則武家
津高郡尾上村
則武(のりたけ)家の先祖は甲斐国の武田氏です。武田左京太夫信虎が駿河国に隠居して後、その地で生まれた上野介信友を祖とします。信友は晴信入道信玄の末弟ということになります。武田家滅亡の後、永禄年中に諸国へ修行に出た信友の子勝三郎宗勝が、備前に来て則武太郎左衛門信久と名乗って宇喜多家に仕えています。信久は関ヶ原の戦で戦死、その子與一郎久勝は帰農して村の庄屋を勤めます。久勝の孫秀勝は、延宝6年に備前国御野郡福島村(現在の岡山市千鳥町)に14町余の新田を開き、大庄屋に任命されています。
秀勝の子保之、保春は岡山の城下、富田町で尾上屋という屋号の材木商を始めています。
秀勝の跡を継いだ貞勝の妻は隣の一宮村の庄屋寺尾家から来ていますが、寺尾家の相続人が居なくなり、貞勝の長男九郎左衛門が継ぐことになりました。しかし、九郎左衛門も、のちに則武姓を名乗り、尾上村の則武家の分家と云われるようになったそうです。両家は共に「武田菱」を家紋として同苗ですが、尾上は「源」姓、一宮は「藤原」姓です。このちょっとした違いに両家の歴史が表現されていて面白いと思います。この違いは、清水家と間野家の関係によく似ていて興味があります。九郎左衛門としては、母の実家を相続してはみたものの、則武姓の方が偉そうに出来るので、改姓したのだろうと思います。
貞勝の曾孫與四郎勝善には2男、2女がありました。長女宇野は都宇郡津寺村の旗本榊原家の代官職をしていた服部家に、次女峯は、賀陽郡八田部村で備中松山藩の御用達をしていた西戎屋亀山仙右衛門博綱に嫁いでいます。勝善のあとは長男與四郎勝英が継ぎましたが、勝英の3人の子は何れも他家に嫁いだり養子に行って、弟の勝文が勝英の準養子となって相続し、勝長、達治勝順、正太郎、寧(やすし)と続きました。寧は昭和19年に中支で戦死し(享年32歳)、男子の相続者はいなくなりました。
勝英の長女は播州赤穂(兵庫県赤穂市)の藤本家に、次女は窪屋郡生坂村の間野家に、3女は賀陽郡八田部村の北戎屋亀山久蔵の妻になっています。久蔵は西戎屋博綱の実弟です。
達治の妻知能は窪屋郡三輪村の大庄屋神々(みわ)和太郎の娘で、和太郎の妻は備中足守藩の佐伯瀬左衛門惟正の長女です。佐伯惟正の実弟は日本に種痘を広め、大坂に適塾を開いた緒方洪庵です。こういう親族関係ですから、則武知能は、岡山県で最初に種痘を受けた一人だそうです。
信久 ――久勝 ――勝吉 ――秀勝――+――保之 慶長5 明暦1 元禄9 元禄9 | +――貞勝――――+――九郎左衛門 寺尾家嗣後冒姓則武 | 正徳5 | | 室寺尾氏 +――展勝 ――勝屋――――+ | 宝暦2 安永9 | +――保春 室屋葺氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――勝善 ――+――勝英 ――+――登喜 赤穂藩藤本弥司馬妻 寛政9 | 母服部氏 | 室池田氏 | 安永9 +――婦喜 間野貞秀妻 室服部氏 | 室三宅氏 | 室平井氏 | +――喜野 亀山久蔵妻 | | | +――波 中嶋好行妻 | | | +――岩次郎 古市家嗣 | +――勝文 ――+――勝長 ――+――達治勝順――――――+ | 母平井氏 | 明治25 | 大正15 | | 萬延2 | 室安原氏 | 室神々氏 | | 室堀家氏 | | | | +――勝 +――幸 古市孝継妻 | +――峯 亀山博綱妻 田中半妻 | | | +――類 服部信惇妻 | +――宇野 | 服部信好妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――正太郎勝正――+――寧勝善 | 昭和19 | 昭和19 | 室渡邉氏 | | +――女 | | | +――女 和気家へ嫁 | | | +――女 板倉家へ嫁 | | | +――女 檜垣家へ嫁 | +――女 安原晴五郎妻 | +――耕治 ――+――男 | +――女 粟井家へ嫁
この則武家の周りには多くの則武姓の家があります。一族郎党、協力して乱世を戦って生き抜き、泰平の世になってからは、力を合わせて農耕に励んだという歴史的背景が目に浮かぶようです。江戸時代に村の庄屋をしていた旧家を訪ねると、たいてい周囲に同姓の家がたくさんあります。こういう家々の関係はほとんど戦国時代にさかのぼるようです。
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