備中窪屋郡倉敷村の歴史から



・美観地区のかつての住人
浅尾騒動
大島屋物語
義倉


倉敷美観地区のかつての住人

倉敷美観地区は良い命名だと思います。しだれ柳が並ぶ倉敷川河畔と白塗りの土蔵という若い女性が好みそうな町並みにふさわしい名です。でも、ここは秀吉が活躍したころには、阿知神社のある鶴形山と向いのアイビースクエアの位置にあった小山を中心にしたさびしい漁師村でした。

たった、四百年昔のことなのです。世の中が落ち着いて、それまで一生懸命に刀を持って戦をしていた連中が、いっせいにくわに持ち替えて死ぬほど働きました。そして、近郷の干潟を次々に干拓していったのです。戦場で采配を振るった武将の子孫たちは、部下の生活保障のために、一族郎党引き連れて開墾に力を入れました。それが、当時の倉敷村の有力者で、村政も庄屋の小野家を頭とする十三軒を中心に行われていました。これを古禄十三軒と呼びます。

倉敷村の土地台帳や戸籍を追ってゆくと、元和五(1619)年から元禄八(1695)年までの八十年の間に戸数が六倍に増え、それから七十五年後の明和七 (1770)年には、更にその倍になっています。江戸時代の日本の総人口は増えていませんから、これは倉敷村への人の集中を表していると云えるでしょう。 幕府天領だった倉敷村の税金が安かったからです。

古禄派十三軒の内訳には、大原美術館を創った大原家は出てきません。古禄の家々は、十八世紀のはじめまでは景気が良かったのですが、その世紀の終わり頃にはだんだん落ちぶれていきました。そして、大半はもう倉敷に跡形もないのです。落ちぶれた古禄に替わって景気が良くなった家々を新禄と呼びます。これは皆、元禄時代以降に倉敷村に移住してきたと云われていますが、実は、ほぼ幕府草創期から倉敷村に住み着いていました。
新禄派は古禄派の羽振りのよい頃にじっと辛抱しながらコツコツ稼ぎ、やがて古禄派の衰退につれてどんどん富を蓄えて行きました。しかし、納税額の決定や神社や寺の世話役(寄進は主に新禄)は古禄派が仕切り、商売の上でも古禄派が特権を持っていましたので、両派の間でしだいに争いが起こるようになります。終いには代官まで巻き込んでの大喧嘩になりました。

倉敷の代官所は延享三(1746)年にアイビースクウェアの場所に出来ています。代官所は天領倉敷のシンボルですが、代官所が置かれたのは幕府が出来て百数十年も経ってからなのです。
新旧の派閥間の大喧嘩は約四十年続いて文政九年八月にやっと決着して、庄屋年寄などの村役人は公選することになりました。特権を握っていた古禄派 が完全敗北して民主主義の原形が出来たのです。

新禄の代表としてあげた十二家のリストをみても大原家くらいしか知られていません。岡山県人なら、大橋家、家くらいは知っておられるかも知れませんが、人の入れ替わりは想像以上に激しく、現在の倉敷美観地区の古い家に居住している人の大半は太平洋戦争以後に移住した人です。

浅尾
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浅尾藩というのは岡山県総社市の近くにあった1万石の小藩です。
時代は幕末で、騒動を引き起こしたのは前項で紹介した、中島屋大橋家の分家の敬之助という主人です。
大橋家は寛政年間頃から財力を蓄え、家の娘に出来の良い婿養子を迎えてどんどん分家を立てて行きました。この敬之助もそのような経緯で迎えられ た養子でした。
敬之助は播州佐用郡上月村の大庄屋大谷五左衛門嘉道の長男で、若くして大庄屋見習いにまでなりましたが、藩の役人と政治のことで喧嘩をしてお役御免となり、母方の叔父になる作州西西条郡二宮村の大庄屋立石正介のもとに寄宿していました。
正介は尊皇家であったので、ここには勤王の志士達の往来がはげしく、敬之助にも尊皇意識が高まって行きました。
余談ですが、名主や大庄屋の中に幕末に尊皇運動を一生懸命やった連中がけっこう多いのです。表面的には農民支配の手足のように領主や幕府に利用されながらも、戦国時代以降引き継いだ「刀を帯びて小部隊を指揮した長の子孫」というプライドをずっと持ち続けていたのです。
さて、立石家と大橋家は親戚関係にあったので、敬之助は十八才で大橋平右衛門の長女慶の婿養子となり西大橋家を立てて分家することになりました。大橋家も 幕府に多額の献金をして苗字帯刀許可を得てはいましたが、先祖は豊臣家に使えた武将で、幕府に対して快い気持ちはなかったようです。このような親族、養家 の尊皇、倒幕の思想が、この後の敬之助の行動に影響したようです。
敬之助が倉敷に来てから下津井屋事件というのが起こります。敬之助は、下津井屋の若主人が幕府が禁じている他国への米の横流しを摘発して代官所へ訴えます。ところが、一旦はけしからぬやつと捕らえられて入牢した下津井屋の若主人ですが、一月もしないうちに交代した櫻井代官は、すぐに下津井屋の若主人を釈放してしまったのです。
「東から桜の花が飛んできて小山の影に咲いた山吹」
東は江戸、桜は櫻井代官、小山は下津井屋の親族の小山家、山吹は云わずと知れた小判のことです。要するに代官と下津井屋の間の贈収賄事件があったのです。 新任の代官がはるばる江戸からやってくれば、村役などやっている連中は下津井屋に限らず「よろしくお願い申しあげます」という挨拶に馳せ参じることでしょう。でも、タイミングが悪すぎたのです。
息子を釈放された下津井屋は大橋家にやってきて、敬之助の大悪口を云います、ついには前歴をほじくり出されて、敬之助は尊皇攘夷の危険人物だという事まで言いふらされるようになりました。そうなると、敬之助はおもしろくもないし、身に迫る危険を感じて倉敷を飛び出しました。
それから数日して、下津井屋が全焼して、小山家土蔵(いまの考古館)の前の川に下津井屋親子の首が浮かびました。犯人は数人の覆面浪士といわれています。もちろん敬之助が疑われています。この下津井屋事件の要点は、敬之助が倉敷代官所に対して憎しみを抱いたということです。
方々を転々と移動した後、敬之助は親戚の立石家の先祖で、毛利家のために働いて軍功があった立石孫一郎の名を借用して長州藩の奇兵隊に潜り込みます。奇兵隊と云えば高杉晋作の名を思い出すかも知れませんが、本来、奇兵というのは藩の正兵に対する呼び名で、当時は高杉さんが作った奇兵隊以外にたくさんの奇兵 隊が出来ていました。敬之助が入ったのはそのうちの一つ、周防(山口県)の第二奇兵隊という部隊でした。敬之助は、文武両道に秀でていましたから、自ずと部隊内の人望を集めました。
それから部隊内の内紛に乗じて、上司を切り殺し、百人ほどの隊員を引き連れて船で周防国を出発しました。敬之助等を乗せた船は連島の港に入り、東松山川(高梁川)に沿って北上して、倉敷代官所を襲いました。しかし、敬之助にとっては肝心の櫻井氏が不在で恨みを晴らす事は出来ませんでした。気が治まらない敬之助は、部隊を引き連れて更に北上して、浅尾藩邸を襲いました。本当は、幕府の老中を勤めていた板倉家の居城、備中松山城を攻撃する目的であったと云います。
浅尾陣屋にもまた藩主は不在で、数十名の留守番が居ただけのようです。藩邸内は大騒ぎ、武士であることも忘れて逃げまどうものが多数あったと云います。
「長持ちの蓋を開ければ居候、おっと驚く赤木朴斎」
という狂歌がこの時の混乱ぶりを上手く表しています。居候は「伊蔵ろう」にかけて、軍奉行の亀山伊蔵存綱のこと、赤木朴斎は藩医です。藩医の先生が身を隠 そうと長持ちのふたを開けたら藩のいくさ奉行が居たというお笑い話です。この伊蔵は、八田部村(総社市)で代々栄えた商家万輪丸屋の当主で、祖父の代から侍に取り立てられ、よりにもよって軍奉行にまでなっていました。
この亀山家と大橋家は遠縁になり、伊蔵は親戚筋の者にとんだ恥をかかされたわけです。他に藩邸内に居た息子の幸右衛門好綱は郡奉行を勤めていました。
さて、奇兵隊の一行は、浅尾陣屋を襲った後、東松山川を下って逃げるところを幕府の軍艦に発砲されて散り散りばらばらになりました。敬之助は児島から多度 津を経由し周防に帰ったところで、毛利の将清水家(水攻めで有名な備中高松城主清水宗治の子孫)の刺客に切り殺されました。敬之助の墓碑は山口県光市島田に建てられ、この墓を拝むと万病が治るという言い伝えがあるそうです。

大島屋
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大島屋大島家は正徳年間から元文年間にかけて家運が絶頂期にあり、当時は庄屋の紀国屋小野家と共に倉敷村の富を二分していました。明和安永頃の当主彦兵衛は屏風に凝って二百双以上の屏風を収集し、客を集め ては屏風の自慢をしていました。
ある日、近郷の生坂村の間野五三兵衛という金持ちが「金屏風を五〜六双貸してくれ」と番頭を通して云ってきました。五三兵衛の家で多くの客をもてなすのに 二十双ほどの金屏風では足りなかったので大島屋に頼みに来たわけですが、彦兵衛は間野家の番頭に向かって「うちには金屏風が一双しかなく、とても貴重なも のなので、他へ貸し出すわけには行きません」というのです。しかし、番頭が奥を覗くと金屏風が五〜六双立てられているのです。番頭が「あれは何ですか」と 問いかけると「ああ、あれはただの金箔を貼り付けた屏風です。では、うちの金屏風をちょっとお目にかけましょう」と云って使用人に蔵から持ち出させた屏風をみて、間野家の番頭は度肝を抜かれて声が出なかったそうです。なんと、その屏風は高さ九十センチ、厚さ三センチの金無垢屏風だったそうです。この彦兵衛は明和二年に三十才余で早世しています。この派手な大島屋も天保末期から音を立てて没落しはじめ、弘化年間にはいると家屋敷は人手に渡りました。

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近世の倉敷には、力の弱い者、社会的弱者を救い、また、仲間に入ったお互い同士で融通しあうための、義倉という仕組みがありました。これは武士に力を借りず、町人が自ら組織したという点で、倉敷が全国に誇る意義深い制度です。
その資本(金)のつくりかたですが、出資仲間(義衆)を 八等級に分けて麦を集めました。一番多い人が四石、一番少ない人が三斗です。法文の中に
「右八段に等級を立て、当丑の年より戊の年に至る十年の間、毎年麦を出し申し候。但し、家産の厚薄を論ずず、ただ義志の深浅に任せ、少しもこれを強勧め申さず候」
という名文があります。金を持っているからたくさん出せとは云いません、各々の志の大小に応じて出資して下さいと云っているわけで、狭い社会ですから、こう書かれると出し惜しみが出来ません。
集まったお金をグループ分けされた 義衆に連帯保証をさせて貸し付けて利子を取ります。最初に集めたお金に対する利子は払いません。無利子で借りたお金を利子を取って貸し付けるのですから儲かります。
また、同じ法文の中に、
「当所に檀家所持の寺院の現住五人を義衆中に加え申し候」
というのもあります。五つの寺、誓願寺、観龍寺、地蔵院、本栄寺、教善寺の五人の現住職も義衆に入ってもらうと決めています。寺からは出資は頼まないけれど、集会所を提供して貰ったり、事務管理をやってもらおうというわけです。もともと江戸時代の寺は現在のような葬式屋ではなくて、幕藩体制の末端組織として戸籍の管理などやっていたお役所でしたから、お寺を組み入れることで、義倉の信用を高めようというねらいがありましたす。
義倉が出来たのは明和六(1769)年で、古禄派の播磨屋原田安右衛門と医者の雲臥が発起人でした。理想は高いがうまく行かないと云うのはいつの時代もそうで、義倉の場合も、相次ぐ飢饉のために、資本をためるよりも引き出す方が多いので、なかなかうまく行かなかったようです。それでも、天明八年、寛政十二年と金勘定をやり直しながら何とか明治まで続いています。明治三年になって、林孚一が発起人になって続義倉を始めました。これが明治三十年 まで続きましたので、結局、百二十八年もの間続いたことになります。



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