中西家
小田郡矢掛村
南北朝時代の初期に瀬戸内海の海賊を統一した村上義弘以前を前期村上水軍といい、これは源平合戦においても越智水軍と共に源氏に味方して屋島、壇ノ浦と勇戦しています。鎌倉時代の元寇の時には河野通有一族と協力して防戦しています。室町時代に中国大陸沿岸を荒らした和冦もこの海の武力集団が大きく関与しています。
源 清和天皇――陽成天皇――貞純親王――経基王――満仲――頼光――頼信――頼義――+ | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――義家 | | 村上 +――頼清――仲宗――顕清――為国――定国――清長――+――頼遠――女 頼久妻 | +――頼冬==頼久―――+ 河野氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――頼泰――頼員――義弘――+――女 北畠師清妻 | +――女 村上吉豊妻?
南朝北畠親房の子顕家が戦死したあと、その子師清を村上義弘の娘の婿養子として水軍後継者としました。これ以降の水軍を後期村上水軍といいます。義弘のもう一人の娘は一族の因島村上氏に嫁いだそうです。
源 北畠 村上天皇――具平親王――師房――顕房――雅房――定房――通清――通方――雅家――+ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 村上 +――師重――親房――顕家――師清――+――義顕――雅房――隆勝――+――義雅 | | +――顕忠 +――義忠――武吉 | | +――顕長 +――隆重――+ | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――景広――+――景則 | 中西 +――景武――藤左衛門範国
師清の長男義顕は山城守を名乗って能島城主に、次の顕忠は出雲守を名乗って来島城主に、3男顕長は備中守吉豊と称して因島青影城主になっています。応仁の乱後、雅房、隆勝父子は足利義稙の救援要請に応じて活躍しています。隆勝の3男隆重は、備後、備中の沿岸の領主を次々に攻撃して領土を拡げて行きました。天文8年には笠岡の陶山氏を攻め、笠岡古城山に築城、更に北上して小田政清(真安家のページを参照)を攻めています。この時、小田氏は猿掛城主庄氏、高越城主伊勢氏(塚村家のページを参照)に救援を求め、水軍を撃退しています。水軍に追われた陶山氏は玉島から高梁川を北上して川沿いのいくつかの土地に定住したようです(例:倉敷市玉島長尾の田邉氏、総社市美袋の田邉氏)。
毛利元就が陶晴賢を破った厳島合戦では、村上水軍は武吉のもとに結束して毛利氏のために戦い、その後、織田信長の石山本願寺攻めの時にも毛利氏の先鋒として、織田軍の囲みを破って大量の兵糧米を輸送しています。秀吉の時代になると、3島(能島、来島、因島)村上氏は団結を失い分裂、瀬戸内海の水軍は弱体化して行きました。笠岡城主景武は芸州音戸浦(音戸大橋のあるところ)に所替えとなり、その子範国は母方の姓中西をもって、中西藤左衛門範国と名乗り、備前岡山宇喜多秀家に仕えました。
藤左衛門範国――+――又右衛門 | 分家 | 分家小川屋 +――藤左衛門正学――+――助右衛門範忠 | | 分家西亀屋 +――藤左衛門正近――+――江里喜 | 室 | 室 | | | 分家東亀屋 | +――治良兵衛 +――藤左衛門武保――+――女 | | 室 | 某長左衛門妻 +――女 | | | 九郎兵衛妻 +――十兵衛 +――藤九郎武雅 ――+ | 室 | 正徳1 | +――女 | 室丸川氏 | | 市左衛門妻 | | | +――藤重郎 | +――女 | 室庄三郎娘 | | | +――女 | 某甚左衛門妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==藤四郎雅治――茂一右衛門武矩――+――・ ――+――・ | 真安氏 安永3 | | | 室武雅長女 室 | | | +――女 +――・ ==彦四郎克寛――+ +――女 | 茂道男 | | 岡本行寛妻 | 明治17 | | +――仁平 室三宅氏 | +==登右衛門 玉置家嗣 | 鞭木氏 | 享保15 | 室武雅三女 | 室林氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――金左衛門 | +――栄 石原土太妻
武保の弟治郎兵衛の子孫は東江原村の庄屋田中家に嫁いでいます。井原市の彫刻家として有名な平櫛田中翁は、この田中家から出て平櫛家を嗣いだ人です。
藤九郎武雅の妻丸川氏は宝永3年に亡くなり、墓碑は矢掛の観音寺にあります。墓碑には西阿知村丸川源太夫娘と彫られています。この人は清水彌右衛門貞直の姪になります。
なお、この家には登右衛門と名乗った人が何人かいます。おまけに、崩し文字の登を愛と読み違えてか、愛右衛門という人まで捏造されてたいへん複雑な系譜になっています。都宇郡早島村の庄屋大森家にもこの登右衛門娘が嫁いでいるようです(文政1年歿)。
藤左衛門範国の母は、浅口郡連島村(倉敷市)の中西家の出ですが、この中西家は南北朝時代から仙台城主伊達氏に仕えていましたが、文明年中に浪人して美作国にやってきたようです。その後、毛利氏、宇喜多家に仕えて、慶長年中に浪人したとあります。
小川屋 称茶屋 助右衛門範忠――+――七郎右衛門武弘――助七郎忠弘――+――藤七 ――+――半助 ――源兵衛致義――+ | | 寛保3 | 寛政8 文政10 | +――助右衛門 | 室 | 室天野氏 室平井氏 | | | | | +――亦兵衛 | 小田分家 +――里 | +――三郎兵衛 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――女 | 江口量方妻 | +――八十七茂道 ――彦四郎克寛 | 安政2 本家嗣 | 室中西氏 | +――みね | 岡周次良妻 | +――友 | +――女 石井秀助妻
小川屋のあとは上のようになります。源兵衛致義は大通寺の石庭を造った人として知られています。この人は90歳の長寿を保った人ですが、この作庭には55歳から76歳にわたる21年もの歳月をかけています。その妻は東江原村の平井六左衛門の娘で、この平井家は高越城主伊勢家の城代家老を勤めた家で、江戸時代は代々東江原村庄屋を勤めています。また、その子八十七は庄屋、大庄屋を勤めて地方政治に貢献する一方、教育家としても知られています。
忠弘の子三郎兵衛は小田に住んで小田中西の祖となりました。
花房屋 三郎兵衛――+――仙治郎 ――仙治郎 ――+――豊蔵 ――友太郎 ==亀平 ――完治 享保13 | 寛政3 文政2 | 明治3 明治28 木山氏 昭和57 室 | 室 室鳥越氏 | 室大山氏 室高橋氏 昭和24 室 | 室三村氏 | 室友太郎次女 室 | | | 栄屋 +――亀右衛門 +――亀右衛門 | 丹下家嗣 | | | 薬師屋 +――虎 +――富之助 | 吉岡義知妻 | +――加野 | 名越義知妻 | +――女 | 平井家へ嫁 | +――女 | 長谷川家へ嫁 | +――女 浅野家へ嫁
わたしがこの家に興味を持ったのは清水家に伝わる古文書に中西藤九郎という名を見つけたのが始まりです。この人がどこに住んだ人だったのかも最初は全く判りませんでしたが、真安家や石井家の調査をしながら目を通していた小田郡誌に、矢掛村元禄11年の庄屋として藤九郎が挙げられていることを知りました。
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