近藤家
児島郡鉾立村番田
倉敷市中島白神家の系図にこの家との縁合が記されています。また、真平夫婦墓前の灯籠に
「昭和三年五月 五女服部敏子 三女近藤貞」
と刻んであります。
それから後、児島林の五流尊龍院宮家家の墓地を調べました。そこで
「児島郡鉾立村近藤堅四郎長 晋室濃婦」
と刻まれた墓碑を見つけ、中島家と宮家家、両家と縁戚になる近藤家は同一の家ではないか、その系図を調べることでまた新たな縁合が判明するのではないかと思いました。
さっそく、墓地を訪ねてみました。
近藤貞の墓碑は直ぐに判り、続いて近藤堅四郎の墓碑、白神貞が嫁いだ家の先祖を順次、本家、その又本家?と辿りほぼ全貌が判った頃には、午後二時を廻って日が傾き掛けていました。番田に到着したのが午前十時前ですから、四時間ほどぶっ通しで墓碑文に向き合っていたことになります。
こうして系図整理のための情報を集めて帰りましたが、その後、図書館で一族の近藤保氏が著された「近藤家墓碑銘」を見つけました。
以下、保氏の著書を参考に私の知り得た縁合で肉付けしながら一族の歴史を紹介してみます。
本家(中屋)の流れは次のようになります。
五郎右衛門――與十郎――+――八兵衛 ――+――紋五郎 宝永7 元文3 | 寛政1 | 分家 室 室 | 室福原氏 | | +――紋次郎冨之――+――廣次郎清通==紋次郎敬典――+――紋次郎和之――+ +――某 | 文政4 | 文政1 松井氏 | 明治28 | | 室山西氏 | 室小西氏 明治14 | 室近藤氏 | | | 室郡氏 | 室橋本氏 | | +――維孝 | | | | 太田家嗣 +――陽吉郎 | | | 分家 | | +――保定 | | 分家 | | | +――他三女 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――紋次郎敬之――+――恂二 ――+――紋次郎 ――雅夫 | 大正5 | 昭和14 | 昭和50 | 室木谷氏 | 室三木氏 | 室 | | | +――亀八郎 +――古登 +――三郎 | 蜂谷丈太郎妻 | 室平川氏 | | +――峯 +――五郎 | 門田精次妻 | 平松家嗣 | | +――女 +――七郎 宗像真一妻 | 室黒川氏 | +――八郎 | 田邉家嗣 | +――百子 | 土屋薫妻 | +――鏡子 | 大正6 | +――知子 | 三戸義則妻 | +――治子 正田弘妻
「近藤家墓碑銘」によると、五郎右衛門の父は不明、即ち番田の近藤氏の祖は何処から来たものか不明です。近藤姓と下がり藤の家紋はずいぶんありふれていますが、私が廻った処では、番田から児島湾を渡り吉井川を少し北上した西大寺五明の近藤家と何か関係がありそうに思います。天保六年に生まれた、五明の近藤仙三郎有義の墓碑に十一世祖が五郎左衛門とあります。仙三郎は上記系図の保次郎重國と同世代になります。
八兵衛は十六で独立して農業に精励し次第に産を増やしたようです。その財を使って船を持ち交易を始めました。これが近藤家のその後の発展の礎になりました。八兵衛には二男三女があり、兄紋五郎が分家、弟紋次郎冨之が家督を継ぎました。近藤保氏は、八兵衛の妻福原氏の実家は下山坂かも知れないと考察されています。
紋次郎冨之(字善夫、幼称兵之助、壮改紋重郎)は紋次郎と福原氏の次男で、父紋次郎は八兵衛と改めて家務を冨之に委ねました。その時から冨之は紋次郎を名乗っています。妻山西氏との間に三男子があり、長男清通が相続、次男維孝は母の縁先になる太田家を嗣ぎ、季男保定は分家しました。清通は父より先に亡くなり、その妻小西氏に子は無く、小西氏は親戚松井氏の子を養嗣子にしました。
富之の妻登和は同郡小串村の山西傳左衛門の娘で母は太田氏です。傳左衛門が早世したので、その妻太田氏は当時四歳の登和を連れて実家に戻りました。登和は太田家で成長の後、十九才で冨之のところへ嫁いでいます。墓誌は姫井元浮フ撰文です。
廣次郎清通(字伯溥)は刀剣について鑑識眼があり、又俳諧も好くしました。邑久郡虫明村小西佐左衛門義季の三女志津(母和気郡伊里中村真殿氏)を妻に迎えますが子は無く、文政元年に五十二才で亡くなりました。
「近藤家墓碑銘」には次のような記録があります。
清通は青年時代に隣村(北方村)の合田家の娘と深い恋仲となり、内々夫婦の契りを結ぼうと固い約束をしました。そのしるしに清通は緋縮緬の長襦袢を贈りました。この話を聞いた父富之は『家柄が違うからこの縁談は許さない』とのことで、とうとう破談になりました。合田家の娘はこの報を聞いて、贈られた長襦袢を引き裂き、これで曼陀羅をつくり、剃髪して北方村の中蔵院に入りました。そして尼僧として淋しく一生を暮しました。
著者はこれが事実かどうか確めたいと思い、中蔵院に聞いてみられたが、よく判らないとのことだったそうです。
北方の合田家というと、興除新田干拓などに功績のあった大庄屋の合田家を思い出します。大庄屋合田清五郎恒幸に宇多(天保十三年歿年七十三才)という娘があり、清通より二才年下になります。嫁いだ娘の墓を実家に建てることは時々ありますが、この宇多の墓碑は伽藍塔で当時としてはちょっと変わった型です。嫁がずに尼僧として暮らした人の墓と見えなくもありません。著者は富之が
「合田家は藩の出張りの役所で名家ではあったが、大里正の本近藤家には家柄が及ばず」
と云ったと記されていますが、何か別の理由があったのではないかと思います。
紋次郎敬典(字在徳 後改八郎)は上道郡才崎村の松井久兵衛の長子で、十八才で近藤家を嗣ぎました。藩主への献金により大里正格と八口の俸禄、称姓帯刀を許可されています。妻は同郡郡村の郡寿元の第三女小華で、夫婦には五男一女がありました。夫婦の墓誌は生田安宅の撰文です。
紋次郎和之(字鳴鶴 号煙渚 老後改八郎)は村吏となり、後に県庁へ出仕、県会議員を三十一年勤めています。妻は分家近藤雄吉の長女加寿で、二男一女がありましたが長男竹五郎(後改紋次郎)だけが成人しています。加寿は三十一才で早世し、後妻満幾は播州赤穂町の橋本甚太夫五女ですが子に恵まれませんでした。墓誌は門田重長の撰文です。
紋次郎敬之(蘆村)は阪田警軒の興譲館に学び、帰郷して父を助けています。維新後は村会議員を三十余年勤め、大正五年に六十五才で死去しています。妻以志は下道郡二万村木谷隆四郎第三女で、一男四女がありました。長男恂二が跡を嗣ぎ、長女古登は津高郡横井村蜂谷丈太郎に嫁ぎますが、二十二才という若さで実家でなくなりました。三女は備後国の門田精次妻となり、四女は安藝国の宗像真一に嫁ぎました。夫婦の墓誌は第七高等学校造士館教授山田準の撰文です。
恂二は岡山中学、第七高等学校、京都帝国大学と進み、扁桃腺研究で医学博士の学位を授与されています。妻は姫路本町の三木三郎三女歌野で、三男四女がありました。歌野の母は代々の医家尾上氏です。
八兵衛長男紋五郎の跡は次のようになります。
紋五郎 ――和重郎 ==紋五郎 ――紋五郎 ――+――保次郎重國――+――里宇 享和2 文化12 植木氏 嘉永7 | 大正7 | 室 室 文化14 室堀川氏 | 室石島氏 | 室 室 | +――津奈 +――資次 | | | | +――嘉一郎 ――保 ――三四郎 +――万寿 昭和23 昭和63 室 室 室
三代目の紋五郎は作州赤野村の植木氏とあります。
八兵衛には兄弟がありました(田中屋)。
某 ――與重郎 ――與重郎 ――與十郎 ――嘉五郎 ――+――玄二――正雄 寛政12 文政8 嘉永5 明治22 明治31 | 室 室 室塩飽氏 室埜田氏 室 | 室 +――保太
三代目の與重郎妻の墓碑は保氏も苦労されている跡が読みとれますが、倉敷塩飽家の墓碑銘とうまく一致する事が判りました。
「智性妙念 文久二壬戊年八月八日二十七才 與重郎妻加免備中倉敷塩飽氏」
四代目の與十郎妻は岡山山崎町埜田力太郎女となっています。
盛大なときは酒造業をしていたそうで、四代目の與十郎は番田村の戸長も勤めました。
陽吉郎の後(沖中屋)は次のようになります。
陽吉郎 ――+――健次郎 ――睦二 明治29 | 明治37 室服部氏 | 室 | +――常 | 明治31 | +――磯 | | +――秋平
陽吉郎は明治維新後に分家しています。明治十〜二十年頃、役場の用掛をしていました。屋敷は今の赤マル醤油会社の桶屋場で、酢などの食料品や雑貨を売っていました。明治三十年頃には岡山市難波町に出て、金融業を営みました。睦二は岡山県師範学校を中途退学、その後大阪市に移住しました。
「要行院妙浄日義 御津郡福富村服部勘右衛門妻佐津明治十八年三月四日七十三才」
という墓碑があり、「近藤家墓碑銘」には陽吉郎妻木曽の生母ではないかという註があります。
岡山市浜野の妙法寺境内に、
「精義院醸泉日浄 服部甚左衛門源常住五男勘右衛門六十才文久二年十月四日
要行院妙浄日義」
という墓碑があります。
紋次郎冨之の三男保定は分家して東近藤の始祖となりました。屋号は新しい中屋であるから新中屋といいます。
三郎右衛門保定==雄吉惟徳――+――三郎二忠定――+==敬次郎 ――+――敬次郎 ――+――敬之介 天保15 難波氏 | 明治42 | 近藤氏 | 昭和42 | 室林氏 嘉永6 | 室難波氏 | 昭和7 | 室田渕氏 +――昭平 室廣井氏 | | 室忠志娘 | | 中村家嗣 +――堅四郎 | 室白神氏 +――浩之助 | | 分家 | | +――博子 | +――直 +――茂野 | +――勝太郎前定 分家 +――貴美子 | 明治12 | | +――和子 +――加寿 | 近藤和之妻 | +――男
三郎右衛門保定(号鼇山 幼称三次郎)は若くして学問を志し、志村東州について学んでいます。後に京都に遊学して佐野山陰、松本愚山に師事しています。天明三年に分家して醤油醸造業を始めました。文化六年には藩からその孝養を賞されて米五苞を賜っています。妻佐伊は備中倉敷の広島屋別家林秀輝の長女ですが、夫婦の間に子はなく、妻の姪佐利(備中山口村廣井茂一郎の長女)を養女に迎え、これに備中都宇郡下荘村の難波猶平二の第三子雄吉を婿に迎えて跡を継がせました。
天保十五年に七十二才で亡くなり、孤崎に葬られました。墓誌は姫井元淳の撰文です。
大正十五年、東近藤は墓地を移転しました。墓地造営の工事監督によると、鼇山の墓は驚くほど念入りのもので、棺に亡骸を安置し、空間には香をいっぱい詰めてありました。その棺は、豊島石をくりぬいて造った(マチカン)に納め、桁との空間には木炭をつめ、上に同じ豊島石の蓋をしてありました。白骨はきれいに安置したまま残っていて、密封して外界と断ってあったので香が薫りつめたとのことです。
鼇山の妻佐伊は、夫歿後、養子夫妻も相次いで亡くなり、幼い孫たちがのこって、家産も少しずつ傾きかけた中を懸命に家を守りました。墓誌は生田安宅の撰文です。
雄吉惟徳(字是輔、号蘭畝)は僅か十五才で近藤家に入っています。妻佐利の碑文には「生母林氏養父為鼇山養母為林氏即生母林氏之姉妹也尤子養廣井氏之女贅惟徳以配之実養母林氏之甥也」とあり、惟徳も佐伊の甥になると記されていますが、惟徳の父は難波氏、母喜美は周匝の金谷廣右衛門光明娘です。
三郎二忠志(復堂)は明治二年に岡山藩産物掛となり、のち副戸長や村会議長を歴任しました。三郎二は醤油の醸造方法を改良して勧業博覧会で特賞を受けるほどになりました。明治十二年には、同郡郡村(現岡山市郡)の高階弥太郎、同郡北方村の合田俊三らと備前醤油醸造組を創立しました。近藤家の醤油製造石数は明治三十五年に三千五百石を超え、備前の醤油王と云われるまでになりました。備前の醤油醸造は、江戸時代中期には隆盛でしたが、幕末・維新となると粗製乱造で衰退していました。また、三郎二は所有地五十七町歩に及ぶ大地主でもありました。公共事業にも力を尽くし、明治十六年には邑久郡幸島村(現岡山市幸西)の堤防修築のため、自分の所有する粘土を船に積んで無償で運搬提供、明治三十一年には東児高等小学校の新築に私費を投じました。
妻志穂は備中下庄村の難波猶平次の長女で十八才で三郎二のもとに嫁ぎました。夫婦には五男五女がありましたが、三女、四女を除いて皆幼くして亡くなり、三女勇(由宇)に甥の敬次郎を婿養子に迎えて家業を嗣がせています。
敬次郎(号復堂)は分家堅四郎の長男で、三郎二の三女勇の婿養子となって入家しています。若くして興譲館に学び、家業の醤油醸造所を赤マル醤油株式会社と改組、備前醤油醸造組合長、岡山県醤油醸造同業組合長を前後三十五年間務め、醤油の醸造方法を改良して、その範を同業者に示し、私費を投じて研究所を設立しています。
勇は明治二十六年に二十六才の若さで亡くなり、倉敷市中島の白神真平の第三女貞が後妻に迎えられます。白神家も醤油醸造業を行う同業者でしたが、後に醸造株を酒津の「とら醤油」に譲って廃業しました。
敬次郎と貞の間には、長男三之介、次男浩之助、長女茂野の二男一女がありました。
長男三之介は早稲田大学を卒業後、家業を嗣いで備前醤油醸造組合長を務めました。名も敬次郎と改め号復堂も襲名しています。妻千鶴は赤穂の田渕氏で、二男三女がありました。
新中屋雄吉惟徳の次男堅四郎は分家しています(濱近藤)。
堅四郎理定――+――敬次郎 明治31 | 忠志跡嗣 室太田氏 | 室松井氏 +――元徳 ==正雄 ――+――卓之介 | 明治39 岡本氏 | | 室黒瀬氏 +――研三 | 室元徳娘 | 室太田氏 | +――濃婦 | 宮家晋妻 | +――禎三郎 | 分家 | +――久 岡本勝太郎妻
堅四郎理定妻登良は九蟠の太田致敬娘です。二男一女を生んで二十六才の若さで亡くなりました。この人の名は古市家の墓誌を読んでいた時にチェック済みです。即ち、登良の姉が古市岩次郎孝友の妻、岩次郎は尾上則武與四郎勝英の子で、間野文太夫貞秀妻婦喜の実弟です。
堅四郎と登良の長男敬次郎は本家三郎二の跡を嗣ぎ、次男元徳が跡を嗣ぎました。娘濃婦は林村の宮家晋へ嫁いでいます。
堅四郎の後妻末寿野は上道郡才崎父松井槌五郎の長女で、やはり二男一女を生んでいます。一男は幼くして亡くなり、禎三郎と娘久が成長しました。堅四郎の墓誌は備後五十川左武郎の撰文です。
元徳の妻は窪屋郡倉敷村の成羽屋黒瀬道次郎義慶の娘で一女千賀野を生んでいます。黒瀬義慶は下庄難波家から黒瀬家に家女の婿養子として入った人ですから、本家の雄吉惟徳や三郎二妻と血縁の人ではないかと思います。
正雄は広島県松永町岡本氏の四男で、元徳の娘千賀野の婿養子となりました。元徳妹久が松永町の岡本家に嫁いでいますので、甥を婿養子に迎えたようです。正雄は山口高等商業で学び、宗家の祖業醤油醸造に従事しています。千賀野との間に三男がありましたが、千賀野が三十六才で亡くなり、岡山県穂井田村陶の太田善蔵娘満智を後妻に迎えています。
三郎二は娘直に備後福山三好重右衛門の子(母藤井氏)政次郎を婿養子に迎えて分家をさせています。
三郎二忠志――+==政次郎 ――+――幾枝 | 明治37 | | 室忠志娘 +――芳枝 | +==歓之助 ――+――富美 昭和2 | 室忠志娘 +――球一郎 ――暢男 | 平成14 | 室 | +――美都
政次郎は日露戦役で三十三才で戦没、直の後夫として福山市酒造業三好重右衛門四男歓之助が迎えられます。歓之助は政次郎より十二才年長ですから、実兄になると思います。
禎三郎は分家して新濱近藤と称しています。
禎三郎 ――+――富子 昭和32 | 大正10 室秋山氏 | +==清 岸沢氏 昭和22 室禎三郎娘
禎三郎は堅四郎四男で、妻カツヨは広島県甲奴郡上下町の大丸屋秋山幸太郎三女です。清は広島県世羅郡津名町の岸沢丸市三男で、禎三郎次女鈴子の婿養子となっています。
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