赤木家
賀陽郡八田部村





赤木家は桓武平氏平良文の後裔親忠が信州赤木郷に住んでその地の名を名乗ったのに始まります。その子忠長(忠頼、秩父氏称上総介)は、承久年中に備中川上郡穴門郷に移住して滝山城主となりました。それから何代かを経た子孫忠房は赤木蔵人と名乗って宇治村穴田に住み、その子忠道は高松城の戦に毛利方として参戦して戦死しています。
忠道の子、與三右衛門重宗も小早川隆景の軍に参陣しましたが、落城の後は八田部(総社)に土着して医業をはじめました。重宗は一旦小倉姓を名乗ります。

惣左衛門重吉は赤木兵左衛門の子で赤木に復姓して医業を始めました。妻は同所の名族大森外右衛門元房の娘です。
宗七(定七?)は軽部村江口氏、妻石田氏は同村の石田氏でしょうか、後妻は吉川村吉川氏で夫歿後復籍しています。
惣左衛門貞友の母は石田氏で妻池上氏は同村の石田氏でしょうか、後妻は水内村大戸氏です。亦右衛門の母は吉川氏で、その妻は神岡氏、この夫婦には一子惣七があります。
貞友の姉妹は、八田部村北戎屋亀山惣左衛門妻と八田部村池上氏に嫁いでいます。
惣左衛門守貞の母は池上氏で、妻は久代村大角氏です。同じ母池上氏の姉妹が三人あり、大森氏、富原村木梨氏へ嫁いでいます。大戸氏の子貞弐春賢は分家しますが、二十七才で早世しています。もう一人大戸氏が生んだ娘があり、これは西戎屋亀山仙右衛門正綱妻となっています。

惣左衛門(要蔵、亜甫)貞綱(尚綱、簡:号朴翁、亮淳)は、万輪丸屋亀山伝兵衛昆綱の次男で母は祢屋氏です。養父守貞とは六十一才もの年齢差があります。幼少時は多病でしたが、讃岐国の尾池恭庵について医学を修得して蒔田家の侍医となっています。簡の実家万輪丸屋が薬屋であった関係から同じ業界の縁組みだろうと思います。藤井高久門下で和歌も好くし、西山拙斎とも交遊がありました。その妻須磨は久代村大角氏で五男二女をもうけています。この大角氏は守貞妻の実家と同じ家と思われます。簡の後妻は足守村松浦氏です。

貞綱の長男八五郎(母大角氏)は万輪丸屋亀山公綱の跡継ぎとなって登左衛門倫綱と改めています。次男修平浚(母大角氏)が家を継いでいます。大坂の懐徳堂中井履軒から解剖書「越俎弄筆」の筆者を許可されています。妻は松浦氏、後妻は足守村中島氏です。三男正助敦は天明八年に三十四才で早世、四男久平長常は東戎屋亀山綱満の跡を継ぎます。
五男信左衛門忠行は江戸に出て勉強をして幕府直参に取り立てられ、三百五十石、浅草七軒町に邸宅を貰うほど出世しました。天保五年に六十六才で死去、その長男唯五郎が跡を継いだことが幕府編纂の旗本人名辞典から確認できます。
貞綱の季女於君(母松浦氏)は万輪丸屋亀山公綱の養女となり、後に同村清水屋安原正業の妻となりました。

太郎立(号求莽)は京都の吉益南涯に学び、文政五年のコレラ流行の時に罹患して亡くなっています。その妻幾は新海氏ですが、この末妹富が長尾村新海元孝長之妻となっていますので、幾の実家も同じ家だろうと思います。新海家も代々医業を続けた家ですから、医者同士の縁組みのようです。医者に限らず、同業者同士で縁組みをするというのは今も昔も変わらないところがあります。
浚の次男源十郎雄は松山藩津田家の婿養子となっています。四男素平均之は文化十年に二十一才で早世、長女は池田隼人家中上野藤助妻、三女慶は松山藩藤井家に嫁いでいます。四女糸は伯耆国黒坂村緒方家に嫁いでいます。この緒方家は倉敷の南大橋家初代五郎の実家と同じ家だろうと思います。

貞造(立造)弁(字は子明)は浅口郡大島村の医師原田恭庵の四男で、太郎娘於弥寿の婿養子になっています。

小倉改姓     赤木復姓
與三右衛門重宗==惣左衛門重吉==定七  ――+――惣左衛門貞友――+――惣左衛門守貞==惣左衛門貞綱――+
         赤木氏     江口氏   |  享保3     |  寛保1     亀山氏     |
室荒木氏     寛文5     寛文2   |  室池上氏    |  室大角氏    寛政3     |
         室大森氏    室石田氏  |  室大戸氏    |          室大角氏    |
                 室吉川氏  |          +――女       室松浦氏    |
                       +――亦右衛門    |  大森家嫁            |
                       |  享保20    |                  |
                       |  室神岡氏    +――女               |
                       |          |  木梨家嫁            |
                       +――女       |                  |
                       |  亀山惣左衛門妻 +――女               |
                       |          |  亀山家嫁            |
                       +――女       |                  |
                          池上家嫁    +――春賢貞弐            |
                                     享保1             |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――登左衛門
|  亀山家嗣

+――修平浚  ――+――太郎立  ==貞造弁――+――鼎朴齋   ――+――弁四郎   ――元蔵  ――+
|  文化10   |  文政5    原田氏  |  明治32    |  大正8     昭和57  |
|  室松浦氏   |  室新海氏   文久2  |  室亀山氏    |  室渡邉氏    室赤木氏  |
|  室中島氏   |         室家女  |          |                |
|         +――源十郎         +――女       +――圭五郎           |
+――昌助敦    |  津田家嗣        |  亀山好綱妻   |  原田称甫の嗣        |
|  天明8    |              |          |                |
|         +――素平均之        +――女       +――梅             |
+――久平長常   |  文化10        |  小山家嫁    |  三宅熊雄妻         |
|  亀山家嗣   |              |          |                |
|         +――女           +――小千代     +――登免            |
+――唯五郎忠行  |  藤井家嫁           山岡廉三郎妻  |  池田豊太郎妻        |
|  天保5    |                         |                |
|         +――糸                      +――俊三            |
+――女      |  緒形幾蔵妻                  |  大正7           |
   安原正業妻  |                         |                |
          +――女                      +――女             |
             新海元孝妻                     松原精夫妻         |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――制二
|  室小泉氏

+――元     
   小野百之助妻

十代の鼎朴齋は、備中松山の山田方谷に師事し、のちに伊勢国津の齋藤拙堂、江戸の伊東玄朴のところで修学して帰郷しています。帰郷後は浅尾藩蒔田家の侍医に任命されますが、浅尾騒動に巻き込まれて、親族の亀山伊蔵存綱とともに思わぬ災難に遭っています。廃藩置県後には賀陽郡初代医師組合長となり、この辺りでは朴齋の免許(「オジイの免許」)が有れば医者が出来たというくらいの権威があったそうですが、これは明治新政府の文部省医務局が、藩政時代から医業を行っていた者に履歴書を提出させて証明を行った時、この証人役を朴斎が勤めていたからだと云われます。朴斎の妻登良は元戎屋亀山五郎助中綱長女、朴斎の姉妹のうち、「あい」は万輪丸屋亀山好綱妻となっていますから、同所亀山一族とずいぶん重縁になっていることが解ります。「あい」は江田廣太郎に嫁いだ亀の実母です。元蔵から祖母清水多喜野に宛てた手紙に、
「好綱夫婦には子どもがなくて・・・と聞いていましたが、男子がいなかったということだと今判りました」
と書かれています。
他、朴斎の姉妹には、同村小山家に嫁いだ於静、高梁山田家に嫁いだ小千代がいます。静は夫が死去して一女を連れて実家に戻っています。この娘「かねよ」は後に妹尾村井上家に嫁いだと書いてありますが、都宇郡妹尾村(岡山市)で大庄屋を勤めた井上家に、守太郎妻雅野昭和二十年歿享年八十七という人がいます。ちょうど弁四郎より五才年少になり、両家の家格もつりあうようですから、「かねよ」が雅野の改名したのではないかと思います。
小千代が嫁いだ山田家も絶家となり、後に松山の山岡廉三郎へ嫁いでいます。この廉三郎は元戎屋亀山中綱次男で山岡家に入った人です。

弁四郎は二松学舎済生学会を卒業して医師となっています。妻小繁は下道郡久代村(総社市)の渡邉綱豊長女です。則武萬寿重様から、
「母は久代の渡邉から来ています。倉敷の病院長赤木元蔵さんは、母の従兄弟になります。その家に頼母という人がいて、考古学を研究されていました。」
とお聞きしています。
弁四郎の弟圭五郎は浅口郡大島村原田称甫、即ち祖父貞造の従兄の養子となりました。妹の梅は有井村の三宅熊雄妻となり、乙女は芳井町の池田豊太郎妻に、花は真壁村松原精夫妻となりました。他に、俊三という弟がありますが、四十二才で亡くなり、妻安延氏は実家に復籍しています。

元蔵は、千葉医専を卒業、倉敷中央病院に勤務後、大正十五年元町で開業して大いに繁盛しました。長い間、倉敷医師会の会長を勤めました。清水良平も同市内で内科医院を開業していましたから、遠縁の同業者の目で見たワンマン会長の様子をおもしろく聞かせてもらいました。
良平は母多喜野の従姉になる大橋寿の主治医を引き受けていました。ある時、大橋家(東大橋)で元蔵先生と同席したことがありました。あとから元蔵先生が伯父に
「大橋家とはどういう関係になるのですか?」
と尋ねられたそうです。
「自分の母が寿さんといとこになります」
という話から家系の話となり、赤木家と関係の深い亀山家と祖母の実家江田家も縁戚であることが解ったようで、古い位牌などを調べられた結果を手紙に詳しく書いて送ってこられました。その手紙は祖母の文箱にいまも遺っていて、私の調査にたいへん役立ちました。

冒頭写真は伯備線総社駅西側頓宮地内の薬師堂裏墓地です。家紋は「丸に向こう茶の実」

福島

市郎貞政――皎{貞則――勇才  ――+――貞女
木梨氏   明治39  昭和19  |  元蔵妻
明治23  室物部氏  室板野氏  |
室山本氏              +――正人
                  |  昭和19
                  |  室片岡
                  |
                  +――次朗
                     昭和21



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