大国(大森)家
和気郡尺所村





大國氏の先祖は備前辛川城主大森新四郎道明で、その子孫が江戸時代に和気郡尺所(しゃくしょ)村で酒造業、高利貸しによって財をなし、庄屋、大庄屋役を勤めました。藩主に対して多額の貸付を行い、その功績によって士分に取り立てられました。備前藩家老土倉氏なども度々逗留しました。

平成12年、岡山県は和気郡和気町の大國家住宅など12件を県指定重要文化財に指定しました。柱の墨書から、母屋は1760年、はなれは1801年の建築といわれます。

平成12年5月、この家と墓地を訪ねてみました。家は地元で聞くとすぐに判りましたが、墓地を捜すのはちょっと苦労しました。家のすぐ近くに金剛川(吉井川支流)が流れていて、その土手下に村の共同墓地があります。大國家累代の墓などという新しい墓碑も建っていましたが、該当する墓碑が見当たりません。

遠くの山を眺め、途方に暮れながら付近を散歩し、墓地の場所について考えました。大きな川に接する村々は、昔はどこも灌漑用水の心配がなかった代わりに、度重なる洪水で悩まされていました。そこで、死者に守ってもらおうという意味なのか、たいてい古くからの墓所は川の土手近くにあります。この鉄則にあくまでも拘ろうと、共同墓地の周辺を隈無く捜すことにしました。すると、余りにも立派な塀でどこの家だろうと思っていた白壁が不自然なことに気付きました。これが大國家の墓地を取り囲む塀だったのです(写真)。

前記の、大國家累代の墓という新しい墓碑は大國、大森の両姓の墓碑が一緒に建てられた区画とつながっていて、これも株家の墓地だろうと思います。古い墓碑に入った家紋は三つ柏でしたが、新しい累代墓には何かの漢字を模したような、ちょっと変わったデザインの家紋が入っていました。

大國家の墓地調査のあと、せっかく遠方まで来たのだからということで、同町内藤野の元大庄屋万波家を訪ねてみました。万波家墓所を捜すうちに、宿池(和気中近く)の畔で大森姓の共同墓地に行き当たりました。そこにある「大森新四郎道明累代墓」という自然石の大きな記念碑に目がとまりました。

どこかで聞いたことのある名前です。そうです!、大國家の先祖という人と同じ名前です。裏に回って、累代の系譜を読んでみました。「大森新四郎道明は備前辛川城主大森傳左衛門弟で、延元元年5月22日に足利軍が攻めてきたときに、矢坂山城と共に落城して、道明は下原村に逃げました。その後の子孫は2代から順に、助右衛門、常右衛門、治右衛門、八郎右衛門、員之助、孫三郎、義介、又九郎、孫右衛門、亦四郎、新右衛門、幸八で、それ以後はこの墓地に眠っている。630余年を経た今先祖の供養をしてこの碑を建てた。昭和50年5月、17代雪治」、傍らに雪治夫婦の墓碑があり、平成7年に90才で亡くなられたことが判りました。

大國家の墓所に、鶴林大森翁之碑という武介満體の生前業績を記した記念碑があり、先祖のことが少し書かれています。小さな文字でたいへん読みにくいので間違いもあると思いますが、「先祖は備前辛川城主大森新四郎道明、辛川落城後に下原村に逃げ、その子総右衛門が尺所村にやって来た。宇喜多氏に仕えて後に浪人し、6代の子孫、孫平が岡野氏を娶って生まれた長男が武介、次男平三郎は神崎家の養子に入ったが不縁で戻り、この子を可愛がった孫平が分家を立てさせた」

藤野の宿池の畔にあった大森姓の墓碑に彫られた家紋と、尺所の土手下共同墓地にあった大森姓と大國姓の墓碑が混在した墓所にあった墓碑に入った家紋は共に三つ柏ですから、藤野と尺所の大森家(大國家)は共に同じ株家と思われます。藤野の宿池の南が江戸時代に下原村と云われたようです。つまり、尺所の大森氏はそこから南へ移り住んだわけです。

柏紋は多くの神職家の紋として有名で、岡山県では吉備津彦神社の大守大藤内家の紋が、やはり柏(一枚)です。大国(大森)家の先祖が備前辛川城主の末裔ということから、大守大藤内家の分流、或いは深い縁のある家ではないかと思います。

某――+――傳左衛門
   |
   +――新四郎道明――+――総右衛門・・・――市郎兵衛――孫九郎勝喜――菊治良 ――孫平  ――+
             |           元禄1   元文5    宝暦13  安永5   |
             |           室有吉氏               室岡野氏  |
             +――助右衛門                              |
                                                  |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――武介満體――+――武兵衛茂朝 平三郎あと嗣
|  安永2   |
|  室大饗氏  +――勝浮
|        |
+――平三郎   +――女 岡村廣五郎順綱妻
         |
         +――文助勝衛――+――武介茂樹――+――補喜太宗明
            文化13  |  嘉永1   |  安政5
            室中田氏  |  室和田氏  |
                  |        +――武介道喜――嘉十郎茂行――武   ――+
                  +――勝平       明治33  明治29   昭和46  |
                     秋山家嗣     室福武氏  室三木氏   室柳本氏  |
                                                 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――純夫
   昭和19

菊治良の妻は熊沢蕃山の8女だそうですが、この菊治良妻と思われる墓碑には、木地屋孫四郎妻とあり、他にも豊島石で摩耗しきった墓碑の中に、木地屋と深く彫られているものが確認されました。木地屋というのが大国家のもとの屋号のようです。

武介満體は酒造技術を習得し、酒の醸造・販売を行って家を隆盛に導きました。盛んになった頃の屋号は光基(みつもと)、酒の銘柄は「真清水(ましみず)」でした。上記のように、この付近は金剛川と吉井川の合流地点ですから、洪水が頻発していたと思います。洪水で被害にあった住民(百姓)は財力のある大國家に金を借りに来ました。土地が担保になりますから、借金が払えないときには、大國家の土地が増えることになります。このようにして大國家の所有田畑は急増して行きました。江戸末期の最盛期には、広大な屋敷を中心に倉庫、店舗、納屋が建ち並び、使用人100人、下女20数人、飯炊き女10人という有様でした。最盛期の大國家所有田畑は80町歩といわれ、現在でも「大國さんは三石まで他人の田を通らずに行くことが出来た」という伝承が残っているそうです。
余談になりますが、吉備郡真備町川辺も、小田川と高梁川の合流点で度々洪水に見舞われています。そして、川辺にも加藤家という突出した豪家(明治の始めに所有田畑80町歩)が生まれています。現在では想像もできないことですが、むかしは自然災害の多発というのは貧富の差を助長する大きな要因だったと思われます。

もちろん、大国家は、取り込むだけではなくて、貧民救済のための援助、神社仏閣や道路や橋の建築費、往来する文化人の金銭的援助、岡山藩への献金など、多額の出費も惜しみませんでした。
この様に栄えた家ですが、安政元年に行われた岡山藩の紙幣発行(安政の札潰れ)や、藩への貸付金の不払い、新しく手を染めた鉱山業の失敗、当主の若くしての死去などが重なったために、明治20年前後になると家運も衰えて行きました。

1750年頃から上昇した家運は、1900年頃には衰退して行ったわけです。この様に、税制などによる政治的な介入、調整の少ない時代にあっても、富というものは1つの家にずっと付いて回ったわけではありませんでした。まして、現代のような政治的に富の再分配を積極的に行うようになれば、100年、3代以上にも渡って、1つの家に巨万の富が集中することはないと言っても良いのではないでしょうか。

大国姓で彫られているのは武介茂樹からで、補喜太宗明の墓碑にはなお大森姓が彫られ、大森から大国に改姓したのは江戸末期から明治初期のことのようです。
岡野廣五郎(天明1歿)に嫁いでいる満體の娘婦美の墓碑は、いくつかの岡野姓の墓碑と共に宗家の墓所に祀られています。

平三郎から後の墓碑は共同墓地の高いところに塀囲いなしでありますので、いちばん最初に発見しました。

ずいぶん立派な墓碑が並んでいるので目が止まりましたが、どれにも大国でなく大森と彫られていてガッカリしました。でも、何気なく目を遣った墓碑に、「都宇郡津寺村三本木服部九右衛門季妹龍」という記録があって嬉しくなりました。

ここには、満體妻大饗氏の墓碑もありました。

平三郎==武兵衛茂朝――喬助満宣――?
寛政7  寛政9    嘉永5
     室有吉氏   室服部
            室那須氏

満宣妻服部氏の墓碑文には、「寛政4年正月に生まれ、その年に父宣之が亡くなり、文化3年、15才の年に嫁入り、文化7年に亡くなった。享年19才」とあります。そこで、服部家の系図を見渡してみると、龍の父宣之は寛政四年十二月に亡くなった真省院清樹日周信士であり、母は賀陽郡八田部村井手、井手文五郎の娘(母守安氏)であることが判りました。兄九右衛門とは、九右衛門信好であり、この人も文化8年に28才という若さで亡くなっています。信好の妻宇野は津高郡尾上村則武與四郎勝善長女です。
岡山市津寺の蓮宗寺にある服部家墓地にも龍の墓が建てられています。

なお、当墓地には、他に、
「大森姓牧埜革左衛門義郷、安政1年歿、享年70」
とその妻、及び母(中野氏)の墓碑があり、いずれも居士、大姉という立派な戒名が深く彫られています。
おそらく、大森家から出て牧埜(牧野)家を嗣いだ人の墓碑だろうと思いますが、共同墓地内を見渡している時に、ちょうど大森姓と大國姓の墓碑が混在した墓所に隣接した場所に牧野姓の墓地があり、ここにもある墓碑が目に留まっていたのでメモして帰りました。
「幸、牧野繁重郎義廣妻、周匝金谷六郎兵衛娘、明治20年歿、享年77」
該当者がわかりませんが、こちらで紹介している金谷家の人に違いないと思います。

大国宗家墓地の塀の外にも分家と思われる墓地がありました。

大森廣介徳隣、安政4年歿、享年65
大森与右衛門徳隣妻琴、有吉意朔娘、文政10年歿、享年33才
有吉意朔、文化2年歿、享年49
大森廣介徳隣母留、天保13年歿、享年70才
大森政助満房、慶應4年歿、享年53

などの墓碑がありますが、有吉意朔の記念碑を文助勝衛が建てていることから、徳隣は武介茂樹の異腹弟かとも思われます。なお、有吉意朔は医者で、寛政3年に尺所村に移住して亡くなるまで15年間暮らしていたようです。


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