馬越家
後月郡木之子村
馬越家の祖先は四国の豪族河野氏です。河野氏は伊予(愛媛県)の王越智氏の一流です。越智は「おち」と読みます。夏目漱石の「吾輩は猫である」に越智東風(おち こち)という人が登場します。漱石は江戸っ子ですが、伊予松山中学で教鞭を執ったことがあるので、こんな変わった姓を知っていたのでしょう。
河野氏は、鎌倉、南北朝、戦国時代と、歴史上活躍をしていますが、その一族、伊予国越智郡馬越村(今治市)の城主であった河野弥兵衛尉通元が、長曽我部軍の侵攻をうけ、慶長年間に備中国後月郡木之子村に移り住んだのが始まりと云われます。その時から「馬越氏」と改姓しています。
江戸時代に入ると帰農しましたが、その所有地は一時は隣の東江原村まで余所の土地を踏まずに行けると云うほどのものでした。しかし、六世の三郎右衛門正常(明和三=1766年歿)の頃には、所有していた山林田地の多くは人手に渡りました。
恭平翁傳の系図に拠れば、通元の跡を継いだのは三郎左衛門正重ですが、正重には太郎兵衛吉次という兄がいて、和泉國信田住小出氏を妻として八十四才まで長寿を保っています。妻の実家がかなり遠方なので、分家でもしたのかも知れません。
正重とその嫡子又左衛門正吉夫婦の墓碑は後月郡西江原村の法泉寺にあります。木之子村三光寺にある正重夫婦の墓碑は、「弘化二乙巳年 晩孫通潔誌」とあり、六代後の通潔が再建した記念碑であることが判ります。そうすると、木之子村馬越氏の檀那寺は元々法泉寺であることが解り、法泉寺との位置関係からみても河野弥兵衛尉通元が最初に移り住んだのは木之子村ではなく東江原村祝部ではないかと思います。
正重は伊予で生まれ親と共に備中に移り住みました。そこで西江原村難波長右衛門正辰の娘満津を妻に迎え、五男二女をもうけています。
正重の妹は備中国賀陽郡美袋村(総社市美袋)の田邉弥三右衛門に嫁ぎ、弟重郎右衛門は同郡東江原村に分家して録屋と称します。他に善右衛門という弟があり、この人は小田郡新賀村津島傳兵衛姉を妻としています。
「馬越恭平翁傳(昭和十年発行)」巻末系図には、田邉家に嫁いだ人の戒名は不詳と書いてありますが、田邉家(清水多喜野母の実家)のお墓を調べると、歇山妙休大姉と彫ってあります。そもそもこの家の系図に興味をもったのは、ビール王馬越恭平について聞き、恭平翁の伝記を図書館で開いたのが始まりですが、「馬越恭平翁傳」巻末系図に、美袋田邉家の墓地で確認していた人を見つけてから次第に深入りして調べるようになりました。
正重の跡は嫡男又左衛門正吉が継ぎました。妻世幾は備後鞆津篠原八郎右衛門娘です。
正吉の弟六郎右衛門吉也は小田郡吉田村に、吉左衛門正長は小田郡甲弩村にそれぞれ分家しています。正重の代に家産が大きく膨らんだことがうかがえます。
正吉の妹小玉(銀)は小田郡小田村(矢掛町小田)の大富豪真安小左衛門正也の妻に、弟又五郎政也は難波長兵衛(母の実家)、與右衛門は録屋の養子となっています。
正吉の跡は嫡男三郎左衛門正意が継ぎますが、正意が三十三才で死去したため、弟の又左衛門正直が相続しています。正意の妻は小田郡笠岡町の豊後屋高津彦右衛門娘で、正直の妻曽免は享保十年に亡くなっていますが、その出所は不明です。
正直の姉琴(後改金)は浅口郡大谷村新田の中島傳七郎嘉行の妻となり、妹須天は賀陽郡美袋村の田邉安右衛門宗繁に、同蝶は小田郡小田村真安治郎左衛門に嫁いだと記録されています。真安家の系図に拠れば、小田村熊の真安本家宗右衛門重家の子に「治郎右衛門重吉 妾腹分家」という人がありますが、該当墓碑を同定できていません。大谷新田の中島家と田邉家は重縁があります。
弟四郎兵衛正矩は小田郡走出村に分家し、享保五年に五十四才で亡くなっています。妻喜曽は浅口郡爪崎村大森傳右衛門元光の娘です。この夫婦の墓碑は三光寺にありますが、その後この分家がどうなったのか走出を歩いてみましたが墓地は見つかりませんでした。
正直の跡は次男又左衛門倫意が継ぎました。倫意妻加免は小田郡笠岡町亀川又左衛門の娘です。
倫意のあとは倫意の三女奈加に迎えられた婿養子元長が継ぎました。次男品右衛門政方、三男喜兵衛政芳が相次いで西江原村難波常十郎(即ち、姉美津の嫁ぎ先)の養子となっていますので、変則的な相続になっています。
元長矩中は系図に「備中国小田郡新本村上田氏之子」となっていますが、小田郡内に新本村はないので、下道郡の間違いではないかと思いますし、もしそうならば上田氏は田上氏の誤記かも知れません。田上氏は橋本家と重縁がある家で、家の格式からみてもあり得る縁組みだと考えられます。
倫意の次女美津は西江原村難波常十郎へ、四女秀は福山阿部候家臣鼓家に嫁いで泰安を生んでいます。
久悦 ――+――太郎兵衛吉次 寛永13 | 延宝1 室 | 室小出氏 | +――三郎左衛門正重――+――又左衛門正吉 ――+――琴 | 寛文12 | 延宝7 | 中島嘉行妻 | 室難波氏 | 室篠原氏 | | | +――三郎左衛門正意 +――善右衛門 +――六郎右衛門吉也 | 元禄6 | 元禄5 | 吉田村分家 | 室高津氏 | 室津島氏 | 延宝4 | | | +――又左衛門正直 ――+――又左衛門倫意 ――+ +――女 +――小玉 | 享保15 | 明和2 | | 田邉宗悟妻 | 真安正也妻 | 室 | 室亀川氏 | | | | | | +――重郎右衛門 +――又五郎政也 +――蝶 +――三郎左衛門正常 | 分家録屋 | 難波家嗣 | 真安重吉妻 明和3 | | | | +――吉左衛門正長 +――四郎兵衛正矩 | | 甲弩村分家 | 走出村分家 | | 室東氏 | 享保5 | | | 室大森氏 | +――與右衛門 | | 録屋嗣 +――須天 | | 田邉宗繁妻 | | | +――藤吉郎正則 | 享保6 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――美津 | 難波常十郎妻 | +――品右衛門政方 | 難波家嗣 | +――喜兵衛政芳 | 難波家嗣 | +==元長矩中 ==元貞通永――+――元孝 | 上田氏 馬越氏 | 天保4 | 天明5 文政10 | | 室倫意3女 室山口氏 +――叟二 | 室渡部氏 | 伊藤家嗣 +――秀 | 後復本姓称河野 | 鼓泰安母 | | +==元壽通潔――+==元泉通元 ――+――元育 +――泰蔵 馬越氏 | 窪氏 | 分家称河野 安永7 元治1 | 明治11 | 明治28 室三宅氏 | 室通潔娘 | 室槇氏 | | +――美須 +――恭平 ――+――徳太郎 | 守屋世敬妻 | 昭和8 | 大正3 | | 室蔵納氏 | +――郡右衛門 | +――幸次郎 ――+ 足助家嗣 | 昭和10 | | 室田中氏 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | +――浅 | | 松阪義太郎妻 | | | +――章造 | | 窪家嗣 | | | +――茂 | | 永井敬介妻 | | | +――頼 | 中島維三郎妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――恭一 | +――順二 | +――謹参 | +――慎思 | +――轄五 | +――泰禄 | +――菅子 大橋達雄妻
元長夫婦には子が出来なかったので、吉田村の分家木之子屋から元貞が入りました。妻琴は岡田候臣山口曹右衛門娘で元長の姪です。後妻は木之子村渡部氏です。元長の実家と岡田藩山口家との縁からも、元長の実家が新本村田上家であることが疑われます。
元貞の多くの子も次々に夭死し、成人しているのは四男元孝、五男叟二だけですが、共に跡を嗣がず、叟二は伊藤家を嗣いだ後に本姓に復し更に河野氏を称します。
元貞の跡は甥の元壽(木之子屋)が継ぎます。妻佐登は浅口郡大江村三宅八郎左衛門娘とあります。八郎左衛門は六郎左衛門の誤伝でしょうか、三宅六郎右衛門方孝の姉妹くらいで年代がうまく合いそうです。
元壽のあとは次女古尾に迎えた婿養子の元泉が相続しました。元泉通元は成羽家臣窪順平連洲の長男です。
元壽三女美須は浅口郡西阿知村西原守屋保三郎世敬へ嫁ぎ、元壽男子見三は川上郡手荘村足助家を嗣いで、忠左衛門後に郡右衛門と改めています。大正三年に八十三才で亡くなっています。姉の古尾とは十才ほど離れていますから、婿養子元泉が家督を継ぐことになったのかも知れません。
元泉の嫡男元育は河野氏を名乗って分家しています。妻錦は幕府旗本槇正光の次女です。
元泉のあとは次男恭平が継いでいます。妻喜久子は和泉國岸和田の蔵納半右衛門長女です。
恭平は大日本麦酒株式会社の社長、帝国銀行頭取など、数十種の役職団体に関係し、我が国経済界で重きをなした人です。総理大臣を勤めた橋本龍太郎の祖父卯太郎は、総社市秦の出身で、大日本麦酒の恵比須工場長、常務取締役を勤めています。
恭平妹浅は安芸國賀茂郡竹原町の松阪義太郎へ、清(後改茂)は安芸國賀茂郡竹原町永井敬介へ、京(後改頼)は同村の笠原家へ嫁いだあと復籍し、後に備前国児島郡天城町の中島維三郎へ再縁しています。
馬越家墓地に安芸竹原町松阪*(土扁に烏)之季子郁四郎(大正九年歿三十七才)という墓があり、これは浅の子です。
恭平弟大三郎(後改章造)は祖父の実家窪家を嗣いでいます。妻喜代は信州松本市の高山基重妹です。
幸次郎の妻泰子は京都の田中四郎左衛門娘です。
ホームページへ