平松(平木)家
窪屋郡二日市村
都窪郡早島町の大森家の系図の初めに平松氏というのが度々出てくるので調べてみたいと思っていましたが、倉敷市加須山の尾崎家と重縁があることが判ったので墓地を訪ねてみました。
六郎右衛門盛政――六郎右衛門盛道――六郎右衛門盛正――+――九郎右衛門盛継――+==七太夫永盛――+ 寛永7 | 天和1 | 小野氏 | 室尾崎氏 | | 享保15 | +――与市兵衛 分家 | 室原田氏 | | | +――六郎右衛門 | 分家古屋敷 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==萬右衛門與隆――+==常右衛門寿円――+==文吾能続 分家 | 小野氏 | 小野氏 | 景山氏 | 元文3 | 宝暦13 | 寛政4 | 室家女 | 室家女 | 室家女 | | | | +――女 +――善之丞 分家 +――又七 分家 | 江田房長妻 | | | +――萬右衛門蘭阜――+――曽根松 +――七太夫 分家 +==紹助 分家 | 文化2 | 元文3 | 室紹助娘 +――女 今田家嫁 室家女 | +==萬右衛門陳贇――+――紹右衛門季盛――萬右衛門與治――+ 紹助子 | 文化7 嘉永5 | 文化9 | 室水澤氏 | 室小倉氏 +――冬輔與盛 | 室景山氏 文化10 | 室水澤氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 平木 +――六郎尚隆――千二 ==隆 明治12 昭和9 昭和60 室 室小原氏 室
盛政の妻は忍といい、加須山尾崎盛則の姉です。元和8年に亡くなり、法名を慶玉院妙忍禅定尼といいます。その子の盛継(盛次)が日蓮宗妙忍寺を建立したそうです。
上記の大森頼忠氏の記述とうまく符合しませんが、年代的には大森安元妻は平松盛正とほぼ同世代になるようですから、安元妻は平松盛道、あるいはその親の盛政の娘かと思います。盛政、盛正、盛昌、いずれもモリマサと読まれること、「妙任寺を一建立した家から嫁いで来た→妙任寺を一建立した人の娘だった」というように間違った言い伝えになったということが両家の系譜が符合していない原因ではないかと思います。
ただ、大森家2代安忠の妻が平松六郎右衛門娘、3代与三右衛門安実の妻が平松九郎右衛門娘、4代与次右衛門実忠妻が平松氏など、早島大森家と平松家には重縁があり、大森家には平松家の遺伝子が流れていることは間違いないようです。
永盛(世隆)は倉敷村小野氏、妻は倉敷村播磨屋原田氏です。
興隆も倉敷村小野家からの養子とも大坂伏見町惣年寄川崎家から来たとも云われます。
興隆の次女は備前岡山久見屋江田家に嫁ぎ、3女は玉島村讃岐屋から養子を迎えて分家しています。この娘が8代蘭阜の妻で、息子が9代を嗣ぐ陳贇(秀次郎)です。
寿円の長女坂は作州勝山千種屋景山家から養子を迎えて分家しています。陳贇の後妻も同じ家から来ているようです。
冬輔の妻は倉敷村の松屋水澤氏、夫が若くして亡くなったので実家に戻り、後に備前岡山灰屋河本家に嫁いでいます。
与市兵衛――七郎右衛門――政右衛門盛純――酉吉 宝永4 寛延1 六郎右衛門――+――彌三兵衛――金右衛門――百助(庄右衛門) 分家古屋敷 | +――是吉――――九郎右衛門――槌三郎(惣右衛門) | 十ノ割分家 | +――甚左衛門――彌平吉 又七――右平――孫之進(絶家) 分家前屋敷 七太夫――安之進 後新介(絶家)
「笠岡生長直治良泰道、嘉永4年歿、享年60
妻作州か津山木村氏娘、慶応2年歿、享年73」
という墓碑があります。この夫婦の墓碑がどうしてここにあるのか判りませんが、加須山の尾崎家にこの夫婦の次女幾という人が嫁いでいるということは判っています。
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