間野家
都宇郡新庄村
岡山県内で少し家系に詳しい方に間野家のお話をしたとき、きまって返ってくるのが
「新庄の間野と関係がありますか?県商の昔の校長に間野貫之先生という人がいました」
という話でした。
また、総社市美袋田邉家との縁があることから注目していた都窪郡早島町の溝手家(大溝手)の系図にも、
五代 九郎兵衛吉憲 の妻が都宇郡新庄間野七右衛門娘
として出てきます。
更に、倉敷市西阿知の岡家、都窪郡早島町の太田家(代々 鶴崎神社宮司 三手渡邉家と縁戚)のご子孫からも、
「新庄の間野家とは関係があります」
というお話をお聞きしていました。
都窪郡誌を開くと、
江戸時代、都宇郡加茂村は新庄上、新庄下、津寺、加茂、惣爪の五ヶ村
新庄という地名は「造山城主 新庄右衛門」の領地であったから付いたのだろうか?
とあります。
備中村鑑によれば、
花房大膳(御陣屋高松)の領地内
八百二十石 新庄村 間野繁太郎
とあり、幕末に庄屋を勤めていた家であることが判ります。
図書館で偶然開いた 惣爪真野家のルーツを紹介した本に、岡山市三手の渡邉家に祀られている佐藤氏の戒名を見つけ、調べ歩いた結果 この佐藤氏が惣爪の庄屋であったことを知りました。
地図をみると、上記の加茂村(いずれも現在岡山市)、三手、そして生坂の間野家の株家があると聞いて調査に歩いたことのある矢部(倉敷市)は直径三キロ足らずの円内にすっぽり収まっていることが解ります。
これは是非とも調べておく必要があると思うようになりました。
造山古墳近くの駐車場に車を止めて自転車で尋ねて廻りました。ところが、「まの」と云ってもなかなかご存知の方が居られません。
大溝手の系図によれば、
五代 九郎兵衛憲胤 の妻が都宇郡新庄村三垣紋兵衛娘
とも書いてあるので、三垣姓の集合地区でこの話も加えて尋ねたのですが全く話が通じません。そのうち、
「小野Hさんが昔の庄屋の分かれ家だと聞いているので訪ねてみなさい」
とアドバイスを戴きました。そのお宅でやっと新庄上日蓮宗本隆寺内にある間野家のお墓の場所をお聞きすることができたのでした。造山古墳付近はむかしの新庄上、間野家が庄屋を勤めていたのは新庄下、しかも江戸時代は別の行政区域ですので、ご子孫が当地を離れて久しいこともあって、ご存知のない方が多いのも無理のないことでした。
宗仙 ――七右衛門 ――+――津宇 宝永1 | 溝手吉憲妻 室 | +――藤八 ==忠兵衛正辰――+――忠兵衛正利――+――與三右衛門正英――+――喜曽 寛政6 和田氏 | 天保12 | 明治11 | 船橋徳衛妻 室 寛政1 | 室川上氏 | 室龍治氏 | 室 | 室垪和氏 | +――繁太郎正成――+ 室平田氏 | +――女1809 | 明治22 | +――忠蔵 | 中尾庸義妻 | 室三宅氏 | 和田家嗣 | | | +――勝1818 +――楽 | 三宅直賢妻 | 赤木良造妻 | | | +――愛次郎正行 | 分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――隆太郎 | 早折 | +――正雄 ――+――貫之 ――+――忠衛 大正15 | 昭和54 | 室三宅氏 | 室内田氏 | | | +――艶子 +――女 | | +――千鶴 | | +――敏子 | | +――春子
新庄畑田にある西田一族の墓地に俗名が間野某や施主間野某という墓碑が西田姓の墓碑とまったく境界なく並んでいます。この中に「感月宗仙霊 宝永元(1704)年九月廿五日 施主間野七右衛門」という五輪塔がありますので、宗仙は七右衛門の父と思われます。七右衛門に相当する墓碑が見当たりませんが、溝手家の系図を参考に並べると上系図のようになると思います。
早島溝手家、吉憲の子憲胤妻賀那が、都宇郡新庄村三垣紋兵衛娘(天保四年八月廿三日歿年八十)、更に孫於ぬいが都宇郡新庄村三垣家嫁(享和四年二月九日歿)、新庄との地縁による縁組みが重ねられたようです。
和田
曽平正識――+――林蔵珍明 ==忠蔵 ――惣右衛門 ――+――彦右衛門 宝暦9 | 享和3 | 室安原氏 | | +――忠兵衛正辰 +――徳兵衛 間野
愛次郎正行――+――桓 | 早折 室三好氏 | +――庫太 ――+――照雄 ――+――正己 | | | | 室池上氏 | 室 | 室 | | | +――美登 +――孝子 +――英吾 | 横田貫三郎妻 | 早折 | 森家へ | | | +――栄 +――清子 +――郁子 池上善平妻 | 竹原新一妻 | 米沢広妻 | | +――浩 +――利夫 | | 河合 | | +――千秋 +――靖子 | 森浩一妻 佐々木次郎妻 | +――寿美恵 宇高照輔妻
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