三宅家・射越屋
下道郡岡田村
先祖は南朝忠臣として有名な児島高徳だそうで、墓碑には源姓が彫り込まれています。家紋は、古い墓碑には「丸に酢漿草」、14代徳守夫婦の墓碑には「丸なし剣酢漿草」が入っています。後述の典医の家から分かれた家の2代目徳連の墓碑には「高徳16代孫」とありますので、高徳からその9代孫徳久までの間に下記のように点「・」を入れてみました。児島高徳の後裔ということでは、このウェッブサイトで紹介している酒津の三宅家や児島五流尊龍院宮家も同族と云うことになりますが、玉島丸川家や岡田片岡家を介して射越屋と酒津の三宅家は重縁をもっているのも興味深いと思います。
なお、岡山県は全国的に見ても三宅姓の多いところす。
南北朝時代に邑久郡射越(岡山市西大寺射越)を本貫とした射越五郎左衛門範貞という武将がいます。後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山に遷ったときに、児島隆徳、今木、大富、和田氏らと共に参上しています。射越氏を含め、これらはみな高徳の一族ということのようです。上記の徳連墓碑には今木久後兵衛徳連と名乗ったと書いてありますし、7代知徳の子徳告は射越三郎左衛門と名乗ったりしています。
初代徳久は、児島常山城主で親族の上野隆徳の命で、(岡山県吉備郡)真備町岡田の北にある木村山馬入城主となっています。この時に元の城主であった片岡氏が猿掛城に移ったそうです。江戸時代には岡田の街並みに庄屋の片岡家と射越屋は隣同士に並んでいたようで、おもしろい関係だと思います。いま、片岡家は跡形もないですが、射越屋は昔の風情がうかがえる建物が遺っています。
初代の弟は明智一族となるという記録があります。3代乗助の墓碑には「○○宗冬居士神儀」とあり、上に「卍」印があります。この人は隠れ切支丹だったと云われ、戒名に巧みに十字架の「十」の文字が埋め込まれた文字を使っているようです。4代徳親の弟徳之の子孫は後に児島姓を名乗って丹波篠山に居られるそうです。
5代徳直夫婦の墓碑の横の、「本染妙理信女、享保8、8、7歿」という墓碑に何気なく目が止まりました。「あれ?どこかで聞いたような戒名だ?!」と思ってメモしておきました。
それもそのはず、間野家に同じ戒名の人がいるのです。
このウェッブぺージの表題「ごさんべえ」は間野五三兵衛義明の名を拝借したものですが、五三兵衛の4番目の妻(俗名は蝶)の戒名が本染妙理信女というのです。蝶は、寛政2、7、6歿ですから、射越屋にある墓碑の主とは全く別人で、あの世で同姓同名という妙な関係です。限りなくあちこちの墓碑を調べているとこんなこともあるもので、こういう事例は時々見かけます。
蝶は倉敷市黒崎の難波家から間野家に嫁いで来ているのですが、この難波家は平田の難波家の分家で、福島にも同じような分家がありました。福島の難波家墓地は江戸時代中期には絶家していたようですが、現在は共同墓地中央に墓碑が集められていて、この中に、「本染妙理尼、享保8、8、7、三宅氏利世」という墓碑があります。これは、同地の大庄屋江口家の墓地調査のついでになぜか気になったので書き取っていました。3つの難波家(平田、黒崎、福島)はお互いに離れていますが、生坂の清水・間野家と同じ生坂真言宗東雲院の檀家です。
児島 三宅 高徳――・・・・・・・・――+――左馬丞徳久――十右衛門徳寄――+――与左衛門乗助――+――吉兵衛徳親――+ | 天正3 寛永4 | 承應1 | 寛文4 | | 室上野氏 室宍崎氏 | 室小野氏 | 室片岡氏 | | | | | +――弥平次徳武 +――安左衛門至徳 +――宗兵衛徳之 | | 明暦4 享保6 | +――徳全 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――仙右衛門徳直――+――助兵衛知徳――+――仙右衛門徳義 ――+――官兵衛徳修 ――+ | 享保13 | 明和4 | 寛政11 | 天保2 | | 室至徳孫 | 室川田氏 | 室三宅氏 | 室池田氏 | | | | | 室片岡氏 | +――又三郎直行 +――女 | | | | 小山へ分家 | 三宅元常妻 | +――女 片岡恒産妻 | | | | | | +――見達家長 +――吉兵衛徳光 | +――女 三宅順妻 | 宝暦7 | | | | +――女 藤井公顕妻 | | | +――三郎左衛門徳告 ――新助徳孝 | 寛政5 天明1 | 室橋本氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――女 | 藤井庸妻 | +==禎輔禎 | 藤原氏 | 室徳修娘 | +――宗一郎徳寧――+――修治徳敬 ――+==彌三郎徳芳 ――+――修治徳幸 ――+==修治徳守――+ | 明治17 | 明治30 | 伊藤氏 | 明治43 | 井門氏 | | 室三宅氏 | 室丸川氏 | 明治13 | 室青木氏 | 昭和36 | | | 室植田氏 | 室徳敬娘 | | 室徳幸娘 | +――女 | | +――女 | | 三宅嘉徳妻 +――某 橋本家嗣 | | 丸川義方妻 +――敏子 | 三宅嘉徳妻 | +――女 | 徳守妻 | +――女 亀山家嫁 青木竹四郎妻 +――弘之助 | | 昭和9 | +――女 難波家嫁 室森亀氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――男 | 室内藤氏 | +――康平 | +――都 | 浅野家 | +――節子 齋藤家
徳告の妻は下道郡新本村(総社市新本)の橋本家から来ていますが、その息子徳孝の墓碑に橋本護孝の名があります。この人は地理学者として有名な古川古松軒の長男です。この辺りをもう少し調べると、射越屋と古松軒の関係もより明かになりそうです。
徳孝の従兄徳修の妻は同郡辻田村池田で庄屋を勤めていた池田知則の娘喜世ですが、古松軒の母も同じ池田家から出た人のようで、この辺りにもおもしろい重縁が隠れていそうです。なお、喜世の姉利津は津高郡尾上村(岡山市尾上)の則武與四郎勝善の妻となっています。
徳直の弟(徳親の4男)は分家して医業を始めたようです。ただ、射越屋一族には医者、或いは医者ではなかったかと思われる人が多く、江戸時代以前から伝統的に医療に従事していたのではないかと想像しています。合戦には負傷がつきものですから、戦国武将の多くは、親族の誰かが医者の心得が必要だったのかも知れません。
見達家長――見道並山――+―― 一山 ――三無――+――玄仲徳喬――道市實之――+――立節徳綱==徳正 ――+ 享保2 元文4 | 延享2 安永8 | 文政4 文政11 | 安政2 橋本氏 | 室嶋村氏 | | 室雨森氏 室牧氏 | 室的場氏 明治35 | +――久兵衛徳行 | 室片岡氏 | 室徳綱娘 | | +――雄記 室可児氏 | | 嘉永2 | | | +――仁安 ――+――玄泰恒行 | 寛政10 | 寛政12 | 室橋本氏 | | +――女 | | 林永年妻 | | | +――女 | 吉田方行妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――己巳三郎恭徳――+――徳彦 | 大正8 | 昭和39 | 室内藤氏 | 室山下氏 | | +――高四郎正徳 +――女 安田覚三妻 | 守屋家嗣 | | | +――女 禰屋家嫁 +――女 安原助蔵妻? | | +――女 内藤家嫁 +――女 守屋家へ嫁 | +――女 佐野家嫁 | +――女 山下家嫁 | +――女 山本家嫁
初代見達の戒名は○○院醫光最照居士で、父(○○常椿)や兄(○○専入居士)の戒名より立派で、墓碑も比べものにならないほど大きなものです。岡田藩の御典医として士族に列したためであると思われます。
先祖から受け継いだ土地で地道に生きて行った本家は「農」の身分に甘んじて戒名も簡素であり、財産をもらわなかったために才能と腕だけで独立して藩に仕官した分家が本家を越えた「士」の身分となっているわけです。
戦国時代からの系譜が比較的よく判っている家の歴史を調べると、士農工商という身分制度の実態がよく見えてきます。
徳正の4男高四郎は窪屋郡酒津村の守屋甚三郎の娘村子の婿養子なり守屋家分家を立てています。後に名を漸(すすむ)と改め和歌の研究で知られています。
射越屋一族の墓碑は本家分家乱立していて整理がつきません。この典医の家の家系は院居士の付いた戒名の墓碑を拾ってつないでみまいた。本家の墓碑には新しい線香立てが付けられていて、これも生歿年を確認しながら年代順に並べるだけでしたから比較的容易でした。ただ、6代と思われる墓碑には「信士」と彫ってあり、その妻と思われる墓碑には線香立てがなく、少し疑問が残ります。なお、寛延3年に66才で亡くなっている仙右衛門正徳が6代の兄弟ではないかと思います。
安永8年の三無というのは俗名が記されていません。この子の仁安というのは、一族の他の人も名乗っています。
禎輔禎 ――+――二安薫 ――+――五郎 藤原氏 | 明治6 | 明治16 天保6 | 室竹井氏 | 室徳修娘 | +――尚志郎 片岡家嗣 +――節蔵 | 林氏へ +――銀五郎 ==知三 | 昭和2 尚志郎の子 | +――米五郎 明治21
二安(諱薫、小字禎之亟)は小石元瑞という京都の著名な蘭方医について学び、天保11年に川辺宿で開業しています。それから郡医となり苗字御免、藩の侍医となって士分に取り立てられています。
久兵衛徳行――+――久後兵衛徳連――才輔徳次――+――貫一郎 宝暦3 | 文政5 安政1 | 友野家嗣 室神原氏 | 室板野氏 | +――長平徳隣 +――澤右衛門徳信 安永4 明治7 室板野氏
この支流ではないかと思う家があり、下記の徳澄は左馬允徳久の第9世孫とあります。
與七郎徳章――+――為吉徳澄 ――+――オユカ 吉富武則妻 文政12 | 嘉永2 | 室片岡氏 | 室平田氏 +――貞次郎==廉平徳彰 室平田氏 | | 吉富氏 +――與七郎徳盛 | 昭和8 冒姓片岡 | 室佐藤氏 | +――元甫 ==周徳馨 ==精一徳業 室小谷氏 大正5 友野氏 室和田氏
倉敷市史に「岡田村桜(紺屋川と云)三宅良左衛門士分を志し八代の片岡氏を冒し生坂藩主池田丹波守に仕える」と書いてあります。この箇所は「八代の片岡氏」の系譜を執拗に紹介したところなので、「岡田の片岡氏」の誤植ではないはずで、そうすると、岡田と八代の片岡は同族なのかも知れません。
現代でも医者の家では医者同士の縁組みが多いようですが、こういう縁組みは江戸時代でも同じであったようです。 射越屋の調査では、片岡家のときと同様にの渡邉さんに多くの情報を戴き、助けていただきました。
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