植田家・児島屋
窪屋郡倉敷村
太郎公光――又太郎忠光――小太郎氏光――四郎太郎光遠――五郎太夫師光――出羽介光経――経言司久――経一太仲――+ 寿永2 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――徳之丞吉永――民部之介秀成――葉之助成茂――杢之助成可――四郎治成政――+――牛箇斉政胤 | +――伝内兵衛政信――茂五郎信重――+ | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――弥内重行――賢次郎行兼――農助兼久――小左衛門久通――左衛門尉通長――喜代松長重――+――長逸金松 永禄8 | 備中へ | +――常久 ――常吉 ――+ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――常勝 ――常正 ――常演 ――久名 ――久周 ――久雄 ――久儀 ――+――久誠 ==有年久茂――+ | 井上氏 | | | +――乙次郎 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==齊 ――久明 加計氏
植田家は倉敷に来た二十三代目の長逸という人まで代々武将として生きてきました。四百年間に十八代というのは少し多すぎますので、兄弟で二代分数えるような代もったのかも知れません。長逸は広島の福島家に仕えていましたが、福島家が幕府から領地替えを命じられたときに、あまりに遠方であったので長逸は主君に付いて行くのをあきらめて、義理の父飽浦方孝(備中松山池田家臣)を頼って備中に来たということです。広島の家は弟の常久が相続し、福島家に替わって入封した浅野家に仕えて明治維新を迎えています。乙次郎は慶應三年、藩の代表として薩摩の西郷隆盛、大久保利通らと交渉に当たりました。
長逸が倉敷村に移住したのは元和の頃と云われます。二代長倶は新田を開墾、三代方倶は前神に店舗を開き、飽浦氏の本貫に因んで児島屋と名乗りました。方房の頃からは次第に財を積んでいったようです。
金松長逸――亦次郎長倶==七郎右衛門方倶――孫右衛門方房――+――武右衛門方昭――+――多治兵衛方基 寛永5 万治3 浜屋方久男 宝永5 | 宝暦10 | 分家東町児島屋 室飽浦氏 室飽浦氏 元禄5 室飽浦氏 | 室 | 室家女 | +――武右衛門方章 ――+ +――甚四郎方美 | 安永10 | | 分家広田屋 | 室浦田氏 | | | | +――孫右衛門方平 +――祐四郎方尚 | 分家柳屋 | 分家本町児島屋 | | | +――女 | 佐藤信墨妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――武右衛門方正――+――武右衛門方清――+――定四郎方端 文政11 | 明治3 | 文久3 室生長氏 | 室三宅氏 | 室生長氏 | | +――敬造方義 +==孫太郎方型==八郎方毅――佳平 | 方鄰男 和田氏 昭和15 | 明治33 大正5 室立花氏 | 室難波氏 室方型娘 | +――女 | 三宅徳敬妻 | +==百五郎方條 亀山氏 後三宅家嗣 万延1 室方清娘
正徳元年の宗門帳では
正徳元年の宗門帳では
高十石六斗六升七合四勺
武右衛門 二十七歳 真言宗観龍寺 印
母 五十一歳
人数合二人内 男一人
女一人
外
姉 つま 二十九歳 当村長右衛門方へ十三年以前縁付
弟甚四郎 二十五歳 当村へ出店棚
当主の武右衛門は方昭のことだと思います。当時の地図を見ると、いまの大原さんの緑御殿から少し南に児島屋武右衛門、それから油屋吉田家の大屋敷を隔てたところに治郎兵衛借家甚四郎という名が見られます。郷土史家の著述の中には、植田家は最初から今の倉敷館を中心とした広い範囲に屋敷を構えていたと書いてあるのもありますが、最初は小さな屋敷に居たようです。また、新禄商人は倉敷村に遅れてやってきて財をなした家だとの説明もありますが、この植田家のように、古禄商人が台頭していた時期には細々と商いながら、やがて大きくなった家もあるようです。この方昭の孫方正の代に植田家の財産がいちだんと大きくなりました。いまの民芸館から倉敷館、北田証券にかけての大屋敷になっていたようです。民芸館は植田家の米倉です。
方正は倉敷新田(現在の倉敷市役所近辺)の干拓をはじめ、公共の仕事にも貢献し、文政二年に苗字の公称を許可されています。これは倉敷村における苗字御免の第一号です。一般に天領での苗字帯刀許状発行は諸藩領よりは相当厳しかったようです。
その子方清(亀洞と号した)は、新禄と古禄争いが一段落し、新禄と古禄から一人ずつ庄屋を公選するように決まって、最初に新禄側代表として庄屋に選ばれています(文政十一年)。これから、四期十三年もの長期に渡って庄屋を勤めました。この時の村会所は小野家の場所(いまの本町郵便局)にありましたが、天保十二年に方清が庄屋職を辞めるに当たって、自分の家を村会所として寄付しました。これは以後、村会所、町役場と利用され、大正五年にロマネスク風の洋館として建て直され、今では倉敷館として美観地区観光客の休憩所、案内所として利用されています。
方清さんは自分の新開地に家を建てて移り住んだそうですが、その場所はいまの倉敷市新田のどこになるのかよく判りません。ただ、郷土史家の著述を見ると、明治六年に小学校に利用されたほどの広大な屋敷だったと言われます。
自分が庄屋になって好き勝手放題に出来る時にやらずに、辞めるときに自分の家を村会所にしたわけです。何というスマートなやり方かと感心します。
方清にはたくさんの逸話が遺っています。
新任代官が来倉しても、他の皆がするように手土産を持って挨拶に参上せず、その代官が任を終えて帰る時に餞別として金品を贈ったそうです。似たようなやり方は、岡山の町役人を代々勤めた河本家にもあります。河本家では代々の当主が死去したときに、故人が生前に世話になった藩中の人々に贈り物をしたそうです。役人の着任時や在任中に、或いは自分の生存中に贈り物をすれば、賄賂と受け取られかねないですね。それをうまくごまかしたやり方です。現代流に云えば官僚の天下りと似たところがあるかも知れません。人間の考えることは今も昔もあまり変わりません。
興除新田の干拓はこの方清と父親の方正二代でやったようですが、漁業で生計を立てていた沿岸村民の補償問題が起こり、干拓責任者の備前藩と村民の間に立って仲介の労をとったのは方清です。備前藩は補償金二千両を形式上村側の借入金ということにさせましたが、あとでこの金を返せと云ってきました。方清は私財から藩に二千両を支払い村民には負担をかけなかったということです。なお、興除新田仲介の労に対しては、代官所から銀十枚を下されています。
また、通りがかりの商人が運搬車をひっくり返して商品をダメにしてしまったのを見て、その商品をすべて買い取ってやったとか、貧乏で崩れた家屋の修理が出来ない家には材料と左官を派遣したなどというような逸話もあるように、他人に対する慈愛の心がとても厚かったそうです。文化年中の窮民救済に千五百両拠出、天保七年の凶作では玄米百石、金百両を、天保十二年の凶作と流行病では玄米二百石、金二百両、弘化四年には米三百石に金三百両等々の拠出をしています。
方清は近隣諸藩から特別の待遇を受けています。備前池田家からは格別御出入、御目見を許可。足守木下家からは知行五百石、家老同席。天城池田家からは十人扶持、庭瀬板倉家から五人扶持、帯江戸川家から八人扶持等々。これらは、財政難に陥った諸藩への貸付の見返りとして与えられたもので、いったいいくら融通したのか考えると恐ろしいくらいです。
植田家には、浜屋、広田屋、柳屋、本町児島屋、出店児島屋、吉和屋、東町児島屋とたくさんの分家があります。これも資産が大きかったことの証明になると思います。
これだけの一族が跡形無く倉敷から出て行っていることをみても、この地区の住人の移り変わりが激しいことがお解りになるでしょう。
最も古い分家は本家初代長逸の義甥になる懸(かけ)善兵衛が立てた浜屋です。
善兵衛方久――+――七郎右衛門 ==七郎右衛門 ――茂一義直――定右衛門義尭――善兵衛義之――+ 万治4 | 享保9 宝暦12 安永8 文化10 文化10 | 室長逸娘 | 室方倶娘 室虫明氏 | | | +――七郎左衛門方倶 | 本家嗣 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――七郎右衛門光寿――兵平 ――和太治 ――武三郎 ――+――吾一 ――+――宗男 天保1 明治12 明治17 大正8 | 昭和49 | | | +――女 +――昌孝 | | 室三上氏 +――多女 | 守屋禮三妻 +――英嗣 | | +――耕司 入江家嗣
甚四郎方美――甚四郎義武――藤右衛門方矩――+――甚四郎方綱 ――種 明和3 文政2 文政11 | 天保6 室佐々原氏 室難波氏 室上月氏 | 室見垣氏 | +==紋右衛門方知==年方敏 ――+――ます 高橋氏 内海氏 | 安政2 大正8 +――よし 室方矩娘 室城川氏 | 神野家へ嫁 | +==虎雄 神野氏 平成13 室小酒井氏
藤左衛門方矩は新禄古禄争いの時に先頭に立って古禄衆と戦いました。
年(みのる)は備後国御調郡菅村内海有蕩五男で、元治元(1864)年に養子に入っています。窪屋郡書記、倉敷町長を勤め、山陽線の倉敷通過、倉敷紡績、倉敷銀行の設立など、倉敷の振興に貢献しています。
東町児島屋は、
多治兵衛方基――+――義武 天明2 | 広田屋嗣 | +――多十郎義道 ――太治兵衛義重――+――太右衛門義久 | 文化15 文久2 | 天保9 | 室 室三宅氏 | | +――和栗栄信妻 +――女 | 分家出店 +――常右衛門――源之助 安政7 文久3
本町児島屋(うらの屋=有良能舎)は、
祐四郎方尚==助右衛門方直――忠五郎方邦――助右衛門方鄰――+――孫太郎方型 天明7 出店植田氏 文政2 明治4 | 本家嗣 室岡氏 文化5 室伊丹氏 室橋野氏 | 室方尚娘 +――女 | 大島正鵠妻 | +==鶴次郎方忠――豊吉 三上氏 室方鄰娘 室難波氏
方鄰は宗家方清を助けて家務を総括し、天保十二年に庄屋次席、弘化四年に同首席となっています。つまり、文政十一年に倉敷村の庄屋公選制がしかれてから、方清、方鄰、孫太郎方型(春園)、年、と幕末から明治初期にかけての倉敷は植田家でもっていたといっても過言ではありません。これほどの家なのですが、いま、植田家のことを知っている人が倉敷の町にどれくらい居るでしょうか?流れに浮かぶ泡沫ではありませんが、世の中たいていこんなものです。
出店児島屋というのは、本家武右衛門方章妻の弟(妹尾村浦田氏)が東町児島屋初代の娘と興した家です。
犀助方英――+――方直 寛政12 | 本町児島屋へ | +――甚吉喬朝――吉十郎方茂――+――恒五郎方泰――春太郎 享和2 天保11 | 万延2 室三宅氏 | 室菊池氏 +――女 多田敬之妻
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