国富家・塩涌屋
岡山城下紙屋町
岡山城下、幕末期の豪商筆頭に挙げられる家で、倉敷で云うと新禄の代表のような家です。先祖は浦上家臣、国富村比丘尼山城主国富左京進頼敦、この八代の後裔が宇喜多直家に八百石で仕えた源左衛門頼資、関ヶ原の戦の後に帰農しました。
戦国の小領主の子孫が江戸時代になって帰農、その子孫が江戸中期に岡山城下に移住して成功しました。
間野與平克明の孫君子が、晩年、国富友次郎に嫁いだことは先祖の調査を始める前から聞いていました。
與平は岡山の銘菓「調布」の創作者で、蛤御門の変で焼け出され京都から戻った後、故郷の備中生坂村(倉敷市生坂)には住まず、岡山西大寺町に「金華堂」という茶器等を商う店を開いていました。「金華堂」は一代で、その後は現在の「翁軒」に調布の製法と共に譲りました。
克明には里という娘が一人だけあり、これに養子陽三郎を迎えています。陽三郎との間に出来た春治が家督相続をして、後に京都、東京方面で活躍することになりますが、陽三郎が離縁復籍した後に迎えられた養子兵三郎との間に出来たのが君子です。
兵三郎夫婦と一人娘の君子は分産別家をしてそのまま西大寺町に住んでいたようです。この一家の消息を知っているお年寄りから又聞きした話では、母と娘は西大寺町で郵便局をしていて、母娘共にとてもきれいな人だったそうです。
君子は養子を迎えて間野分家を続けずに倉敷の中島屋大橋家に嫁ぎました。夫康之助は明治四十四年に三十六才の若さで亡くなりましたので、君子は三十を前に寡婦となり離縁復姓しました。その後間もなく、大正五年には父兵三郎も亡くなったので、母娘だけの生活となったのでしょう。母の里がいつ頃亡くなったのかは不明ですが、おそらく戦前でしょうか。岡山は大空襲にやられましたので、戦後、君子は東中島屋大橋家の門長屋で暮らしました。その頃から生坂へは度々訪れるようになり、清水多喜野とは親しく付き合いが続きました。
紙屋町と西大寺町は近所ですから、国富家と間野家はよく判った間柄だったのでしょう。しかも、與平の姉が船着町の河本家に嫁ぎ、妻も同家から迎えられているので、国富家は間野家をよく理解していたと思います。
墓地(上写真)には、古い墓地が遠くて祀ることが出来ないのでここに碑を建てたという注記を刻んだ「先祖累世之墓 直乗建」という供養塔がありますが、安永七年に死去している直忠の出所などは記されていませんので、その先は不明です。妻紋は羽原氏、磐梨郡鍛冶屋村の人とあります。
二代源次郎直方は生魚問屋、銭屋を営み、紙屋町名主を勤めました。富田町の出店(弟荘五郎益之の立てた分家)は質屋をしていました。藩への融資は寛政の頃には銀十貫目でしたが、文化九年には銀三百貫目(約二億五千万円)を献金しています。このためか、翌十年には別改扶持人、用達などを飛び越えてえて惣年寄格用達となり、三十人扶持を給されました。国富家の「奉公書」には、すでに別改の格をもらっていたと記されていますが、藩側の「切米帳」という資料には「平町人より、かくの如く用達も仰せ付けられ」とあり、異例の出世であったようです。
三代源次郎は惣年寄(市長)を勤めました。本家が寛政三(1791)年から明治元(1868)年までに藩に永納した銀は四百四十貫目、差し上げ銀三百数十貫目、銀札約十八貫目、長期貸し付け銀約千七十貫目、金千百両、短期は平均銀五十貫目、多いときで百貫目を三十数回にわたって融資しています。ほかに融通方御預けというのが金千百両ありました。
分家は、銀約三百貫目を差し上げ、長期貸し付け銀五十貫目、融通方御預け金五百五十両もありました。本家の安政二(1855)年正月の惣年寄の役料を除く扶持高は三十三人扶持で、塩屋武田家に次いで第二位、永納銀による見返り米は八百七十五俵で筆頭でした。明治元年当時国富本家は惣年寄格筆頭、分家は同次席で、同年、士分となっています(「近世岡山町人の研究(片山新助著)」より)。
源次郎直忠――+――源次郎直方――+==某 安永7 | 天保5 | 伴氏 室羽原氏 | 室福田氏 | 室直方娘 | | +――荘五郎益之 +==久之介 分家 | 益之子 | 文化14 | +==源次郎直乗――+――源次郎直温==大三郎直亮==友次郎 ――+ 栗原氏 | 明治2 富島氏 高戸氏 | 慶應1 | 室高戸氏 明治43 昭和28 | 室百代 | 室益枝 室直亮娘 | +――庄太郎直寛 室間野氏 | | 益之跡嗣 | | | +――茂登 | 勝間藤輔妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――粳 | 麻生亮蔵妻 | +――英寛 ――+――興一 ――+――女 | 昭和38 | 平成2 | | 室石原氏 | 室服部氏 +――女 | | | 中塚家へ | | | | | +――女 | | | | | +――男 | | 室牧氏? | | | +――由紀子 | | 芳我大輔妻 | | | +――美佐子 | | 苅田善政妻 | | | +――卓也 | | 室石原氏 | | | +――正名 | | 室田中氏 | | | +――友和 | | 室井手氏 | | | +――千早 | 滝本和男妻 | +――忠寛 ――+――晃 | 室田上氏 | 室岩瀬氏 | | | +――迪子 | | 大井孝妻 | | | +――博 | | 室木村氏 | | | +――勲 | | 室伊藤氏 | | | +――進 | 室小松原氏 | +――正勝 | 徳永家嗣 | +――郁夫 | 山本家嗣 | +――佳寿郎 ――+――靖彦 室大森氏 | 室尾崎氏 | +――佐和子 | +――庸子 田中正生妻
二代直方の妻逸は福田氏としか書いてありませんが、実はこの国富家の墓地に隣接してたいへん古い墓碑を並べた紙屋町の福田家の墓地があります。
私のことですから、これだけの墓地を見つけてそのままにしておくわけがありません。
紙屋町の福田というと御津町野々口の大村家の縁戚として把握していた家ですので、後日改めて総ざらいに出かけることになりました。おそらく、国富家はこの福田家を頼って城下に移住したのではないかと思います。
直方夫婦には娘一人しかありませんでしたので、これに養子を迎えますが、娘の方が早世してしまいます。そのため、弟荘五郎の長男久之介を跡継にします。しかし、この久之介も京都遊学中に十九才で亡くなってしまいました。遂に、弟荘五郎の長女とその養子直乗(新荘村栗原官蔵の長男)が夫婦養子として本家を相続することになりました。
四代直温の妻美枝は浅口郡鴨方村の高戸綱八公綱の長女です。この代から高戸家(いわゆる郵便高戸)、及びその関係親族の複雑な縁組みが始まっています。直温夫婦の二男子もともに幼くして亡くなりましたので、分家の跡を継いだ弟庄太郎直寛の長女益枝を養女とし、備後国御調郡富濱村(尾道市)の富島常平の子大三郎を婿養子にして跡を継がせています。歴史は繰り返されるようです。
大三郎直亮の娘精美に婿養子として鴨方高戸家から迎えられたのが友次郎です。明治二十三(1890)年岡山県尋常師範学校を卒業し、県下各地の小学校の訓導や校長を歴任しました。明治三十四(1901)年に退職し、翌年、岡山市会議員に当選、以来四期在職して議長まで務めています。この間、明治三十七(1904)年には岡山実科女学校(後の就実高等学校)創設に参加して校長となりました。昭和十五(1940)年に校長を辞して、岡山市長に就任、昭和十九(1944年)九月まで戦時下の市政を担いました。
長男英寛は大和銀行常務取締役、二男忠寛は横浜市水道局長を勤めています。四男郁夫は山本家を継ぎましたが、第一岡山中学校、第六高等学校を経て昭和八(1933)年に東京帝国大学医学部を卒業、専門は微生物学で、前橋医学専門学校、群馬大学医学部の教授を務めたのち、昭和三十(1955)年に東京大学医学部教授となりました。同大学伝染病研究所長、同医科学研究所長を兼任。昭和四十八(1973年)退官して杏林大学医学部長、翌年学長に就任しました。
荘五郎益之の後は次のようになります。
荘五郎益之――+――久之介 ==庄太郎直寛――+――益枝 天保2 | 直方後嗣 明治23 | 直温後嗣 室高取氏 | 室高戸氏 | 室栗原氏 +――百代 +――直之 直方後嗣 | +――峰三郎直学――源之助 ==稜平恂 ――+ 明治24 昭和13 土屋氏 | 室高戸氏 室佐藤氏 昭和60 | 室源之助娘 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――久代 | 石原忠妻 | +――安子 | 苅田与妻 | +――橿雄 室牧氏
益之の実子は共に本家の相続人となり跡が絶えましたので、その後、本家の孫庄太郎直寛が再興したようです。
分家三代直学は兄直之が多病のため家督を継いでいます。四男四女があり源之助が跡を継いでいます。
五代稜平恂は福山市手城町の土屋秀太郎の子です。
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