郎右衛門  ==四郎兵衛  ――+――善三郎  ――+――勘十郎重晴 ――+
            |  元和4              |  元禄10   |          |
            |                   |         |          |
            |                   |         +――徳左衛門    |
            +――市郎右衛門重家          +――八蔵        五郎兵衛跡嗣  |
               分家               |  分家                |
                                |                    |
                                +――五郎兵衛              |
                                   分家                |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==治郎太夫  ――利兵衛為重――勘八  ――利兵衛  ――+――善三郎勝重――実太郎重秀――元太郎家重――+
   享保12    天明1    安永2   天保8    |  明治16   明治16   大正9    |
           室      室     室      |  室      室田口氏   室直原氏   |
                               |                       |
                               +――広右衛門                 |
                               |  九平跡嗣                 |
                               |                       |
                               +――瀬四郎                  |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――実忠重 ――+――寿雄   ――+――*子
   昭和21  |  平成3    |
   室氏   |  室三谷氏   +――直人  ――+――源太郎
         |            室姫井氏  |
         +――重孝              +――**郎
         |  石井家嗣
         |
         +――千枝子
         |  姫井淳妻
         |
         +――道夫
         |  平成7
         |  室
         |
         +――五百枝
            津下健哉妻

江戸時代の初期に琴平や小豆島(何れも香川県)に分家が出ています。倉敷の宮崎屋井上家七代、五蔵永美の妻政子のところに「琴平菅氏、文化九年歿六十五才」とあります。

實太郎重秀の妻みつ女は同郡福岡村押淵の田口氏、元太郎家重の妻繁は久米郡吉岡村直原芳助三女、實忠重の妻妙子は真庭郡落合町杉治七郎三女で、その姉が鎌田富次郎妻、姉妹の母は真庭郡落合町西河内の井手氏で、この井手本家の現当主が紘一郎(真庭市長)です。
實は津山中学から岡山医専に進み医師となっています。岡山県病院で研修の後、明治四十四年に津山市内で開業。大正二年に郷里に戻って医業を続け、久米郡医師会長、郡会議員などを歴任しています。一方で囲碁、俳諧の趣味も楽しみ、昭和二十一年に六十二歳で亡くなっています。この人の大きな顕彰碑(美土路昌一題字、黒田慶次撰、桂南大原専次郎書)は集落の中程に建てられています。

寿雄妻は丸川新平義方の外孫です。

市郎右衛門重家――+――四郎兵衛
元和9      |  三郎右衛門跡嗣
         |
         +――利兵衛
         |  四国琴平へ
         |
         +――市右衛門
         |  分家
         |
         +――久左衛門
         |  分家
         |
         +――重郎
            小豆島へ



本家の墓から少し下った処に元墓と云われる墓地があり。ここには豊島石で造られた五輪塔がずらっと並んでいます。その五輪塔の奥に大村家系図に出てくる菅周齋夫婦の墓碑をみつけました。周齋も文化九年に三十五歳で早く世を去っていました。周齋という名から想像して、職業は医者ではなかったかと思います。

五輪塔は一番古いものでも享保年代のようですが、豊島石は磨耗が激しくて碑銘の判読がとても難しくなっています。

徳左衛門重貫――八右衛門重信――柳碩重治――+――柳質重則――養軒
享保15    元文3     宝暦5   |  寛政12  文政6
        室       室     |  室金嶋氏  室
                      |
                      +――玄意  ――周齋
                         文化13  文化9
                         室     室大村

五輪塔墓碑群のほとんどは分家の徳左衛門の系統のようです。

源五郎――九平==広右衛門==周五郎――+――武一郎
寛政5  文政2 明治5   岸氏   |
               室家女  +――寛次郎

源五郎が冒頭系図の源五郎にそのまま続くのか考察不充分ですが、大村盛長妻菊子の父寛次郎はその子孫になることが判りました。母は赤磐郡竹枝村小倉岸信太郎次女、こちらで紹介した家の株内です。


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