當麻(とうま)家
御野郡岡山城下



大福佐藤家の子孫は明治になって岡山上之町へ移住して東山に墓地を構えたということを知りましたので、駒井家の過去帳にあって妹尾小村山の佐藤家墓地に見あたらない
「**院**   明治七年 備中大福佐藤三郎兵衛妻岡山斧田町井村玄五ノ妹お鹿」
の墓碑を東山墓地に確認したいと思いました。

ただ、場所は火葬場付近というだけでよく判りません。なにか参考になる資料がないだろうかと岡山市立中央図書館を訪ねてみました。「岡山の墓碑銘」という東山付近の墓碑調査をまとめたものを見ていたからです。再度確認していると、
「この記録は下書きであって、きちんとまとめたものは『帚苔録』として刊行した」
と書いてあるのに気付きました。ダメもとの気持ちで、司書の方に
「この『帚苔録』というのはあるのですか?」
と尋ねてみましたら、奥の書庫から『帚苔』というガリ版刷りの冊子を十一冊(第一集〜第九集、及び十三集、五集は別冊がある)出していただきました。

目を通して行くに連れ、佐藤家のことを忘れてしまうようでした。私が気に懸けていたいくつかの家の墓が地図付きで記録してあるのです。中でも第七集の地図に「当麻」とあるのを見つけた時には直ぐにでも捜しに行きたい気分になりました。

しかし、五十年以上も昔、戦前の地図ですし、手書きというのは主観も入ってけっこう難解な地図です。東山・平井一帯の住宅地図を知水翁の地図と重ねて比較してみました。そうしてやっと現代の場所を知り墓地山に入りました。



一時間ほどその周りを歩き回ったでしょうか、草木に覆われていましたし、墓地の中央に他姓の墓が建てられていましたので、捜すのは容易ではありませんでした。
知水翁の地図で「藪」となっていた隣接の広い所にビッシリ新しいお墓が建っています。「藪」に沿った道は後から見直すとなるほど道の跡かなあと判る程度です。加えて、知水翁が歩いた頃の道とは別に新しい(?)道が當麻家の墓地をめがけて東から直進していました。
他姓の墓は本来の當麻家墓地の中央を浸食しているように見えます。當麻家の墓地は矩形の土地の周囲を廻らすように墓碑が並んでいたので、中央が空いていたのだろうと思います。旧家の墓地をあちこち見ているとこの様な建て方になっている所が多いのです。墓前で祭礼を行うために中央をゆったり空けるのです。
寺の境内の共同墓地内で、コの字型やカギ形(┓)の土地になっているお墓は、殆どが他家の墓地の侵入を受けている場合です。もちろん、お互いの話し合いで土地を譲り合うということもありますが、無縁か或いは長い間お祀りされていないと、寺も見て見ぬふりをする事もあるようです。
監視の目がある寺の墓地でもこうですから、人里離れた共同墓地では侵略はありふれたことかも知れません。ただ、他家の墓地に墓碑を建てるというのは普通の神経では出来ません。祟られるのではないかという畏れもあるからです。どうして當麻家の墓地の真ん中に他姓の墓が建ったのか、未だ謎ですが、姓は奇しくも「佐藤」となっていて、明治以降の墓が三基ほど地上げした上に並べられています。

當麻家の存在を知ったのはずいぶん前です。

江田家墓地に喜三治則貞の二人の妹(當麻幸左衛門妻とよ、川口庸倫妻津志)と「とよ」の夫を祀った墓碑が建てられています。除籍と江田喜彦氏が遺された系図を参照してこれらの人と江田家のつながりは確認出来ます。當麻幸左衛門夫婦が祀られているのは、喜文治の妻滝の両親でもあるからのようです。
「**院諦祐信士、当麻幸左衛門、安政五年十二月**日歿、五十六歳」

當麻家は岡山城下の西大寺町にあって、片上屋という屋号の商家でした。
「岡山の町人」片山新助著(昭和六十年、日本文教出版KK発行)に、
「当麻尚文(?〜一八五八):通称治郎兵衛、号は白檮屋(かしのや)。尚文は名、西大寺町で銭屋と諸問屋を営んだ富商。屋号は片上屋とい、藩の別改扶持人であった。藤井高尚平田篤胤の門
とあります。

一八五八年=安政五年ですが、岡山西大寺町の当麻という珍しい(現在岡山市に同姓は一軒もない)姓で同年に死去というので、幸左衛門=治郎兵衛尚文ではないかと想像しました。また、清水多喜野は
「自分の祖父のおじが藤井高尚という人」
と云っていましたので、いよいよ間違いないように思えて著者片山新助氏に手紙でお尋ねしてみました(この後暫くして、喜三治則貞妻純の妹が藤井高豊=高尚の嗣子に嫁いでいることが判明しました)。
そうすると、
「岡山市立中央図書館所蔵の国富家文書中に、当麻家の由緒書があり、その中に幸左衛門という人が出ています。これを見ると、尚文(四月歿)の子が幸左衛門ではないでしょうか」
と略系図まで作って由緒書きのコピーと共に送って下さいました。

「近世岡山町人の研究(片山新助著)」三〇七頁、慶応二年町役人等連名留(略題)に、
 御扶持三人 片上屋治郎兵衛
       片上屋清五郎
       片上屋万吉
以上三人の片上屋を名乗る当主が載っています。

「岡山県歴史人物事典(山陽新聞社刊)」には、工藤進思郎氏が、
「当麻尚文(とうま なおふみ)寛政五〜安政五。幕末の国学者・歌人、岡山城下仲買町(現京橋町)の町人片上屋次郎兵衛尚久の長子。藤井高尚に入門して国学を修め、松屋門の高弟の一人に数えられた。文政三年、高尚に勧められて平田篤胤に入門した」
と紹介されています。

津山川口家を調べてみると、同家へ嫁いだ津志の子清五郎恭敬が
「備前國岡山府片上屋當麻常左衛門養子明治廿六年歿年七十八**光雲信士」
となっていることを知りました。しかし、生存年代あわせをすると幸左衛門の子でもなさそうですので、ますます分けがわからなくなりました。系図調べに限りませんが、手持ちのカードが増えるたびに混迷の度合いが増すということはよくあります。

その後、「ごさんべえのぺーじ」が縁で情報の交換が始まった正岡氏(ホームページはこちら)から、公私ともに親しいお付き合いがあった藤原審爾氏の『一人はうまからず』(毎日新聞社・1985年発行)と題したエッセイ集をご紹介いただきました。その中で、審爾氏が生家の歴史に触れられています。かつて、いまの備前市の附近で守護代をつとめていましたが、ほろぼされて京の当麻寺へ逃れ、その後十六代目が帰郷したとあります。その当時は浦上、または当麻と名乗り、後に藤原と改めました。審爾の祖母は「池田は織田の足軽じゃ」と言うような気風をのこしていたそうです。

藤原審爾(作家)とその娘藤真理子(女優 本名藤原真理)の話は溝手Hさんからお聞きしていました。Hさんは審爾の従妹になり、清水多喜野の義甥、敏の妻です。Hさんの話では、審爾は三十数代続いた旧家の後裔だそうです。
正岡氏から戴いた、ご自身のルーツ調べの経緯をまとめられた冊子の中で、正岡氏と藤原審爾氏の交遊を知り、こちらの縁戚関係を話題にしたことが『一人はうまからず』の紹介に至りました。
当麻寺は「平城京(奈良)の當麻寺」でしょうか、こちらは「たいま」と読みますが、當麻家は「とうま」と読みます。岡山県内には「東馬」と書く姓もありますので、これももしかしたら同じルーツになるのかも知れません。

このような情報をふまえて、片上町史を見直してみると、



「富摩 もと天神の上の藪の中に墓があったが、現在法鏡寺境内に移す(上写真)。
 富摩氏勝兵衛、寛文七年六月廿三日。富摩氏宗清、寛文十一年八月十九日。尾川一二氏の談によると、藤原氏の食客であったよし。」

「藤原 東片上の塩谷に住む、墓地は善妙の山頂に次の如くある。
 喜性宗栄日寿、元禄十六年十月二十九日。藤原九郎太、宝暦九年八月四日。藤原支平次、文化八年十月二十二日。藤原伊右衛門、文化十二年六月十二日、行年七十二。藤原又次郎、天保八年三月六日。藤原三郎の父、弘化四年三月三日。また東片上天神の上に墓地あり。藤原小三郎、明治二十三年十一月二十日没。尾川一二氏の談によると、藤原の本家は藤原小三郎と云って、立石に屋敷があった。大庄屋の藤原は分家であろう。」

という記載があるのに目が留まりました。「富摩」は「當摩=當麻」の間違いではないかと思い、片上の郷土史家D氏にお聞きしました所、「富摩」という姓はありませんから、「當麻」の間違いでしょうというお答えでした。現在の法鏡寺には「藤原審爾の生家跡」という標札が揚げられ、審爾の生家は大庄屋を勤めていました。

以上から、岡山城下西大寺町の片上屋當麻家は藤原審爾の生家などと同じ一族で、宇喜多家が岡山に城下町を造ったときに協力して片上から移住したのではないかと考えました。



宇喜多家は児島高徳の後裔で三宅一族と云いますが、戦国時代の末に直家という中興主が、仕えていた浦上家を踏み台にして一挙に国主まで登り詰め、信長・秀吉に近づいたという歴史があります。浦上家の宗家が藤原家だとすれば、「池田は織田の足軽じゃ」という言葉が出るのも納得が行きます。當麻家もその藤原一族であれば、同じようなプライドが流れていたに違いありません。中世にある一定規模以上だった土豪の子孫は、江戸時代に士の下に身分を設定されても、かつての誇りを忘れず生き抜いたようです。
清水多喜野(明治廿一年生)の写真帳にある一枚に、江田秀志、滝(旧姓當麻 大正二年歿)、多喜野が並んで写っているものがあります(上写真)。「池田は織田の足軽じゃ」というような言い回しは多喜野もしていましたので、そのルーツが滝お祖母さんだったのではないかと思いながら眺めると、滝さんがずいぶん近しく感じられます。

荒れ果てた墓地に鎌をもって踏み込み、碑文を一通りさらえて系図に仕立ててみました。

墓地には「釋諦祐信士、当麻幸左衛門、安政五年十二月**日歿」という墓碑が建てられ、妻の戒名が彫り込まれるべきところは空白になっていました。

安政五年六月に幸左衛門が藩に提出した奉公書に「宝暦十一年巳六月曾祖父治郎兵衛義御巡見様御用に付、芸州広島表へ罷越相勤申候・・・文化元年子三月十一日曾祖父治郎兵衛義病身に御座候に付名前譜引義兼て奉願上候処同人へ被下置五人扶持祖父次郎兵衛へ其儘被為下別御改被為仰付候」となっていますので、曾祖父治郎兵衛は治郎兵衛尚芳に相当することが判ります。奉公書によると、安永八年七月に五人扶持を支給され、文化三年に隠居したことになっています。前述のように、治郎兵衛尚文と幸左衛門との年齢差が十才ほどですから血縁の親子ではあり得ません。末弟が長兄の準養子となったのではないかと思いますが、そうなると幸左衛門にとって治郎兵衛尚芳は祖父になるはずです。公文書だから曾祖父としたのでしょうか、幸左衛門もまた他家からの養子であった可能性も否定出来ないかも知れませんが、尚久妻が安政四年まで生きていることや、その翌年四月に亡くなった尚文のあとをすぐに幸左衛門が相続していることから、その可能性は低いと思います。

治郎兵衛尚芳――+――七郎右衛門尚久――+――治郎兵衛尚文
文政3     |  文化4      |  安政5
室金井氏    |  室        |  室太田氏
        |           |  室内藤氏
        +――常右衛門尚高   |
        |  分家       +――幸左衛門  ――+――治郎左衛門
        |              安政5     |
        +――女           室江田氏    |
           秋山廣義妻               |
                               +――滝
                               |  江田喜文治妻
                               |
                               +――駒
                               |  文四郎妻
                               |
                               +――八重
                                  松原證次郎妻

尚芳は寛保二年三月二十五日生まれ、幼名長之助、後に幸八と名乗り、宝暦六年に父の跡を継いで次郎兵衛を襲名しました。墓地には、
「釋祐教 宝暦六年○月十一日」
という墓碑がありますので、これが尚芳の父だろうと思いますが、俗名は不明です。戒名から浄土真宗であることが判りますが、浄土真宗のお墓は一般に質素で、多くを物語ってくれることは少ないのです。なお、藤原審爾の生家も同じ宗旨です。
尚芳は二島庵と号し、文化元年に剃髪隠居して雲耕と号しています。「以納金供国費賜月俸五口許新年朝賀皆是翁一世之切也」とありますので、當麻家中興とも云うべき人だったようです。
妻は金井氏の娘で夫婦の間には二男一女がありました。「長為七郎右衛門尚久嗣家、次為常右衛門尚高及年壮別治生業、女為秋山某之妻也」とあります。
長男尚久は文化四年七月に三十六才という若さで亡くなっていますので、「尚文嗣以翁之嫡孫也」となっています。尚芳は文政三年十月二十八日に七十九才で亡くなるまでの晩年十年余、十余才で父に死に別れた孫尚文が成人するまで後見をしたようです。
一人娘の嫁ぎ先は秋山家としか書いてありませんが、幸左衛門妻の姉妹が和気町本和気の秋山吉蔵に嫁いだという記録があり、秋山家の墓地に
「**院成足日*霊 嘉永五年○月十九日 秋山吉蔵廣茂行年六十四」

「**院如泉日* 文化七年○月六日孫三郎廣義
 **院妙泉日豊 天保三年○月十日同人妻」
の墓碑が並んでいますので、当時の一般的な縁組みの仕方や年代もほぼ合致することから孫三郎廣義の妻としています。

尚芳の父と思われる「釋祐教」より前は、墓碑から二・三代位さかのぼれるようです。
「釋雲照 貞享五年」
「釋祐清 當麻氏 延宝三年」
釋雲照の墓碑は摩耗がひどくて俗名の確認は出来ませんでしたが、知水翁の記録には「當麻勝兵衛」とありますので、「片上町史」の「富摩氏勝兵衛、寛文七年六月廿三日」につながって行きそうです。

明治初年の切米帳に出てくる治郎左衛門(治郎兵衛)の墓碑はありません。いちばん新しいのは、
「釋尭諦 明治六年 寺尾良平
 釋智淳 明治五年 當麻多津」
という兄妹合祀ではないかと思われる墓碑です。
おそらく最後の治郎兵衛は子孫の移住の地で亡くなり、そのまま他郷に埋葬されたのではないでしょうか。もし、どこかに子孫が健在ならば是非とも東山の先祖の墓地を訪ねていただきたいと思います。

片上屋の墓碑文をさらえ終わると、また欲を出して広い墓地を歩き始めました。そうです、東山墓地に踏み込んだのは大福佐藤家のお墓を捜すのが本来の目的でした。
歩き回っていると、きれいにまとめられた十基ほどの古墓の前に「当麻家之墓」という累代墓が建っているのを見つけました。隙間なく寄せられているので碑文は殆ど読めませんが、古墓に彫られた戒名はほとんどが浄土真宗の戒名「釋○○」で、しかもその墓碑の形、文字の彫りかた、字体、・・・先ほどまで読んでいた片上屋のものとそっくりです。墓碑文から拾えた最も古い年号は寛政ですから、二日市町片上屋より古い分家のようです。



累代墓の裏に彫られた建設者の名を控え、帰宅後電話帳ソフト「写録宝夢巣」で検索、姓だけでなくお名前もちょっと珍しかった(?)ので一発で見つかりました。電話でお尋ねすると、
「先祖の墓は確かに岡山の東山にあり、先祖は岡山藩の上席に居て和歌の上手な人がいたと聞いています。ただ明治の始めクリスチャンに改宗して岡山を離れているので、詳しい事は判りません。東山のお墓は荒れて放置されていたのを、建部町土師方に住む義父が捜し出してくれてお祀りしてくれています」
とのことでした。
当麻家のお墓の世話をされているという義父様(佐藤氏)を紹介していただき、お墓を捜された経緯をお尋ねしてみました。建部の佐藤家というと、妹尾の紋佐藤四男小七郎茂富が御津郡建部町三明寺に移住したという話が頭にありましたので、その話をいたしました処、たしかにうちの先祖も妹尾から出ているとのことでした。
どうやらまた振り出し(佐藤家)に戻されたようです。

更に、土師方、佐藤というと油屋大村家の系図に「亀三郎 赤磐郡土師方村佐藤喜宗太養子」とあったことを思い出し、「お宅のご先祖に亀三郎さんという方が居られませんか?」とお尋ねしたところ、「亀三郎は何代か前になります」とのことでした。
油屋の系図には、亀三郎の三男正作が上道郡西大寺村岡本家の養子となったことも記されています。そこで、倉敷市児島下津井の荻野家(西荻野)について多くの情報を寄せていただいた岡本H氏の出身が西大寺であることを思い出し、メールでご先祖のお名前を尋ねてみました。そうすると、これまた合致して驚きました。佐藤様からも「西大寺の岡本という親戚がありました。ご子孫が系図を調べて居られるのでしたら、是非こちらへもお訪ね下さるようにお伝え下さい」とのことでした。

こうして、またもや果てしない系図のウェッブに取り込まれて行くことになりました。


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