有元家
勝北郡高円村
作州ではたいへん有名な家で、いろんな家がこの家系につながっています。
では、神代からの系譜をご紹介いたします。
始まりは天照大神の第2子天穂日命です。出雲宿祢野見は垂仁天皇の御代に土師連の姓を賜っています。
宇庭は阿波守、安人は和泉国秋篠に住んで、丹波、備前、備中の守などに任じられています。
古人は桓武天皇の侍講をつとめ、遠江守従5位下に任じられました。この人は大和国菅原里に住んでいたので菅原朝臣を賜っています。古人もその子清公、清人共に遣唐使となって中国で勉強したようです。とくに、清公は3度も入唐しています。嵯峨、仁明両天皇の侍講をつとめ、文章院を建て、従2位にまで叙せられています。
是善は文徳、清和天皇の侍講をつとめた文章博士で、従2位に叙せられています。文徳実録の勅撰、貞観格式の撰などに関わっています。
天照大神――天穂日命――建比良邊命・・・可美乾飯根命・・・出雲宿祢野見・・・身臣・・・宇庭――+――安人 | | 菅原朝臣 +――古人――――+ 弘仁10 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――清公――+――善主 | 承和9 | | +――嘉猷――持里 +――清人 | 承和1 +――忠臣 | +――是善――道真――+――高視―――――+――緝熈――文時――惟熈――宣茂――茂明 | 天慶4 延喜3 | 延喜13 | | 室伴氏 | +――庶幾――輔元――師長 | +――淳茂――在躬 | +――興善 | +――雅規――資忠――+――孝標――定義――+――是綱 +――兼茂――逸倫 天元2 永延3 | | | +――良正 +――茂長 +――淑茂――理冷 | | +――薫宣 +――在長――+ | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――清能――宣忠――長守――為長――+――長成――清成 | +――高長――長経――季長――為視――為綱――為守――為清――為賢――為親――+ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――為学――為康――為経――為適――為庸――+――為致 | +――長時 | +――長義
学問の神様、天神様として有名な菅原道真は、こういう古代の学者の家系から生まれています。代々の当主と同様に、遣唐使として大陸にも渡って勉強していますが、先祖とは少し違って、政治感覚も持ち合わせていたのか、権大納言右大将、従二位と政府内の地位もどんどん上昇して行きました。もともと天皇に講義をするような家ですから、道真が政府高官になることを快く思わない人がいたのでしょう、57歳の時に、讒言によって太宰府に流されます。翌年には無念のまま配所で亡くなりました。しかし、道真の死後、都ではいろんな事件が多発し、これを道真の祟りと畏れられ、道真は左大臣正一位、太政大臣と位階を上げられて復権しました。
有名な人なのでいろいろな逸話があるのでしょうが、道真は父是善が出雲国に勤務中、当地の女性との間に出来た子であるという説もあるそうです。賤女とあるので、身分の低い女性だったのでしょうが、色白のたいへんな美人であったようで、是善を神秘の梅がある山に案内した時から良い仲となったそうです。「賤女裾をかかげて案内す」とあるので、なんだかあやしい場面を想像してしまいます。あまり品のない勘ぐりをしては罰が当たりそうですから止めましょう。
道真の復権をうけて、子孫はまた文章博士、侍講として学者一門として続いています。後に、高辻、東防城、西防城、唐橋などと名乗ったようです。
資忠の次男良正は正暦年中に遁世して美作国勝田郡香爐寺に住みました。良正から数代を経た知頼は美作守となり、勤務中に作州勝田郡で死去しています。その子真兼は都に帰らないまま押領使となって作州に住み着きました。知頼、真兼、尚忠の墓は円墳として現存しているそうです。
尚忠の妻は漆間時国の妻の実妹になり、仲頼と法然上人(浄土宗開祖)はいとこ同士になります。この関係は立石家のページでも書いていますが、両親を喪った幼い頃の法然が、奈義山中腹の菩提寺(浄土宗)の古刹にいた伯父観覚上人を頼って身を寄せたという話もあります。
仲頼は子供のないまま妻に先立たれていましたが、保元の乱で流されて来た近江国の住人近藤頼資夫婦の面倒を見ていた処、頼資が亡くなり、その妻を後妻にして満祐が生まれました。頼資の2子公資、公継は仲頼の子として大きくなりました。頼資の妻、仲頼の後妻は二階堂藤原維行の娘です。二階堂氏はこちらで紹介している二階堂(中島)家の先祖だろうと思います。
満祐は三穂太郎と号し、名木山(奈義山)に登って仙人の術を学んだということです。その妖怪飛行術で播州佐用の女性のもとに通うので、妻が嫉妬して満祐を殺したというアブナイ話があります。元気な人だったのでしょうか、男子7人に恵まれ、それぞれ有元(在本)、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、江見という姓を名乗っています。これを併せて菅家7流といって、作州の名門ということになっているようです。有元の起源は、名木山の麓(元)に有るところから付けられたそうです。廣戸、鷹取の代わりに野上、豊田を挙げているものもあり、また、菅家一統として皆木、小坂、富坂、右手(うて)、梶並も加わるそうです。どこがどうつながっているのか正確なところは不明です。同族と云うことで結束の強化を計ったものではないでしょうか。
良正==薫宣――持賢――永頼――知頼――真兼――尚忠――仲頼――+==公資 中島城主 良正弟 寛徳1 保安1 室秦氏 | +==公継 草苅和泉守 | +――満祐―――+――忠勝 有元筑後守――+ 天福2 | 弘安10 | 室豊田氏 | | +――佐友 廣戸豊前守 | | | +――房長 福光伊賀守 | | | +――公興 植月豊後守 | | | +――忠門 原田日向守 | | | +――佐利 鷹取長門守 | | | +――資豊 江見丹後守 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――祐頼――佐高――+――佐弘――+――佐顕――+――佐久――佐国―――+――佐氏――佐房――佐則――――+ | | 元弘3 | | 文明12 | 天文1 天正6 | +――保綱 | +――佐保 +――佐種 | 室安東氏 | 皆木三河守 +――佐光 | | +――佐宗 | | +――佐延 +――佐常 | +――佐吉 芳賀太郎 菅納左近 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――市郎兵衛佐明――+――平左衛門佐政――平左衛門佐儀――+――平左衛門佐賀――+――平左衛門佐春――――+ | 慶長2 | 寛永9 延宝7 | 享保4 | 延享4 | | | 室岡氏 室粟井氏 | 室熊谷氏 | 室土居氏 | +――一兵衛佐有 | 室下山氏 | 室桜井氏 | | +――市兵衛佐秀 室姫路綿屋娘 | 室梅田氏 +――伊右衛門佐久 | | | +――佐峯 | | | +――市左衛門佐重 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――平左衛門佐伴――+――女 目瀬藤四郎妻 | 明和8 | | 室春名氏 +――女 井戸嘉吉妻 | 室黒田氏 | | +――女 皆木郡兵衛妻 +――佐盛 | | +――政五郎佐和 +――与蔵佐宗 | 寛政11 | 平尾家嗣 | | +――菅四郎佐基――+==次郎佐信―――+――女 前原富右衛門妻 +――吾市佐言 天明3 | 前原氏 | | 寛政4 | 安政5 +――女 井戸作助妻 | 室新家氏 | 室佐基娘 | | | +――平左衛門佐幸――平四郎佐英―――+ +――磯五郎佐武 平尾家嗣 +――倉次郎 | 明治5 大正2 | | 今井家嗣 | 室小坂氏 室尾嶋氏 | | | | +――和太郎 +――直右衛門 | | | 関本有元家嗣 | +――波之助 | | | 佐々木家嗣 +――女 | | 長尾鶴蔵妻 | +――女 | 井上貫太妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――勘右衛門佐慶 | 昭和6 | 室長瀬氏 | +――佐朋 ――勲佐智―――男 ――+――男 昭和18 昭和28 室安東氏 | 室水島氏 室長瀬氏 室有元氏 | +――女 福島家へ
佐弘は菅家一族300余騎と共に伯耆国舟上山で後醍醐天皇に拝し、都に上って北条軍と戦っています。これは太平記7巻に記されています。
佐延は久米郡垪和村に住んで芳賀(はが)氏を名乗っています。佐常は下神目村に住んで菅納左近と称し、これが後に菅(かん)氏となりました。
佐明は佐則が尼子勝久と共に播州上月城に籠もって戦死した後、乳母に懐かれて備前児島に逃れ、宇喜多家老臣岡越前守、安東徳兵衛等の援助をうけ、後には戸川肥後守の取り次ぎで宇喜多秀家に仕えています。こういう生い立ちがあるせいか、佐明は安東徳兵衛の子であると書いたものもあるようです。
佐明弟佐有は高円村に分家して東と称しています。
佐有――+――甚右衛門佐国――+――女 多胡家へ嫁 | 元禄13 | | 室江見氏 +――平左衛門佐直===市兵衛佐貞――弥市佐軌――+――新左衛門 | | 享保6 明和8 室西川氏 | +――吉左衛門 | 室佐直娘 +――女 神田源右衛門妻 関本村へ分家 +――女 江見家へ嫁 | +――律次郎高明 | 安東高則の養子 | +――竹内与左衛門妻
佐明の子佐政は宇喜多秀家に従って関ヶ原の戦に出ています。尼子に次いで宇喜多家と、2度も敗け方に付いてしまったわけです。この時代の運不運は江戸時代の身分に大きく影響していると云えると思います。慶長8年、森忠政が津山に入城したとき、国中に不穏な動きがあるのを察知してこれを押さえ、森家の入国を助けました。この功により寛永2年には国中の大庄屋を取りまとめる大庄屋頭に任命されています。
佐政弟佐秀も高円村に分家しています。その子佐直は真加部村に移住しています。
市兵衛佐秀――+――七左衛門佐直――+――源五郎佐利――七左衛門佐恒――小平次佐嗣――+――源五郎佐為――+――佐保 寛文4 | 元禄5 | 宝永7 延享2 宝暦13 | 室井口氏 | | 室豊田氏 | 室赤堀氏 室有元氏 室古田氏 | +――佐次 | | 室井口氏 +――七左衛門佐賢 +――与左衛門 +――与四郎佐次 室伴氏 | | +――農之丞佐定 +――秀庵道直 粟井家嗣
佐政の子佐儀の時代、明暦元年の秋、有元家は火災で全焼しました。この時、藩主から普請奉行、大工100人、人足100人が遣わされています。
佐儀の弟佐峯は沢村へ分家しています。
与市佐峯==伊右衛門佐久――+――女 安東家へ嫁 享保20 佐賀男 | 室豊福氏 延享2 +――重蔵佐廣――+――平之丞佐良――周蔵―――+――女 尾嶋久蔵妻 室佐峯娘 | 室目瀬氏 室桑元氏 | | +――女 平井儀八妻 +――女 | 美土路家へ嫁 +==健治郎――+――某 室家女 | +――女 三宅貞碩妻
佐儀の孫佐春の代に森家は断絶し、国中の大庄屋も職を解かれました。佐政、佐儀、佐賀、佐春と4代続いた森家大庄屋としての勤めはこれで終わりました。
佐春の弟佐久は関本に分家しました。
伊右衛門――影眤――右蔵行篤――+――女 今泉三右衛門妻 佐久 明和5 文化4 | 室西川氏 +――女 豊福七郎右衛門妻 | +――杢右衛門佐逸――+――槌平佐長――源治 | 文政8 | 室前原氏 | 室福島氏 | 室小合氏 | | +――四郎治 +――喜代治 | 福島家嗣 +――為治郎 井口家嗣
佐春の子佐伴の代になると、相模国大久保家の所領となり、大久保家から再び苗字帯刀の許可をもらって大庄屋として復帰しています。佐伴のあとは弟佐言が準養子で相続しています。
佐言の弟磯五郎佐武は備前国仁堀東村平尾家の養子となりますが、後に弓削に分家して有元白亀と名乗りました。この人は京都で公家として続いていた道真の子孫(高辻、五条、唐橋家)の元を訪ねて系図の照合と作州菅一族の系図が間違いないことを確認しています。この時の土産に銀200目という多額の出費があったようで、本家佐信の名で一族のもの14人にカンパを呼びかけて集金しています。家系調べにもけっこうお金がかかったようです。この縁なのでしょうか、子の佐治は京都西洞院の家臣になっています。
平尾 磯五郎佐信――辰五郎佐治――寅治郎佐苗――儀三郎――栄五郎――菅市郎――+――平九郎――友吉――房之助 寛政12 寛政8 室江田氏 室西川氏 | 室江田氏 室平尾氏 室井上氏 | 室金谷氏 | +――佐吉佐範 室赤堀氏
平九郎後妻の金谷氏については、「実は田原出生代訳別記あり」と書かれていますが、別記は見つかりません。最初の妻は備前吉田村(現在の建部町吉田か?)江田弥四郎娘、佐苗の妻は備前新庄村江田恵左衛門娘とあり、この江田家も御津町金川の古代屋一族との関係が気になります。吉田の江田氏は下神目の菅一族の墓碑にも刻んでありました。駒井家の過去帳に「新庄の某」という記載がたくさん出ています。
以上、平賀左衛門太郎元義が文久元年9月、3日かけて写したという系図を元に纏めてみました。お酒を飲みながら筆写したそうで、このために系図は途中から線の続きが不明瞭であったり、文字が乱れに乱れてたいへん難解になっています。一部に、上に紹介した平尾家、他に今井、井戸などの有元家から血脈が続いている家の系図も一緒に書かれています。
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