江口家
窪屋郡福島村
戦国時代の幸山城(備中国都窪郡山手村西郡)主石川家の家臣江口左京進、源介正方の子孫市右衛門継方が窪屋郡福島村に移住したのにはじまります。継方は慶長8年に窪屋郡清音村に生まれたとあり、その子治方は寛永15年に福島村に生まれたそうなので、この30年ほどの間に移住したようです。
この頃には備中国南部各地で新田開発が行われていて、幕藩体制に組み込まれなかった戦国時代の小領主の子孫が一族郎党を動員して盛んにこの仕事に当たっていました。新田開発を指揮した家は、村の豪農となり、やがて村の庄屋(名主)となって幕藩体制を下支えする任にあたりました。この家もそういう歴史をたどり、量方の代には大庄屋まで勤めています。
左京進は花山院末流加藤長門守12代末となっています。高梁川を渡った真備町川辺加藤氏の諱の通字に「政(まさ)」がみられ、江口氏の諱「正(まさ)」または「方(まさ)」とも音の共通性があるようなので、先祖が同じではないかと思われます。
都窪郡誌第14章神社、第3節、村社、軽部神社の項によると、
寛正3年5月、松島郷深井山城主加藤刑部尉正倫4代の孫隼人輔正長が、建武3年の兵火で失われた社殿を再建したそうです。その後、幸山城主石川家没落の時に再び兵火で失われ、加藤正長5代の孫正矩、浅野間義直、脇本則光、江口宗親などで、天正4年3月に再興したということです。
神社宝物には、永禄12年9月加藤正信寄附の備前長船清光刀、慶長10年9月脇本義光寄附の備中水田国重刀、天正4年9月加藤左京進正矩寄附の獻供器と熊野牛王、天正4年脇本則光寄附の幣があるそうです。
都窪郡清音村軽部地区はいまでも江口姓は多く、都窪郡誌の支配者沿革にも江戸時代の村役人、明治以降の村長に江口姓の人が多数みられます。同地区の共同墓地を眺めると、古くから脇本、江口という2大勢力があったことがわかります。江口姓の墓地の中央には「江口左京進正矩」の墓碑が祀られています。その付近の累代墓に彫られた家紋は「下がり藤」ですが、福島の江口家は「扇地に州浜」紋を使っています。但し、二代源介着用の鎧・兜には「下がり藤」の紋が入っていたそうです。
左京進正矩――源介正方――市右衛門継方――勘助治方――+――儀右衛門綱方――市右衛門好方――+――市右衛門量方――+ 室守安氏 貞享1 享保3 | 宝暦7 宝暦13 | 文化13 | 室貝原氏 | 室貝原氏 | 室貝原氏 | | | 室中西氏 | +――登宇 | | 井汲直頼妻 +――儀右衛門光豊 | 前分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――敏方 ――勝太郎方雄――+――市右衛門紀方――+――品次郎正方 ――秋平 ――+――哲夫 ――+――** | 秋岡氏 慶應1 | 明治13 | 大正3 明治45 | 昭和55 | | 室家女 室江口氏 | 室内田氏 | 室長瀬氏 室山口氏 | 室板野氏 +――女 | | | | | 征正家嫁 +――国次郎薫方 +――徳太郎 +――慎三郎 +――女 | 東分家 前分家嗣 | 分家 小山家嫁 +――女 | | 安東家嫁 +――頼治 | | 山上家嗣 +――女 | 花房家嫁 +――幾 槙尾傳之助妻
この家を調べてみようと思ったのは、梶谷家文書(岡山大学附属図書館蔵近世庶民資料)中に、江口伯母、江口勝太郎、江口金吉より梶谷伊平治に宛てた書状があることを知ったからです。現在まで調査した結果では、下記のような関係になると思います。
中西 源兵衛致義――+――女 文政10 | 江口敏方妻 室平井氏 | +――女 ――千恵 石井秀介妻 梶谷正順妻
敏方後妻(矢掛中西八十七姉)は安政三年に八十五才で亡くなっていますので、その孫勝太郎、金吉まで梶谷家との親戚付き合いが続いていたことは充分納得できますし、伊平次正順夫婦にとって量方後妻は「江口伯母」になります。
平成十三年六月、上記の国次郎薫方から分かれた「東江口」家のご子孫からメールを戴きました。そして新たに次のような系統があることを知りました。
国次郎薫方――金吉義方――+――竹太郎清方 ――+――光三郎 ――+――博 ――+――順子 天保6 明治16 | 明治28 | 大正5 | 昭和47 | 鷲江剛妻 室大森氏 室服部氏 | 室虫明氏 | 室西澤氏 | 室大橋氏 | 室入江氏 室栗原氏 | | 室禰屋氏 | +――仁子 +――猶 | +――俊男 | 常光定吾妻 | 内藤良道妻 +――つるの 和田家嗣 | | 龍治彦一郎妻 +――尚子 +――比佐 | 久山健妻 | 井上増太郎妻 | | +==** +――延次郎直方 鷲江剛次男
清方妻と俣野源次郎かその妻が兄弟姉妹になるようです。清方の墓碑には妻虫明氏は宮内村とあります。清方妻の実父陽庵は備中宮内村に住んで庭瀬藩医を勤めていたと思われます。明治三年の宗門帳によると、金吉義方は子位庄村名主を勤めていたようです。
明治三年宗門帳
子位庄村里正
名主
一 金吉 歳五十六
五月廿七日被仰付候
妻 歳五十一
子竹太郎 同三十
四月三日五人組頭被仰付候
金吉義方の次男延次郎(母栗原氏)は分家して北江口家を立てましたが、三代一磨をもって絶家したようです。
延次郎直方――+――猪一 明治28 | 明治23 室吉澤氏 | +――駒太 ――+―― 一磨 | | 昭和16 | 室 | | +――女 +――女 三島家嫁
前分家は本家六代目の市右衛門好方次男が分家しています。
儀右衛門光豊――+――助右衛門 天保5 | 草野家嗣 室吉田氏 | 室劒持氏 +――竹次郎 | 福田家嗣 | +――忠三郎忠方――+――女 | 天保5 | 宮田家嫁 | 室吉田氏 | | 室難波氏 +==徳太郎豊方――芳造光方――+――儀右衛門 ==清 ――** | 江口氏 大正15 | 昭和20 斎藤氏 +――女 明治3 室浅野氏 | 室難波氏 昭和21 | 江口方雄妻 室家女 | 室家女 | +――忠治 +――女 | 常光家嗣 | 犬養家嫁 | | +――政乃 +――嘉三郎 塩飽光太郎妻 太田家嗣
初代光豊は名主を勤め、本家儀右衛門と混同を避けるために鉄次郎と改名したそうです。
五代儀右衛門の妻は岡山市大福の難波正太郎娘です。倉敷市史に難波忠右衛門−幾太郎−正太郎という系図があります。また、忠左衛門子喜和が山田村庄屋(岡)良祐(良助)妻とあり、岡家の墓地にある「良助室さわ都宇郡大福村難波忠右衛門長女明治十二年*月*日歿年七十九**院妙順日*信女」に一致するようです(嫁いで名前を変える例は多い)。
南江口
慎三郎 ――+――市太 ――+―― 一夫 大正14 | 昭和30 | 昭和11 室金光氏 | 室槇尾氏 | | +――静枝 +――桃恵 | 大正6 | 南分家 +――省三 | 平成6 | 室貝吹氏 | +――純一 | 室白神氏 | +――善二 槙尾家嗣
他に本家の墓地前にかなり古い墓碑を並べた同姓の墓地があります。
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