木村家都宇郡西田村

木村家
都宇郡西田村





清水(江戸時代には間野姓)家にはいくつかの過去帳があります。その一つの中に
「**沌澄居士、延享二年、享年七十九、木村甚左衛門」
「**妙吟信女、享保二十年、享年六十、八木小平冶妻、木村才右衛門娘」
という記録があります。この過去帳は十五日以前は切れて無くなっています。
私家の過去帳ですから、他姓の人は嫁や養子に出た人とか、清水家に嫁いだり養子で入った人の実父母などのようです。
この木村家と清水家の関係を知りたい、出来れば甚左衛門の墓碑を見つけて、ご子孫の消息を知りたいということから調査を始めました。
両者の年齢差は九歳ですから、

才右衛門――+――甚左衛門
室間野氏  |
      +――女
         八木小平冶妻

となり、才右衛門妻が間野氏となって、才右衛門夫婦の歿日が十五日以前になるのではないかと想像しました。

生坂間野家の過去帳に記された大島村(倉敷市大島)間野家(分家筋)の初代の妻
「元文五年歿、**智性、後の間野多左衛門室木村氏」
という記録や、同じく生坂間野家の分家で倉敷市史に先祖書を提供した間野尚明氏先祖の墓碑に
「安永二年歿、**貞紅信女、木村氏」
というものが見つかっていよいよ気になりだしました。

船穂町船穂の小野家に保存された親類書に、倉敷市平田山田家の略系図があり、山田平八という人が中島村木村義兵衛の娘婿養子になったという記録を見つけました。
船穂近辺で中島村というと今では倉敷市中島のことと思いますが、現在の中島は江戸時代には中洲村中島で、備中国中島村は現在の倉敷市中庄の小字地域のことでした。現在でもこの付近には木村姓が多く、特に字中島の中心になる百舌鳥ヶ鼻(もずがはな)という丘陵部は鼻生坂(阿知ヶ鼻)から直線的に見通しの利く場所で、両地の家々が縁戚関係を結ぶことはごく自然です。

都窪郡誌によると、中島村庄屋は寛文から正徳享保頃まで木村氏(太兵衛、與左衛門、多八郎)が勤めています。中庄字中田(中田村)庄屋は寛文から明治まで一時期を除いて木村氏(惣右衛門、兵右衛門、文助、四郎兵衛、源次兵衛、文助、宗右衛門、宗太郎)が勤めています。

生坂神社の棟札、明治三年の生坂村宗門帳、幕末の生坂村寺子屋教師名の中にも木村姓を見つけたのですが、現在の生坂にはそれらしい家が全くありません。これをたいへん不思議に思いながらも手がかりがないのでそのままになっていました。
しかしその後、平田村庄屋難波家の分家が黒崎村に屋敷を構えて庄屋を勤めていながら、その墓地は江戸時代を通じて平田村にあったということを知りました。そこで、生坂木村家も中庄から分家したので、墓地も中庄にあるのではないか、生坂木村家が過去帳の木村甚左衛門、才右衛門などの謎解きの鍵になっているのではないかと考えました。

とにかく中庄の木村家墓地を調べなくてはいけないと思ったので、住宅地図で木村姓の家とその周辺墓地をチェックして、平成四年十一月に中庄字中島地区を歩いてみました。共同墓地にはかなり古い墓碑が建ち並び、中にはいくつか興味深い縁戚関係を記したものもありました。しかし、見当を付けて訪ねた一軒の木村家では、本家は東京方面に出られているというだけで詳しいことはお話しいただけませんでした。

それから七年、月日はあっという間に過ぎ去りましたが、木村家のことはずっと気に懸けていました。
平成十一年十一月のある日曜日、清水家の先祖が享保の頃まで住んでいたという倉敷市端生坂(=鼻生坂)に現在も住んで居られる間野諸家の調査を思い立ちました。
先ずは墓碑から調べてみようと思って、その前方に立って後ろの山々を見渡しました。何度も見ている山ですが、その日は、東寄りの山の中腹に立ち並ぶ立派な墓碑が目にとまりました。
「間野姓の墓地かもしれない!」と思って、さっそく上がってみると、文字の判読も出来ないような大きな五輪塔の他に、木村何某、守屋何某という多くの古い墓碑が立っていました。

一つずつ墓碑を確認するうちに、この墓地に眠っている人たちこそ代々生坂村役人(五人組頭)を勤めていた木村氏であることが判りました。前の畑を耕しているおばさんに墓地を管理されている方を紹介していただきました。

その方に拠れば、木村本家は中島村(今の中庄)、七年前に見当をつけて訪ねた木村家に間違いないことが判りました。生坂木村家は一旦絶えたので、三田で大庄屋を勤めていた槇山守屋家から養子を迎えて後が続いている、その養子の長男が木村を次男が守屋を名乗ったとのことでした。もとの屋敷は清水家の旧屋敷のある高台に向かって右側のやはり少し小高い見通しの利く場所にあり、墓地は第二次大戦前までは平和塔の所にあったそうです。

明暦三年の先祖由来書に株家の当主、與左衛門正良、瀬兵衛正経、吉兵衛正勝、惣右衛門正親が名を連ねていますが、正良の子孫は都宇郡西田村(現在の倉敷市西田)の新田へ移住しています。

史料をあたってみました。

倉敷市史、西田(早島新田)の開墾に、
新田由来を記した文書(寛政七年)に、
開発人、中島村庄屋九郎兵衛(=與左衛門):財右衛門先祖
    早島村庄屋 助左衛門      :助左衛門先祖
とあります。早島村庄屋助左衛門は佐藤助左衛門です。

倉敷市史、西田村村役人一覧に、

庄屋、助右衛門          承應三十二年から元禄十四年まで五十年間
庄屋 六郎兵衛(後改め財右衛門) 新田取り立て諸御窺いは両人仕申し候
年寄 角兵衛  承應二~宝永中  尤も帳面は六郎兵衛預かり御年貢取り立ては年寄り三人に判断の上仕申し候
   吉左衛門
   忠左衛門
庄屋 吉左衛門 元禄十五~宝永二
庄屋 孫四郎  宝永三~宝暦三
年寄 八介   宝永中~
年寄 鉢介   享保八~
庄屋 儀右衛門 宝暦四~宝暦十
庄屋 幸右衛門 宝暦十一~明和七
年寄 傳右衛門     ~安永四
庄屋 恵介   明和八~天明五
年寄 八介   安永五~安永八
年寄 安吉   安永九~寛政二
庄屋 助左衛門 天明六~寛政三
年寄 財右衛門 寛政二~
庄屋 新吉   寛政三~寛政七
庄屋 彌三九郎 安政中

これを見ると、西田村庄屋を勤めた木村家は代々財右衛門(=才右衛門 さいえもん)という襲名があったと思われ、詳しい調査が必要と思いました。

倉敷市西田、豊洲農協の北にある荒神社に新田の由来を書いた碑が建てられています。
この新田は承應二年末に開発されて始め「早島新田」と云われ、面積は八十一町九反ありました。
しかし、灌漑用水がなく、はじめは中帯江の悪水(=排水?)を引いて利用していましたが、寛文三年に庄屋木村與左衛門が苦労して澤所の水を引く交渉と工事を行い、元禄十四年に福島村末崎から一ノ樋に至る長さ千三百間、幅二間の用水が完成しました。これは後に六間に幅を拡張して現在の「六間川」となっています。
用水の完成した元禄十四年に西新田と改称し、宝暦二年に西田村、明治二十二年に豊洲村大字西田となっています。與左衛門から八世の孫卓爾は初代豊洲村々長を勤めています。

この碑の調査は平成十一年十二月末のとても寒い日でした。
近くの庭先で農作業をされている方を見つけて声をかけました。昔の庄屋の木村家の消息を訪ねていますと用件を伝えると、
「私の同級生に旧姓木村さんという人がいて、消防署の辺に屋敷があって、昔庄屋をしていた家だと聞いています」
といわれ、木村家の墓地のお世話をされている方ご照会いただいて、墓地まで案内していただきました。
とても寒い日であり、家先に木村家について知っている人が出ていたというのはたいへん幸運だったと思いますし、即座に私の話を了解していただいて、墓地案内までかって出ていただけるというのは、あとから冷静に考えれば奇跡的です。何年か前に小田郡矢掛町江良の渡邊家を調査に行ったとき、正月の寒い日に出逢ったおじさんを思い出しました。そういえば、渡邊家の調査の時もたいへん緊張した越年でした。こんな経験をする度に、何か不思議な力に導かれているのではないかと思うことがあります。

墓地には江戸時代の文政六年正月に建てられた供養塔があり、それ以降の墓碑しか見当たりません。
確かに古い歴史のある家ですから、必ず何処かにもう一つ墓地があるはずだと思って、貝原様に教えていただいたご子孫の元に電話をかけてみました。
そうすると、
「古い墓地は西帯江の不洗観音寺(東の竹藪中)にありました。五~六年前(平成十二年正月時点から)に新聞に何度も墓地整理のための広告が出たそうですが、連絡をしなかったので整理されてしまいました」
とのことでした。
このような広告は全国紙の隅っこに載っているのをよく見かけますが、こういう形で身近に感じたのははじめてでした。しかも、木村家のご子孫は言われませんでしたが、阪神地区にお住まいなので、墓地整理のお知らせが出ていた当時はちょうど大震災のあとで、古い先祖の墓地に関心を持つ余裕などなかったはずです。もう少し早く西田の木村一族が判っていれば・・・とたいへん残念に思いました(註)。しかし、これで諦めてはおしまいですから、ご子孫の元に清水家に所蔵された過去帳のコピーを添えた手紙をお送りしておきました。大晦日を間近に控えた頃のことで、手に汗を握る思いで新年を迎えました。私にとってはY2K問題よりもこちらの方が遙かに重要でした。

さて、年も改まってから、木村様から電話を戴き、手紙も送って下さいました。
古い位牌を整理(平成二年)されたときに書き直したという過去帳に、たしかに
「**純澄信士、延享二年歿、木村甚左衛門富久」
という先祖が記されているとのことでした。
「やった!」
と小躍りして喜びましたが、念のために、その過去帳コピーを送っていただくことをお願いしておきました。
コピーは間もなく送られて来ましたが、それには私が今まで調査を続けてきた清水家とのいろいろな関係縁先のご先祖も記されていました。

與左衛門正良――吉兵衛正勝――財右衛門政久――+――甚左衛門富久――+――甚左衛門伊暉――+――平助 守安家嗣
天和3     寛文9    宝永四     |  延享2     |  寛政2     |
守安氏    室友野氏   室守安氏    |  室尾崎氏    |  室篠井氏    +――勇蔵朝唱   ――+
               室某氏     |  室山本氏    |             安永3      |
                       |          +――八木彦兵衛妻              |
                       +――八木小平治妻                         |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==財右衛門政敦――+――八郎右衛門政継――+――蔦治郎
   金光氏     |  慶應4      |  天保6
   文化10    |  室三島氏     |
   室守安氏    |  室原田氏     +==綱太郎政常
           |  室室氏      |  三島
           |  室齋藤氏     |  嘉永2
           |           |  室片山
           +――ツギ       |
           |  坪井宗武妻    +==弥三九郎資仁――+――卓爾 ――完平  ――+――脩吾
           |           |  蜂谷氏     |  大正1  昭和38  |  昭和60
           +――カジ       |  明治26    |       室八木氏  |  室
              吉田家へ嫁    |  室櫻井氏    +――専一         |
                       |          |             +――修
                       +――くの      +――さと
                                     櫻井廣政妻

正良、政久の妻は窪屋郡宿村の守安氏です。
政敦は児島郡尾原村金光氏で、伊暉長男平助の娘を娶って家を継いでいます。平助は窪屋郡西郡村の庄屋守安家を嗣いで後に清介常唱と改めています。
政継は実子早世の後、妻の甥綱太郎を養子に迎えました。三島家には、真備町二万の木谷家から嫁いだ人があり、この木谷家の元の姓が木村であるので、遠祖の血を引く人を養子に迎えたということなのかも知れません。また、少し時代が遡りますが、三島家には中庄の木村家から嫁いだ人もいるので、そういう繋がりを踏まえての縁組みかも知れません。
しかし、この人も若くして亡くなったので、備前津高郡富原村蜂谷文右衛門の2男を養子に迎えています。卓爾は弥三九郎の子だろうと思います。綱太郎の歿年は木村家の墓碑のよれば嘉永2年となっていますが、実家の三島家墓地(倉敷市中島の実際寺)に建てられた墓碑には嘉永5年とあります(下写真)。楷書の漢字で書くと、「二」と「五」は間違いやすいので、どこかで伝え間違いが起きたものと想像されます。
政継の妻室氏はこちらで紹介した家のようですが、詳しいことは判りません。

さて、肝心の甚左衛門富久、八木小平治妻と清水家先祖の関係について考察を加えておきます。
政久の後妻某氏は「福山浪士娘」とあり、福山は戦国時代の窪屋郡にあった山城、福山城のことと思われます。建武の中興に引き続く内乱で合戦のあったところ。木村家の先祖もここで戦に加わったと思われます。上記の系図にある(岡谷)友野氏、(西郡及び宿)守安氏はこの支城になる幸山城の石川氏に仕えていました。要するに昔の同僚同士の縁組みになっているわけです。
政久後妻某氏が亡くなっているのが享保十年○月十九日ですから、清水家から出た人であれば問題の過去帳に載っているはずです。また、清水家の先祖は戦国時代末期に近江(滋賀県)からやってきたということになっていますから「福山城」との関係は薄いはずです。
とにかく、このページの冒頭に掲げた系図のようなつながりではなさそうです。
伊暉妻の両親の戒名が木村家過去帳にあり、また、清水家所蔵の石原家過去帳に伊暉妻の父親の戒名が記され、伊暉妻の兄弟の妻が間野氏、姉妹の夫(梶田武右衛門光英)の戒名が石原家過去帳に記されている辺りの謎解きが上手くできれば、甚左衛門富久、八木小平治妻と清水家先祖の関係が判ると思います。


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