古代屋(ふるだや)江田家
津高郡金川村





墓地は、近郷切っての経済力を誇示した豪商にしてはたいへん質素です。武家の先祖を持つという由緒のせいでしょうか、はたまた禁教とされた不受布施の内信を守っていたせいでしょうか、山の中に隠すようにひっそりと墓碑が並べられています。
一般に、江戸時代、大名の墓は別として、武士の墓はたとえ家老クラスでも質素です。古代屋の墓はこの通りですが、分家の植屋、笹屋となると墓碑は巨大化し、華やかになって行きます。分家するごとに墓が豪華になるのも一般通則のようです。

昭和24年に建てられた累代墓の裏に、古代屋の由緒が書かれています。
「江田氏姓源氏也中祖慶純應松田氏招文明頃居住御茶屋屋敷代々孫右衛門慶長中武蔵守免屋敷向上等租勤大庄屋並諸役而至維新明治末葉邦太徒大阪昨夏於岡山乃相謀卜先塋之地建累世碑自今葬此慶焉」
(先祖は源氏の流れで、始祖慶純は金川玉松城主松田家に招かれてやって来た。文明年中頃から御茶屋屋敷に住んでいたが、慶長年間に備前藩主池田武蔵守利隆に屋敷地を取り上げられた。替わって大庄屋に任じられて明治維新まで代々その職にあった)

古代屋は代々孫右衛門を名乗って奥津高大庄屋を勤めていたことが古文書からも判っています。備前藩には取り上げられた御茶屋屋敷(現在の金川小学校)と交換に金川表町に2反(600坪)の屋敷地と向山1カ所を貰っています。向山には古代屋が利国(としくに)稲荷を祀りました。他宗の神を拝まないと云う日蓮宗不受布施派を信奉する家が神社を創建していることは不思議な感じがします。

慶純 ――宗慶 ――宗清  ――宗安  ――+――宗仁  ――宗悦 ――宗閑  ――+――宗栄  ――+
明応2  天文4  天正3   元和8   |  寛文12  元禄6  享保20  |  明和3   |
          室三藤氏  室戸川氏  |                   |        |
                      +――宗祐               +――伝兵衛   |
                         分家植屋                分家繁屋  |
                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――孫右衛門定賢――+――女
   寛政2     |  齋藤元局妻
           |
           +――孫右衛門定経――+――孫右衛門定邦――孫一郎  ――+――邦太    ==敏夫
           |  安政3     |  明治8     大正2    |  昭和25    水田氏
           |          |  室立石氏    室亀山氏   |          室邦太養女
           |          |                 +――町
           +――女       +――女              |  大谷甚九郎妻
              大橋紀妻       永富宗定妻          |
                                        +――美代
                                        |  亀山政綱妻
                                        |
                                        +――ひさ
                                        |  近藤遊亀太妻
                                        |
                                        +――良雄
                                           昭和22

宗安妻は戸川土佐守時氏娘です。
宗閑は貞享2年、津高郡菅村の内に4町余の新田を開いています。元禄11年惣肝煎役(=大庄屋)、宝永1年に御徒格、各地の検地に出張を命じられています。要するに士族として取り立てられているわけですが、その身分は低く、手弁当同然でこき使われているという実態です。
定邦妻は立石正介の姉になります。正介は供をを引き連れ槍を立てて金川の姉の所を訪れたそうです。倉敷浅尾騒動の時、大橋敬之助をそそのかした張本人ではないかと嫌疑をかけられた正介は古代屋に匿われています。邦太は大阪高等工業を卒業して農商務省特許局に入り、発明品の審査官となりました。晩年には岡山市に住んでいます。邦太には子がなく、古代屋直系の血筋は絶えました。

宗安の子宗祐は分家して上屋(植屋)を立てます。植屋は代々重右衛門(十右衛門)を名乗りました。植屋は5代で絶え、その跡株を裏町河内屋駒井喜三治が引き継いで、江田喜三治と名乗りました。喜三治は屋号を和泉屋と称しています。

上屋                                   和泉屋
宗祐  ――+――宗順 ==重右衛門正義――専七郎義豫==九右衛門宗貞==宗達・・
慶安5   |  元禄5  (宗品)    (宗忠)   秋山氏     駒井
犬飼氏  |  鳥羽氏  西上屋より   明和7    寛政11
      |       寛延4     室押尾氏
      |       室野田氏
      |
      |  西上屋
      +==太郎左衛門道栄==宗悟  ==廣治郎宗伯――仙左衛門宗意――宗三  ==喜三郎義景――+
         某氏       某氏    矢木氏    享和3     文政12  (宗實)   |
         元禄2      享保21  宝暦9                  万波氏    |
         室宗祐娘     室道栄娘  室宗悟娘                 安政5    |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――萬三郎宗言――定次宗恵==住三  ――正志
   明治22   昭和6   中村氏
          室石原氏  昭和7
                室香山氏

宗祐の子道栄は分家して西植屋(=笹屋)を立てています。宝暦9年、津高郡宇甘郷上村平井新田を拝領して自力開墾しています。宗伯は俗名広次郎、播州赤穂加里屋の矢木新三郎の次男です。寛保3年から宝暦9年まで大庄屋を勤めています。

上記の系図は和泉屋江田喜彦氏に依りますが、その後、家系図のML上で知り合った江田J氏から下記の系についてご教示いただき、和泉屋直系のご子孫に確認した処、繁屋というもう1軒の分家があったことを知りました。家紋は鬼蔦です。伝兵衛は宗閑の子くらいになるのではないかと思います。

伝兵衛――市右衛門――新蔵 ――信次郎 ――又一郎 ――鉄衛  ――+――仁平
           慶應3  明治22  明治42  昭和28  |
                                  +――幸作
                                  |
                                  +――実

金川江田家の遠祖について考えてみます。先ず、年代を追って歴史記録を並べると、
古代屋祖慶純が文明中(1469-1487)から金川に住み、明応2(1492)年に亡くなっています。
慶純を呼び寄せた松田氏は、建保7(1219)年に武蔵守元信が鎌倉から下向したということになっています。
宗慶、宗清、宗安の歿年は各々、天文4(1535)、天正3(1575)、元和8(1622)となります。
古代屋7代目江田孫右衛門の奉公書(書上)には、先祖は江田左衛門その子三河となっています。金川から直線距離で6キロほど北上した上建部村大字建部上富沢に茶臼山城址があり、江田左衛門光治が居城して建部近郷15ヶ村を領有していましたが、天文21(1552)年、出雲国尼子晴久の攻撃に遭って落城、自害したという記録があります。年代順に並べて比較すると、古代屋の累代とこの左衛門、三河父子は一致しませんが、下記に通り、松田家との関係からみると同族である可能性が高いと思われます。

建部町富沢金島家に伝えられた「江田系図・姓源氏」によると、江田左衛門光治とその子三河守重光が尼子晴久の攻撃に遭って戦歿したと記され、この兄弟か近い親族と思われる隼人正(藤兵衛)光久が松田家の加勢要求に応じて、嫡男七郎四郎光盛を大将として百余騎を送ったとあります。光盛は松田家の滅亡後は宇喜多家に採用されたようで、左衛門光治の遺領をそっくり安堵されています(天正3年に22才で戦歿)。そのあと三郎左衛門(甚十郎)光房が一部の領地を安堵されていますが、これも高麗の陣で戦歿しています。光盛と光房も兄弟か近い親族と思われます。また同様の関係にあったと思われる宗兵衛(権七)光定は宇喜多秀家から美作国倭文(しとり)の領地千石を支給され、その後五百石を加増されていますが、宇喜多家滅亡後浪人して建部に戻っています。

また、金島家所蔵の江田家景図によると、新田義重の曾孫三郎満氏が江田姓を名乗り、その子兵部少輔行義が備前14郡を領しています(延文3歿、享年51)。行義10代の孫七郎四郎義知は建部光元城主となり、その子宗兵衛義正は宇喜多秀家に仕えて千五百石給となりますが、関ヶ原陣後建部に戻ったとあります。この宗兵衛義正と上記の宗兵衛光定が同一人物と思われます。
更に、「江田家感状写」という書類には、
○永禄6年、佐々木源蔵義秀→江田加賀守
○永禄7年、佐々木源蔵義秀→江田加賀守
○織田右大臣信長→江田七郎四郎
○佐々木源蔵義秀→江田七郎四郎
○天正4年、羽柴筑前守秀吉→江田宗兵衛
○天正4年、宇喜多秀家→江田宗兵衛
○宇喜多直家→江田権七
○宇喜多直家→江田宗兵衛
などのものがあります。「杏葉紋の族譜」に、「今古代屋に伝わる古文書写2通を挙げておこう。これらは旧建部村光本の江田家にあったとされ、史家板津謙六氏が書き写したものであるが、真偽は極めて疑問である」という注釈がありますが、上記江田家景図に並べてある人物と付合してはいるようです。

電話帳ソフトを使って現代の江田姓分布を調べてみました。建部町38、御津町53、加茂川町1、久米南町0、赤坂町3、吉井町7という具合で、建部と御津町が圧倒的に多いことが解ります。更に、御津町の内訳は、鹿瀬16、金川12、紙工9、伊田5、宇垣5、新庄3、野々口、宇甘、矢原が各々1。建部町は、西原16、吉田10、福渡5、中田4、建部上2、富沢1。つまり、建部町から御津町の旭川に沿って集中しています。もちろんこれらの全ての家が同じ先祖というわけではありませんが、同姓を名乗るからにはそれなりの由緒があるからで、戦国時代に江田株式会社に勤務した社員全てが同じ名乗りをしても不思議はないと思います。社員の中には血縁の有無を含めた親族と全く無縁であっても利害関係の一致した人が居たはずです。つまり現代の姓分布図は戦国時代の江田家の勢力図と重なると思います。因みに、社会党書記長を勤めた江田三郎、科学技術庁長官を勤めた江田五月父子は建部町福渡の出身です。

以上から、古代屋の先祖は関東から備前に下向した武士で、一族は戦国時代の建部を中心に根を下ろし、松田家との関係もあって金川にかけても勢力を伸ばしていました。松田家が滅んだあとは宇喜多氏の配下になりますが、池田家の時代になると刀を捨てて帰農していったと考えられます。


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