白神家
窪屋郡中島村
平助 ――+――傳三郎 元禄16 | 分家新屋敷 室丸川氏 | +――傳太郎 ――+――傳吉 | 享保17 | 新屋敷嗣 | 室岡氏 | | +――平助久長――+――舛右衛門長次――平助昌房――+――平助昌保 ――+ +――傳助 | 宝暦3 | 明和6 文化8 | 安政4 | | 室守屋氏 | 室白神氏 室守屋氏 | 室片岡氏 | | | | 室村田氏 | +――彦四郎 +――佐太郎 | | 松井家嗣 | 延享3 +――女 | | | 大村甚左衛門妻 | +――女 | | | 原左兵衛妻 +――女 | | | 渡邊三郎兵衛妻 | +――女 | | | 齋藤・・妻 +――女 | | | 平松作三郎妻 | +――女 | | | +――女 | | 梶原景昭妻 | +――菊 | 瀬尾安明妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 分家 +――平助昌訥――+==真吉 文久1 | 日笠氏 室梶原氏 | 大正13 | 室昌訥長女 | +==真平久矯 ――+――隣 小野氏 | 山内徳左衛門妻 昭和3 | 室昌訥娘 +――多喜 | 分家 | +――貞 | 近藤敬次郎妻 | +――菅太 ――平介 ――+――章道 | 昭和37 昭和61 | 平成 | 室田邊氏 室村上氏 | | +――資康 ――+――園和 +――小菊 平成27 | | 田上一雄妻 室高谷氏 | | +――路成 +――敏子 服部信昌妻
初代妻は窪屋郡西阿知村の庄屋丸川源太夫の娘となっています。年代的に考えてみると、この源太夫は林宗のことだろうと思います。平助の跡は傳太郎が相続し、傳三郎が新屋敷と云われる分家を立てています。傳太郎の妻は西阿知村の岡氏、久長の妻は箭田村大西守屋染右衛門の娘とあり、久長の孫昌房の妻が箭田村小森の守屋勘兵衛の娘なので、守屋勘兵衛の先祖は大西から出たのかも知れません。昌保の最初の妻は邑久郡幸田村の片岡氏ですが、この片岡家は天城の中島家と縁戚になる家です。昌保後妻の実家村田家は浅口郡舟尾村の柳屋小野家と重縁のある家です。そういうことで、昌訥の跡は柳屋から迎えられたのでしょう。昌保は々と号し、画家として有名です。京大坂方面を転々と居を移しながら絵を描き、頼山陽とも親交があったようで、「々居」という山陽真筆の額が掲げられています。
分家新屋敷
傳三郎 ==傳吉 ――+――幸五郎盛勝――+――用吉 元禄11 白神氏 | 文化14 | 安永2 室小池氏 宝暦10 | 室三島氏 | 室家女 | +――美津 +――女 | 太田忠孚妻 | 白神長次妻 | | +――幸五郎盛貞――+――恕助盛傳 +――女 | 天保15 | 白神家嗣 守屋知行妻 | 室高戸氏 | | +――國四郎在寛 ――國治 +――源治兵衛 | 天保2 若林家嗣 | 文化4 | 室高戸氏 | | +――千代 +――幸五郎子祥――+――良太郎惟秀――+ 高戸舊方妻 明治31 | 明治43 | 室高戸氏 | 室小野氏 | | | +――男 | | | | | +――盛人 | 安黒家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――寛一郎 ――+――良男 | 明治43 | 昭和19 | 室有馬氏 | 室松森氏 | | +――喜久治 +――女 | 昭和15 | 室有馬氏 | 室吉岡氏 | +――慶四郎 野崎家嗣
傳三郎の孫幸五郎が同村の三島家から妻を迎え、その娘が玉島の岡本屋太田家に嫁いでいます。この家は代々本家の金庫番をしていたようで、特に昌保が自由気ままな旅をしながら絵を描けたのはこのような安心して財産管理を任せられる家があったからのようです。
新屋敷は絶家していますので詳しいことが判りませんが、伝え聞いた話では、良男の妹が広島県の某家に嫁いだそうです。また、寛一郎、喜久治、慶四郎と名に一、二、四と数字が埋め込まれているようですから、三男がまたどこかへ養子に行っているのではないかと考えています。
國四郎在寛と孝五郎子祥の妻、寛一郎と喜久治の妻は同一人物のようで、兄が早世した後に弟がその妻と子を引き請けるという歴史を繰り返しています。
新屋敷の過去帳には、墓碑不明の十数人の白神氏が記されていますが、そのうち二名が薗の庄屋を勤めたと吉備郡誌庄屋一覧に挙げられています。
これは恕助盛傳が薗、見瀬地区の白神家へ養子に入ったためで、新屋敷の過去帳は見瀬・白神家と新屋敷の先祖が合併した記録になっていることが判りました。
新宅は本家三代平助久長の娘が倉敷村難田屋原左兵衛に嫁いで、一子を生んだ後に不幸にして亡くなり、母(平助久長妻)が連れ戻った男子左一郎に立てさせた家です。その関係で、原姓と白神姓の両方を名乗っていたようです。
新宅
原 左一郎正豊――+――佐一郎 寛政5 | 天保6 室若林氏 | 室松井氏 | +――都留 | 松井盈永妻 | | 白神 +――松吉世之――+――世素 ――+――佐一郎世徳 ――+――松太郎世長――+――宇野 天保9 | 慶應1 | 明治29 | 昭和9 | 三島吉符妻 室鎌田氏 | 室安原氏 | 室鎌田氏 | 室三島氏 | | 室梶谷氏 | | +――熊野 | +――利恵 +――元松 | 鎌田家嗣 +――女 | 三島吉迪妻 | 分家 | | | | +==益三 | +――美保 +――保弥 | 妹尾氏 +――女 安原文三郎妻 | 明治27 | 後離縁 | | | 室世長三女 | +――女 | +――女 | +==理数 ==四郎 ――+ | | 広戸氏 三島氏 | | +――女 昭和48 昭和55 | +――保治 室世長三女 室難波氏 | 長田家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――二女子
四代世徳の墓碑から「白神氏」と彫られていますが、それまでは「原」姓になっています。
二代の兄左一郎(百之助)は別居して松井良助の家政を取り仕切ったとあり、その妻の実家玉島誉田屋も松井姓なので、事実上、誉田屋の婿養子になったようです。
「○○智貞信女、天明五年、原佐市郎」
というこの家でいちばん古い年代を記した墓碑がありますが、これは初代正豊の母(白神氏)の墓碑だろうと思います。従って、俗名は「原佐市郎母」であるべきですが、「母」の文字が飛んでいるようです。この例では、戒名が女性になっていて俗名が男性であって、他の墓誌や系図によって或る程度背景が判っているので、間違いの訂正が容易でした。
同じ様なミス(?)と思われる例を、笹井家(倉敷市児島下の町)、森下家(小田郡矢掛町)の墓誌で発見しています。
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元松松訓 ――+――冨貴子 昭和17 | 桐谷寿太郎妻 室久矯次女 | +――愿蔵 ――+――女 | 平成1 | | 室村上氏 | | +――女 +――春彦 花房家嫁 | 分家 | +――省三 | 分家 | +――晃子 太田愛妻
春彦 ――+――女 平成5 | 舟木氏妻 室小野氏 | +――女 | 高橋氏妻 | +――女 | 平松氏妻 | +――男
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