牧家
浅口郡上成村





先祖は山陰の豪族尼子氏の兵粮方をしていた牧兵庫介から出て、その子孫が水谷出羽守に仕えた中島勘右衛門で、この人が浪人して片島村へ住居、上成新田が出来たので、万治三年に田地八反株を購入して百姓となって定住したそうです。
水谷出羽守とは備中松山城三代勝美のことですが、元禄六年に三十一歳で死去、末期養子の勝晴もあとを追うように同年死去して水谷家は改易になります。万治三年はこれより三十数年前になります。
備中松山藩家臣表によれば、上士の中に見られる中島姓は中嶋三郎右衛門、下士に中嶋吉重郎の名が見られます。なお、この家臣表は布賀代官鶴見定右衛門良峯が曾祖父権弥良直の控を寛政七年に清書したと伝えられているものです。

墓碑では二代宇左衛門から確認できますが、徳兵衛とはありません。初代が徳兵衛とも宇左衛門とも名乗ったものでしょうか。
上写真左の墓地は三代戸市矩範までの墓碑がありますが、初代宇左衛門の墓碑は崩れてしまったのか片島にあるのかよく判りません。元文元年に亡くなった宇左衛門の妻の墓碑に「二代牧宇左衛門妻玉嶋村三田氏娘」とありました。上成新田の開墾史からみて、おそらく初代は江戸初期にどこからかこの地に移住して元禄~享保時代頃に亡くなったものと推定されます。これは同地の中原家の歴史ともほぼ付合するように思います。
三代は西阿知村岡弥右衛門の子で、母は萱谷氏です。元文五年に家女の婿養子になって相続しました。上写真右の新しい墓地には、宇左衛門満嘉妻の墓碑が二つ有り、うち一つは義明妻の墓碑の傍らに転がっています。しかし、この墓碑に貴重な情報が記されていました。「配牧氏名濱父西阿知村岡・矩軌翁第四女」つまり矩範=矩軌となるようです。

二代宇左衛門の子宇左衛門は正徳二年に庄屋牧家の跡取りとして生まれましたが、二十五才で出奔し、大坂で大親分の床亀の客分となって遊侠の道に入りました。当時大阪には円七九郎兵衛という親分がいたので、これと三人で義兄弟の盃を交わし一角の侠客の親分格にのし上がりました。幼少時期から柔剣術に優れ、強気の性格と道理の通らぬことには一寸も引かない義侠心をもっていたので、「一寸徳兵衛」と呼ばれる男伊達として多くの人から慕われるようになりました。
その男伊達は並木川柳等によって描かれた浄瑠璃「夏祭浪花鑑」の中に鮮やかに登場しています。また、この作品は歌舞伎にも取り上げられ古典物の名作として高い評価を受け、東京や大阪を中心に毎年のように文楽や歌舞伎などで上演されています。ちなみにこの作品の最後の場面、九段目は玉島が舞台になっています。

実話として伝わるものに、
徳兵衛が芝居見物に行ったとき、二階の客が火のついたたばこの吸玉を頭の上に落としてきました。徳兵衛は一向知らぬ風をして二階へ上がり、その吸玉を落とした人に払わせたそうです。

また、東西分かれて競う大坂天神祭のだんじりのとき、西方の連中から「今年は是非とも勝ちたいので相談にのってくれ」と頼まれました。果たして天神祭の当日、例年通り東が優先してして天神宮の境内にさしかかった時、緋縮緬の襦袢を着た若者が行く手に寝そべって動きません。「起きぬと踏みつぶすぞ」と息巻きますが、「通れるものなら通ってみろ」と揉んでいるうちに西方が先を越してしまいました。さては西方の回し者かとと気付いた時には緋縮緬の襦袢だけを脱ぎ捨てて徳兵衛は何処かに消え去ってしまっていたそうです。

また、徳兵衛の知人が贔屓にしていた芸妓がありましたが、その芸妓にある侍が心を寄せてきました。それは町道場を開いている剣術の先生青柳某という乱暴者で、その侍と徳兵衛の知人との間に争いが起こりました。腕づくでも奪うというので芸妓は困りました。これを聞いた徳兵衛は郭に赴いて女の本心を確かめ、女は青柳をきらっていることが解りましたので、身受けの金のことも何もかも引き受けて、一時女を匿いました。このことを聞いた青柳は怒り、仲直りをしたふりをして徳兵衛を或る料亭に招いて酒を飲ませました。快く酔った徳兵衛は夜が更けてから千鳥足で帰る途中、青柳の数人の門人に襲われました。暫く斬り合いとなりましたが、徳兵衛の腕には勝てず、青柳を始め悉く門人達は死傷しました。徳兵衛は直ちに奉行所へ自首して出ましたが、取り調べの結果青柳に非があったので許されたといいます。
この後まもなく大坂を去って、約八年に渡る浪花暮らしを終えて玉島に帰りました。
徳兵衛は延享二年、三十四才の若さで病歿しています。

宇左衛門――宇左衛門――+==戸市矩範――+――美智
      元文1   |  岡氏    |  文政12
      室三田氏  |  天明2   |
            |  室家女   |
            |        +==宇左衛門満嘉==貞介義明――+――綾
            +――宇左衛門     鴨井氏     氏    |  柚木義宜妻
               延享2      文政6     天保6   |
                        室矩軌四女   室大森氏  |
                                      +==丈平義直 ――+
                                         田邉氏    |
                                         明治15   |
                                         室柚木氏   |
                                                |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――正平義敏
|  柚木家嗣

|            分家
+==佳三郎直方――+==祝三
   田邉氏    |  高戸
   大正12   |  室家女
   室矢部氏   |
          +――せき
          |  大谷家嫁
          |
          +――勝夫  ==敏郎  ――+――女
             大正12  中川氏   |  国富家へ
             室入江氏  昭和56  |
                   室家女   +――男

満嘉は児島郡浦田村の鴨井兵助次男で、母は八軒屋大塚三郎兵衛の娘です。鴨居熊山の系図に、祖父兵助(五人組頭後名主)の子に「宇右衛門」と記されています。つまり、満嘉は熊山の伯父になるようです。
貞介義明は倉敷村岡魯市の子で、母は下野氏です。窪屋郡倉敷村の古禄豪商十三家の一つ蔦屋岡氏と同族といわれる和泉屋の分家二代に永八(魯市)という人が居て、その妻は下野氏(須和、安永六年歿)となっています。
貞介夫婦には三男二女がありましたが、長女以外は皆夭折、玉島の柚木家に嫁いだ長女綾の娘に、鴨方村の田邉満正の子丈平を婿に迎えて嗣がせています。この田邉家は鴨方の田邉家で、その先はやはり長尾村から出たものと思われます。というのは、義直のあとを嗣いだ佳三郎も長尾村田邊新三次男となっているからです。即ち、玉島長尾の田邉家墓地にある「新三満厚明治四年歿年五十三」の墓碑に、「藤三郎、佳三郎、為三郎」の三子の名が彫られています。

祝三からあと

祝三   ――+――定夫  ――+――啓司
高戸氏    |  昭和14  |  平成6
昭和25   |  室永山氏  |  室外山氏
室家女    |        |
室大谷氏   +――新蔵    +――女
                |  川崎家へ
                |
                +――男
                |  室尾坂氏
                |
                +――女
                |  杉家へ
                |
                +――男
                |  苅田家嗣
                |
                +――男
                   室土橋氏

新蔵からあとは、

新蔵  ――+――男
室永山氏  |  室山崎
      |
      +――女
      |  高木家へ
      |
      +――男
         室小坂氏



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