小野家・篠屋
浅口郡長尾村





この家の墓碑は坡南の小野家墓地の東隣にあります。坡南の方が高い位置にあるし、墓碑もずいぶん派手なので、本家分家を間違えそうです。一般に古い家の墓地ほど高い位置にあります。しかし、方角もだいじで、お日様が昇る東を上と考えて、分家は西へ拡げる傾向があります。

家紋は、左巻き三巴で、坡南、柳屋、そして金光の小野家など、同族といわれる多くが使っている「切り竹に笹」の紋とは違ったシンプルなものです。家紋は、戦国時代の武将が旗印に使い始めて広まったようですが、必死で戦っている時の敵味方を判別する旗印は、出来るだけ簡素なものが好まれたのではないでしょうか。ですから、美術的に工夫を凝らした紋章は、江戸時代になって世の中が落ち着くに連れて使われだしたように思います。簡素な紋を使うのが本家、こういうことも云えるのではないでしょうか。

和泉守――伊勢守――勘解由――右門――+――中務大輔――大五郎右衛門――+――?
正直   正勝   正末   祐次  |  重次    久栄      |
                   |  篠屋    寛永16    |
                   |                +――六右衛門
                   +――和泉守              分家坡南
                      久遠
                      舟尾村三国

先祖は、もと備中猿掛城の麓に住んだ小野和泉守正直といわれ、その孫の孫中務大輔重次が天正10(1582)年に長尾村に住んで長尾小野家の祖となり、重次の弟和泉守久遠が同郡舟尾村に住んで舟尾小野家(三国屋)の祖となりました。三国屋の3代の子市郎左衛門長久が分家して柳屋と称しています。

この墓地では、重次の子大五郎右衛門久栄の記念碑から辿ることが出来ます。寛永16年歿、正樹院久栄居士と彫ってあります。坡南の小野家は、この久栄の子六右衛門に始まるようです。

坡南小野家に比べると質素な墓碑ですが、彫ってある戒名はずいぶん立派です。享保6年歿の又右衛門尉重正には村松院寿保宗延居士とあります。この人の妻は、備中松山藩鶴見権弥良直の娘で、良直の孫が夭折したあと、重正の子定右衛門良喬が嗣いでいます。この子孫は、水谷家が改易されて旗本になった時、布賀の在地代官に任じられています。評論家の鶴見俊輔氏はこのご子孫です。

長尾村は寛永16年から元禄7年まで備中松山藩水谷家の所領でしたから、村内の有力者である小野家と水谷家の上級藩士鶴見家との縁組みは政略的なものであったと思います。こういう縁戚関係をみると、士農工商という身分制度が、その始まりからして骨抜きになっていたことが解ると思います。

残念ながら、篠屋小野家の系譜はよく判りません。幕末から明治にかけての縁戚を墓碑や関係親族のご子孫からの聞き取り調査で整理すると、川上郡備中町布賀の平川家や、この親戚になる岡山市西大寺町の根古屋久山家などと重縁があるようです。この平川家は平川村の平川の分家です。

?――喜一郎剛――+――五郎平正謙 ――素四郎坦――+――慎   ――千秋
   文政7   |  室平川氏    明治24  |  昭和15  昭和20
   室浦田氏  |          室平川氏  |
   室高戸氏  +――女             +――女
         |  唐川信邦妻            麻生家嫁
         |
         +――女
            江木徳太郎妻

系図を辿って行く場合、本家というのは本の綴じ目のような役割だと思います。綴じ目がなくなると分家同士が「うちこそ本家だ」と主張しだしたり、「あそこは株家だが、あっちは違う」と利害関係などに基づいた色分けを始めるようになります。系図を調べるときには、こういうことも頭の隅っこに入れて置いて、虚心坦懐に取り組む姿勢がたいせつです。

このページでは、私の知っている小野諸家を関連づけて説明するために、この家を総本家として紹介しました。しかし、この家にとっても本家筋になるような家があるのかも知れません。それほどこの長尾地区には小野姓が多いのです。


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