能勢(原)家
児島郡塩生村




能勢家の先祖は多田源氏、元亀天正年中に活躍した能勢修理源頼吉という武将で、児島塩生(シオナス)の本太城(モトフトジョウ)の城主でした。宗家の家紋は「右巻三巴」ですが、分家には三階菱、丸に三階菱の家紋を使っているものもあります。

本太城は塩生の宇頭間(ウトウマ)にあって、古くは海に鼻のように突き出た要害でした。現在は「瀬戸大橋温泉」という娯楽保養施設が建っていますが、この西端に本太城があったそうで、施設の西端に碑があります。戦国末期、日比の四宮氏の軍が、讃岐国の香西氏を誘って攻めかかって落城します。一族は散り散りになり、讃岐の大野原に逃れた一族が、その地の地名をとって「原」と改めて旧領塩生に戻って帰農したそうです。そういうわけで塩生には原姓の家がとても多いのです。
宇頭間には森姓も多いのですが、この先祖は本太合戦の時に正月の門松に馬の脚を取られて落馬、討死したことから、この地区では長い間門松を立てないと云う風習があったそうです。

多田               能勢           原
入道頼貞――太郎頼仲――・・・――修理太夫頼吉――・・・――惣兵衛豊行――長右衛門豊行――茂兵衛行保――+
                              明暦2    貞享11602   元禄141635 |
                                     室1604     室荻野氏1643 |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――安右衛門保高――+――惣十郎保紹――+――女
   宝暦31670   |  天明21697  |  明和9
   室1670     |  室荻野氏   |
           |  室      +――法如
           |  室      |  延享4
           |         |
           +――平十郎    +――女
           |  分家     |  内田保房妻
           |         |
           +――女      +――安右衛門正房 ――+――久満1769
           |  岩津氏妻   |  寛政4      |  梶田英澄妻
           |         |  室        |            
           +――辨貞1705   |  室守屋氏     +==嘉源次正次  ――+――良蔵1793
           |  延享2    |           |  昆陽野氏     |  文化4
           |         +――久之丞      |  1768嘉永3    |
           +――慈貫     |           |  1771室正房娘   +――麻佐
           |         |           |           |  寛政8
           |         +――三次郎      +==仁十郎正之1772  |
           +――妙實        享保13     |  内田保房男分家  |  能勢
                                 |           +――藤四郎恵信――+
                                 +――門次郎      |  明治5    |
                                 |           |  室昆陽野氏1798|
                                 |           |  室高田氏1807 |
                                 +――猶        |  室大内氏   |
                                             |         |
                                             +――寿1803    |
                                             |  笹井幸清妻  |
                                             |         |
                                             +――八十     |
                                             |  伊原寿茂妻  |
                                             |         |
                                             +――新三郎    |
                                                古谷野家嗣  |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――元太郎康正――+――喜和1851?
|  明治241827 |  石原家嗣
|  室渡邊氏1829 |
|         +――寿男芳正    ――+==諒一1891
+――智因     |1854明治39      |  仙吉次男
   文化14   |  室名倉氏      |  明治30
          |            | 
          +――仙吉康則      +==富三郎廣正――+――活1914
          |  分家1863         中山氏1885  |  石原善四郎妻
          |               昭和23   |
          +――修一1868         室笹井氏1887 +――知子
          |  荻野家嗣                |  倉森薫妻離縁
          |  後離縁                 |  平原恒雄妻
          |                      |
          +――茂登1864                +――政行1916
             笹井彦次郎妻離縁            |  大正12
             和気太平治妻離縁            |
             岡田市左衛門妻             +――安芳1923――二女子
                                 |
                                 |1927室片山
                                 |
                                 +――裕年1926
                                 |  昭和20
                                 |
                                 +――淑子1931
                                    横山鎮雄妻

系図、過去帳の類は散逸していますが、墓碑では明暦二年歿の惣兵衛尉豊行から確認できます。以後、長右衛門、茂兵衛、安右衛門保高、惣十郎保紹、安右衛門正房と代を重ね、庄屋、大庄屋を勤めています。正房の妻は備中下道郡箭田村の守屋家から来ています。
正房の跡は娘繁に味野村の昆陽野家から養子を迎えて継がせています。この人が嘉源次正次で、児島郡の大庄屋役を継承しています。繁の妹熊は同郡宇野津村(倉敷市児島宇野津)の大庄屋梶田(後川井と改姓)傳左衛門英澄の妻になっています。嘉源次の跡を継いだ安右衛門恵信が能勢と改姓しています。
恵信の後妻貞子は同郡下村の高田京之助寿の長女で、元太郎を生んで間もなく死去しています。
恵信の妹寿は同郡下村(倉敷市児島下の町)の笹井善平の妻、同八十は備前国上道郡西大寺村(岡山市西大寺)の伊原久兵衛寿茂の妻となっています。恵信の跡を継いだ元太郎康正の妻は備中国小田郡江良村(小田郡矢掛町)の庄屋渡邊清左衛門正明の次女です。
近代に纏められた家記によると、嘉源次の子は、恵信、麻佐、良蔵、寿、八十、英幸の六人で、恵信が建造した嘉源次の墓誌には、三男三女があり、自分の兄と姉は幼くして亡くなり、四番目の女子は下村筱井善平幸清に嫁ぎ、五番目の女子は西大寺伊原久兵衛寿茂に嫁ぎ、六番目の男子は吹上村古谷新介正之に養われてその家を嗣いだとあります。弘化三年に恵信が建造した卒塔婆には、篠井寿、伊原八十、小屋野英幸の連名があります。従って、嘉源次の子は上から、良蔵、麻佐、恵信、寿、八十、英幸となります。
惣十郎保紹と後妻の卒塔婆に願主五人之孝子とありますが、家記には上記の六人が並んでいます。
安右衛門保高の子として並べられた子のうちに「岩津家嫁 是法空相」がありますが、この法名を刻んだ墓碑が下津井吹上観音寺裏山の岩津家墓地にあります。この岩津家墓地の上には古谷野(古谷)家の墓碑が林立していますから、岩津、能勢、古谷野の縁が幾重にもあったことが解ります。

仙吉康則――+――勝夫1885
明治251863|
藤田氏1863|  室
      |
      +――達1887
      |  明治33
      |
      +――諒一1891
         寿男跡嗣

平十郎  ――源左衛門国重――+――女1776
安永2    文化141733  |  仁十郎妻
室      室       |
               +――茂吉重次――源十郎1713――+――定十郎    ――+――勧一
                  文政31779 明治12   |           |
                        室三宅氏   |           |
                               |           +――隆義
                               +――二女子      |
                               |           |
                               |           +――茂
                               +――ムツ1845  
                                  高籏恵三郎妻

仁十郎正之――+==栄之助定利――+――才助正春
内田保房男  |1796守田氏    |  天保14
弘化31772  |  安政5    |
室國重娘1776 |  室正之娘   +――昌平定保  ――+――静太    ――+――良子
       |         |  明治21    |  明治45    |  中村東作妻
       +――太免     |1843室小野氏    |  室本山氏    |
       |  井上征益妻  |  室原田氏    |  室菅野氏    +――恭子
       |         |          |          |  夭
       +――#      +――女       +――梅       |
          ・・家へ      宮本清三郎妻  |  高田勝吉妻   +==雄吉郎
                            |          |  寛吾男
                            +――藤次郎     |
                            |          +==太三郎  ――+――静子
                            |              西村氏    |  数田正平妻
                            +――欣治          昭和47   |
                            |  夭           室藤次郎娘  +――聡
                            |                    |
                            +――寛吾                |
                            |                    +――輝子
                            |                    |
                            +――松野                |
                            |  菊池英二郎妻            +――譲治
                            |  都志太郎妻             |  昭和40
                            |                    |
                            +――f                 +――良子
                            |
                            |
                            +――國治
                               明治13
                               室天羽氏



#の子が園川義路のようです。彼が作文した才助正春の墓誌に従弟とあり、定利は伯父と記しています。
藤次郎からの墓碑は吉祥寺裏にあります(下写真左)。

昌平夫婦の墓碑は何処にもないので不思議に思っていたところ、都志太郎妻末津乃(松野)の墓碑に、
「浅口郡西大島村能勢昌平翁次女母原田氏」
とあるのに気づき、笠岡市西大島原田家墓地で発見しました(上写真右)。

**

寛吾  ――+――松雄
大正1   |  大正14
室豊田氏  |
      +――雄吉郎
      |  静太跡嗣
      |
      +――富士
      |  水野家嫁
      |
      +――高行  ――+――勲   ――+――由理佳
      |  昭和25  |        |
      |  室     |        |
      |        |        +――智美
      +――富貴子   +――博之    |
      |  豊田家嫁  |        |
      |        |        +――賢治
      +――花子    +――雅子
         夭     |
               |
               +――龍子
                  坂本家嫁

**

藤次郎  ――知加
明治32   静太跡嗣
渾大防氏  室家女

**

f   ==良枝
昭和40  中村東作孫
      大野柊二郎妻



能勢家の系譜は、同郡福田古新田の石原家の消息を訪ねたのがきっかけで調べ始めました。能勢源十郎の妻は同村三宅実平の姉で、源十郎夫婦の隣には実平の墓碑も建てられています(上写真)。

一方、古新田の石原家を再興した石原喜和に後入りした婿養子は塩生村三宅実平長男であると石原家除籍に記されています。石原家では、喜和の実家は塩生の能勢家であると言い伝えていると聞いていましたが、この三宅実平の墓碑を確認して、石原家と能勢家はたしかに縁戚関係にはあるが、能勢家の親戚になる三宅家と混同して言い伝えているのではないかと思っていました。

それでも、石原豊の姉妹に言い伝えを確認するうち、喜和の実家は塩生の「カゲンジ」であると聞いていると話して下さった方がありました。そこで、塩生のカゲン寺という寺を探したりしてもみました。能勢本家の系図を何度も読み返すうちに、カゲンジ=嘉源次正次ではないかということに気付いて、喜和と同世代の人が能勢家の系図上のどの位置にあるのかを再検討してみました。そうすると、石原喜和は、能勢元太郎康正の子ども達の年代とよく一致し、寿男芳正の姉とすれば両親ともうまく年代的に一致するのではないかと思いました。
もしそうであれば、康正の妻田鶴の実家に石原家と能勢家を結ぶ人が居るのではないか、もしそういう人がいれば、逆に、喜和が石原家の血脈を引いているので、能勢家から石原家再興のために差し向けられたとも云えるのではないかと考えて、田鶴の実家の墓地を訪ねてみることにしました。
ところが、能勢康正夫婦の墓碑は崩し文字で彫られていたので、江良渡邊というのを江原渡邊と誤読し、現在の井原市東江原町・西江原町一帯の渡邊姓の家の墓地をあちこちあたり、すべて徒労に終わりました。本当に江原だろうか?、むかしは東西の江原が一つの江原だったのだろうか?、と古い地名表を調べるうちに、どうも江原そのものが疑わしいのではないか、もう一度能勢康正夫婦の墓碑を再確認する必要があると思って再度確認したところで、はじめて江良の渡邊家の間違いと気付きました。「良」は平仮名の「ら」の元字です。小田郡誌でも江良の庄屋が渡邊という家が世襲していることを確認しました。

この一連の推理は、平成五年の暮れも押し迫った時期でしたが、年が明けて二日の日には、矢も楯もたまらず車を走らせて小田郡矢掛町江良を訪ねた思い出があります。この時は、いつもの調査のように住宅地図の用意すら出来ていませんでしたが、江良の集落に入った最初に見つけた商店で、「昔の庄屋、渡邊家の墓地はどこか教えてもらえませんか?」と尋ねたところ、作業を止めて、直ぐに道案内に立って下さいました。そこで、児島郡福田新田石原茂一兵衛(正雅)次男渡邊清左衛門正明と彫られた墓碑を見付けたときの感激はいまでも忘れられません。こんな経験をする度に系図調査から抜けられなくなります。

しかし、まだ問題がすべて解決したわけではありません。能勢寿男の墓碑には、父康正には三男一女があり、娘は下村笹井家に嫁いだとだけ書いてあります。墓碑文は大塚香が書いていますが、大塚家と能勢家の直接の親戚関係はないようですから、生前の親交により大塚香が書いたものと思われます。どうして、「三男二女」でなくて「三男一女」となったのか判りません。系図調査の上で、安易な線引きは禁忌ですが、石原喜和が茂一兵衛正雅の曾孫になることはほぼ間違いないと思います。
貝原仁兵衛が石原喜和の婿養子になる前に、連島の酢屋大野家に入っているそうで、喜和も何処かへ嫁いでいた可能性があります。


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