片山家
小田郡東三成村
平成十四年四月に東三成の墓地を訪ねました。
「○○徳厳居士元文五年」と「○○貞正大姉享保十八年」がおそらく夫婦で本家の墓碑と判るものの中で一番古いと思います。ただ俗名は兵右衛門秀久からでないと分かりません。
秀久妻は妹尾忠左衛門兼仲娘、後妻は茅原充芳娘母稲葉氏です。大橋叔遜は年代合わせをすると秀雅の兄弟になると思います。
秀雅の墓碑には詳細な事情が書かれています。
「父秀久の長子で母は妹尾氏、若くして父の跡をついで里正となり次いで大庄屋となりました。天保四年に老齢のために職を辞したいと申し出、三年してやっと解任されました。赤松氏を妻に迎えて二男二女をもうけました。長女は幼くして亡くなり、次女は名越久孝に嫁ぎ、長男秀候は母弟豊春を嗣ぎ、次男秀發が秀雅の跡を継ぎました」
秀發夫婦の墓碑には妻の経歴歿年だけ記されています。即ち、備後市村土屋治陣娘麻須で、母は羽田氏、秀發の妻となりましたが子はありませんでした。そこで兄秀候の子が次々に養子養女に迎えられています。曽平は叔父の養子となった後、分家を立てています。
某 ――兵右衛門秀久――友左衛門秀久――+――善右衛門秀雅――+――みか 名越久孝妻 元文5 宝暦9 天明8 | 弘化3 | 室 室 室妹尾氏 | 室赤松氏 +――秀候 赤松豊春嗣 室茅原氏 | | +――源助謙 +――秀發 ――+ 大橋家嗣 | 室土屋氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==廣蔵秀時 | 秀候7子 | 弘化2 | | 嗣後分家 +==曽平秀實――+――健吉 ――+――庚 | 秀候4男 | 昭和11 | 昭和50 | 明治32 | 室松浦氏 | 室高戸氏 | 室可児氏 | | | 室赤松氏 +――まさ +――房代 | | 渡邉譲四郎妻 | 岡本健吉妻 | | | | +――與志 +――菊子 | 三宅家嫁 三宅久一郎妻 | +==類吉秀尚――+――敬一郎 ――+――次郎 土屋氏 | 明治40 | 昭和17 明治21 | 室石井氏 | 室 室秀候5女 | 室奥藤氏 | 室大橋氏 | +――不二子 +――幸次郎智恭 大正4 | 原家嗣 | +――清三郎 | 早瀬分家興 | +――寅五郎 昭和20 室羽白氏
他に秀成妻児島氏という墓碑がみつかり、次のように整理してみました。ただ、上の系図にどのようにつながるのか不明です。東大橋家が同じように縁組をしているところから考えると、秀成は秀雅の弟になるのかも知れません。
秀成 ――+――良岱之俊 | 文久3 室児島氏 | 室小川氏 +――登和 大橋金平妻
碑文を書き写していましたら、ご子孫のお一人が墓参にこられたのでご挨拶し、その方から簡単に一族の流れをお聞きしました。「本家はこの墓地の北付近にありましたが絶家、これを中心に西、東、奥などの方位で分家を呼んでいました」
1つの分家の流れをまとめてみました。
序平秀光――忠吉秀忠――市太郎秀明――+――茂雄秀邦 ――+――裕 安政3 明治39 昭和11 | 昭和49 | 昭和15 室浅野氏 室西野氏 室木谷氏 | 室三宅氏 | | +――公正 +―― | 昭和20 ・ | ・ +――厳 | 平成18 | 室 | +==菊次郎 某氏 室茂雄娘
秀明妻久子は木谷鹿太郎敬忠三女です。
備中村鑑
○伊藤若狭守様 御屋敷岡田「御用達木谷鹿太郎」
の名が見られます。
西新宅の墓碑を次のようにまとめてみました。
森右衛門――+――伊勢次郎 寛政8 | 明和4 室 | +――甚右衛門――+――信右衛門 ――文英秀知 文政8 | 明治2 天保8 室田邊氏 | 室 | +――岩次郎秀康――松三郎秀嗣――種吉 ――+――精二 天保15 明治27 昭和12 | 昭和19 室田邊氏 室 室 | 室 | +――宅四 ――健 昭和50 平成12 室
本家の先祖で、墓碑から俗名が判る兵右衛門と同じ通称で、しかも居士・大師という戒名の墓碑が東の端の一画にまとまった墓地の中に認められました。墓碑文を拾って系図にしてみました。
宗夢――兵右衛門――常閑 ――了意 ――治本――了・――留之丞――定次郎 ――豊次郎 ――峰太郎 ――三郎 正徳5 享保17 宝暦13 安政2 明治25 明治44 昭和18 室 室 室 室 室
多くの墓碑は磨耗がひどくて判読が不充分です。正徳五年に亡くなった兵右衛門とその妻だけが居士・大姉が付いていて、それから幕末の墓碑までは信士・信女なのが不可解です。兵右衛門は本家秀久の祖父で、この次の代から分家したので信士・信女となったのでしょうか。ただ、本家の西にも古い籃塔を並べてあるので、墓の並びだけから本家の流れを整理するのは難しいようです。
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