佐藤家
児島郡福田古新田村
享保年間に行われた福田新田(後に古新田と改称)干拓の後に同郡林村から移住しています。干拓に携わったのは九郎兵衛穏直ですが、下記の系図でも解るように代々九郎兵衛(クロウベエ)を襲名したようです。穏直は生涯を林村で送った人で、墓碑も戸津田山にあり、古新田佐藤家墓地中央に建てられている穏直の記念碑には頭髪が埋められています。
佐藤家は新田が出来上がった享保十年に直ちに入植したわけではなく、穏直が亡くなった後、子穏之の代に移住しています。延享四年五月の穏直「譲状」には「林村 房右衛門」宛、延享五年の「御年貢米請取通」に「新田 房右衛門、林村里右衛門」とあるので、延享四〜五年頃だと推定できます。
享保十四年閏四月の福田新田宗門帳には、名主小右衛門(生坂村石原茂一兵衛子)ら五戸二十人(男十人、女十0人、牛馬五頭)が記録されていますが、佐藤家の人は出ていません。
上写真はG氏が撮影され、角田直一先生から私に送っていただいたものの1枚です。この写真を戴くまでの経緯を記しておきます。
清水家の系譜を調べはじめた頃、郷里生坂の目黒重一氏からいろいろな話をお聞きしました。児島の郷土史家故角田直一先生の著書「岡山にみる伝承のうそとまこと」
の
「金屏風の伝説」中に
「また生坂村の豪家五三兵衛は、享保九年の福田古新田干拓(二三三町)のとき、児島郡林村の佐藤九郎兵衛を助けて大金を出資した石原氏であると思います」
という記述があることを教えていただきました。
清水家の先祖茂利治貞本が記した先祖の記録の中に、茂利治祖父利八郎の実家石原家に付いて書かれた部分があり、
「其後ニ至此福田新田住居也、西坂ハ断絶也」
という後世の誰かの筆と思われる落書きが気になっていましたので、福田新田=福田古新田ではないか、五三兵衛の実家も西坂石原氏だが、五三兵衛の出資と利八郎実家の新田移住は関係があるのではないかと思い、角田先生に手紙を書いてみました。
「自分はお尋ねの件についてよく勉強していないけれども、林の佐藤家のご当主とは旧知の間柄なので、いつでもご紹介します」
というたいへん嬉しい内容のお返事を戴き、その中に上写真が同封されていました。
古新田というのは、当時はあまり地理感がありませんでした。しかし、写真に映っている背景の山並みとかすかに見える高圧線の中継塔のような建造物を目印に車を走らせていましたら、大きな共同墓地を見つけることが出来ました。石原家と佐藤家の墓地はすぐに判りました。その墓地で、清水家所蔵石原家過去帳に記された戒名に一致する墓碑を見つけた時の興奮は今でも忘れられません。しかも、その横には清水家と同じ「丸に剣酢漿草」を入れた新しい累代墓まで建っていたのです。
九良兵衛穏之――+――女 天明4 | 岩田源濤妻 室小野氏 | +――速津 | 辻季福妻 | +――女 | 片山磯次郎妻 | +――女 | 佐藤寿門妻 | +――周右衛門穏直――+==久郎兵衛猷孝 ――+――方 | 文化14 | 神坂氏 | 神坂清助妻離縁 | 神坂氏 | 嘉永7 | 渡部廣左衛門妻 | | 室穏直長女 | +――知世 | +==保太郎穏栄 ――+――齢太穏常 ――+ | 小野正恭妻 +――幸 | 片山氏 | 明治29 | | 津島彦右衛門妻 | 明治26 | 室片山氏1845 | +――男 | 室猷孝娘 | 室片山氏 | | | | | | +――奴佐 +――久野 | +――近衛1769 三宅光弘妻 | 難波陸太郎妻 | | 三宅家嗣 | | | +――周次郎鎮隆 | +――女 分家 | | 辻重兵衛妻 | | | +――楚勢 | 東原長景妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――信 | 川井令作妻 | +――貞太郎穏経 | 片山家嗣 | +――澄治穏純 ――+==登清則 ――+――実 ――+――毅 | 昭和36 | 畠中氏 | | | 室行本氏 | 平成4 | 室進氏 | 室井上氏 | | 室穏純娘 | | +――真三郎穏寛 | +――保 +――節子 | 四宮家嗣 +――温子 | 令和1 中山光章妻 | | 永山布一妻 | 室三木氏 +――峯 | | 行本吉男妻 +――二女子 +――豊 | | | | +――明子 +――勝 入江正準妻 花房家嗣
古新田佐藤家の系譜に、初代穏寿と記されている人は、戒名歿年月日で対照すると、戸津田山の墓碑には穏直と刻まれています。市史の系譜では、穏寿と妻佐野氏の子は以下の通りです。
・長女 倉敷村大島甚兵衛へ嫁
・次男 文次郎 同村へ別居
・次女 天城村岩田文?養子として来たり後又夫妻倶々天城村へ帰り住む
長男が古新田佐藤家初代であるという意味のようですが、穏之妻(倉敷村小野新右衛門妹)は文化元年に六十八才で亡くなっていますので(1804-68=1736)、穏直との生年差が六十六年、穏直妻佐野氏との生年差が五十四年にもなり、穏之は穏直と佐野氏との長男とは考えにくいと思います。
新田墓地では「穏寿室浅口郡地頭村塚村氏」と刻まれたものが最も古く、登氏は穏寿は穏直三男と云われましたが、穏寿と刻まれた墓碑は新田墓にも戸津田山にもありません。穏寿=穏直で、穏直が晩年に塚村氏との間にもうけた子が穏之とも考えられますが、市史の古新田佐藤家系譜では、塚村氏は穏之初妻となっています。
いずれにしても古新田佐藤家初代は穏之であり、古新田開発に功績があった穏直の子か孫になることは間違いないので、上記の系図は穏之から始めていますが、林の佐藤家の嫡流とも云われます。
穏之妻の実家塚村家は浅口郡地頭村とありますので、地頭上村で庄屋や大庄屋(下役人)を勤めた塚村家だと思います。穏直長女は倉敷村の古禄大島家に嫁いでいますので、また穏之妻の小野家も古禄の小野家の一族だろうと思われます。
穏之夫婦にはたくさんの子がいたようです。佐藤家の系譜は少し判りにくいのですが、林村佐藤氏に嫁いだ娘と爪崎村小野に嫁いだ知世の間に次男とだけ記している箇所があり、周右衛門穏直妻左也(邑久郡尻海村神坂宇平娘)の生年が知世より二年遅いので、系図にある次男が穏直と解釈しました。林村佐藤氏に嫁いだ娘は名が判りませんが、戸津田の墓地に「佐藤加利治寿門室福田新田佐藤氏女」という墓碑があって、生年を計算すると左也より六才ほど年長になります。なお、市史系譜には「佐藤嘉利妻」となっています。
市史系譜には「近衛(穏直三男)下道郡有井村三宅和市養子」とありますが、三宅家の墓碑文から辿ると、和左衛門良の妻曽衛の後夫として入家していることが判りました。
久郎兵衛猷孝は上道郡西大寺村の神坂真木兵衛頼記孫で、穏直娘民の婿養子として入っています。民には他に幸という姉妹があり、上道郡中島村の津島彦右衛門へ嫁いでいます。市史系譜には他に方(かた)という娘が邑久郡尻海村神坂清助に嫁ぎ、故有って復籍したと書いてあります。しかし、新田墓に「方(かた)猷孝長女 浅口郡六条院東村渡邉廣左衛門妻」という墓碑があるので、方(かた)は民の妹でなく娘であることが判ります。
保太郎穏栄は都宇郡高須賀村の片山磯次郎三男で、猷孝娘照の婿養子として入っています。穏栄は猷孝の甥になり、穏栄夫婦はいとこ同士になっています。
照の生年と方(かた)の生年が同じになるので、双子になるのかも知れません。母民との生年差はわずか十五年です。
市史系譜にはありませんが、酒津村の庄屋三宅治郎助光弘の妻が「奴佐 佐藤猷孝娘文久二年 歿年五十一」となっていて、照より五才年下になります。他にも、齢太穏常の弟周次郎鎮隆が分家したこと、穏常の娘信が宇野津村の川井令作へ嫁いだことなどが市史掲載系譜からもれています。
ここで時代をさかのぼりますが、窪屋郡西郡村宿の守安三右衛門盛栄妻が「福田新田佐藤氏 文政五年 歿年七十五」となっています。生年を計算すると、穏之室よりも十三年後で、浅口郡下竹村辻半十郎へ嫁いだ速津より十一年前に生まれています。穏之の妹とも娘とも考えにくいのですが、当時の守安家と縁組みをする福田新田佐藤家としては他に考えられません。新田に分家があったのかも知れません。
齢太穏常は阪谷朗廬に師事し、文久二年より里正を勤めています。都宇郡早高村片山孝太郎延壽次女観を妻に迎え、一男二女をもうけていますが、観が三十三才の若さでなくなり、尾原村の大西家片山平八次女近を後妻に迎えています。近との間に二男一女をもうけて、跡は次男澄治穏純が嗣いでいます。観が産んだ長男貞太郎穏経は実母の実家を嗣いでいます。
澄治穏純も妻艶野は赤磐郡熊山町殿谷行本静太姉、登は上道郡角山村内ヶ原の畠中類次郎三男で、澄治長女順子の婿養子として入っています。
順子の妹は福山市鞆町の入江家に嫁ぎ、その娘婿は植田吾一の四男耕司です。
N妻は真庭郡湯原町禾津字三家の進庚子郎成和の娘です。Tは古新田干拓の二大功労者である佐藤九郎兵衛穏直、石原茂一兵衛義芬の血を引くことになります。
分家の流れは下記のようになります。
周次郎鎮隆 ――+――秀太 ――+――千里 大正11 | 昭和8 | 大正14 室大島氏 | 室馬越氏 | | +==孝三 +――隆治鎮信 田邊氏 | 明治34 昭和55 | 室馬越氏 +――正夫 馬越家嗣
周次郎鎮隆は保太郎穏栄の次男で、明治七年に分家しています。穏栄の実家片山家が絶えたので、その祭祀を嗣いでいます。妻多満は浅口郡富田村道越西要害の大島晋造の娘で、明治六年に入嫁、三男をもうけています。長男秀太が家を嗣ぎ、次男隆治は岡山県師範学校在学中に二十才で早世、三男正夫が馬越家を嗣ぎました。正夫の墓誌に「佐藤周次郎次男九郎兵衛六世孫」とあり、九良兵衛穏之を初代として数えていることが判ります。周次郎は明治十三年に村務用掛、郵便局長、村会議員、郡会議員などを歴任しています。
秀太妻志加乃は馬越大成長女で、明治三十七年に入嫁、一女千里は岡山高等女学校を出て十九才で亡くなりましたので、弟馬越正夫の長女滋子を養女にしています。滋子には広島県甲奴郡上下町の田邊信吉四男孝三が養子に迎えられています。
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