石原家・西坂屋
児島郡福田新田村





戦国時代以前の系譜は不明ですが、江戸時代初期から西坂に定住して代々村役人を勤めていたことは確かです。
過去帳や墓石から辿ることの出来る先祖は九郎左衛門夫婦からです。

九郎左衛門――茂右衛門正勝――+――文右衛門貞義  ――茂一兵衛義芬――+――小右衛門常季――+――多惣兵衛常英――+
承應2    元禄13    |  正徳5       享保8     |  宝暦1     |  宝暦6     |
室      室       |  室氏       室氏     |          |  室間野氏    |
               |            室守屋氏    +――又之助     |          |
               +――女         室清水氏    |  間野家嗣    +――女       |
               |  山川七左衛門妻   室宮本氏    |             岡本行義妻?  |
               |            室       +――ふき                 |
               +――女                 |                     |
               |  山田又左衛門妻           +――多喜                 |
               |                    |  伊原義平治妻             |
               +――女                 |                     |
               |  白神了善妻             +――女                  |
               |                       伊原九兵衛妻             |
               +――女                                       |
               |  石原喜左衛門妻                                 |
               |                                          |
               +――兵右衛門                                    |
                  冒姓伊原                                    |
                                                          |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――茂一兵衛正雅――+――満智
   天保8     |  岩田忠智妻
   室間野氏    |
           +――多惣次常春 ――+==仁兵衛常政――右太郎 ――+――喜美
           |  嘉永7     |  貝原氏    昭和37  |  山名博一妻
           |          |  明治11   室藤原氏  |
           +――清左衛門正明  |  室能勢氏         +――豊    ――+――昭和
              渡邊家嗣    |               |  平成10   |  昭和56
                      +==常吉常延 ――幸平    |  室片岡氏   |
                         三宅氏          |         +――男
                                      +――功         室
                         室能勢氏         |  平成2
                                      |
                                      +――通
                                      |  黒瀬道夫妻
                                      |
                                      +――志那
                                      |  馬場家へ嫁
                                      |
                                      +――とみえ
                                         大熊家へ嫁

宝永5(1708)年の西坂百姓帳に記録された石原茂一兵衛と孫次郎の一家の家族構成をみると、

壱軒
一家内7人内男4人
      女3人      茂市兵衛
    内
 壱人    茂市兵衛   歳52
 壱人    子亀之助   歳12
 壱人    子又之助   歳10
 壱人    娘ふき    歳6
 壱人    娘よね    歳3
 壱人    父文右衛門   歳70
 壱人    母       歳69
  牛1疋

茂市兵衛は当時の大庄屋を勤めていて、百姓帳の最後に署名捺印が確認できます。その印には「義芬」という文字がはっきり読みとれ、清水家仏壇に安置されている位牌裏に「石原茂一兵衛義芬」と記されている諱に一致しています。
亀之助は小右衛門、又之助は間野(清水)家の一人娘喜與の婿養子となって利八郎と改名します。よねは孫次郎の4男繁之丞の妻となり、その子は作之助(後の間野五三兵衛義明)娘の婿養子となります。
父文右衛門も大庄屋を勤めていたことがいろいろな古文書から確認できています。貞義は後に剃髪して瑞堂と名乗っています。
貞義には4人の妹があり、それぞれ他家に嫁いでいます。これらの人の年順はよく判っていませんが、このうち3人の墓碑を確認しています。一人は同郡平田村(倉敷市平田)の山田又左衛門の妻、一人は同村の山川七左衛門の妻、もう一人は同所原津の石原喜左衛門の妻です。白神了善は、まだ手がかりが掴めていません。



清水家に遺された福田新田之過去帳(石原家過去帳)には茂市兵衛の母も、喜與の祖母も共に岡氏娘と付記があります。どうやら、この二人は姉妹のようで、この岡家は浅口郡西阿知村(倉敷市西阿知)で代々庄屋を勤めた岡家ではないかと考えています。
茂市兵衛の妻、即ち、ここの4人の子供達の母は、神原長十郎の娘ですが、清水家の仏壇に祀られている位牌には「石原茂一兵衛義芬妻清水氏」と書かれています。備中松山藩士で宗門改役を勤めた清水彌右衛門の孫になります。この人は宝永3年に死去していますから百姓帳には載っていません。
仏壇にその家の人以外の位牌を祀るのは良くないということも聞いたことがありますが、関係のない人が祀られているわけではないのですから、どれもだいじにお祀りするべきではないでしょうか。
茂一兵衛の妻は5人いたことを確認しています。上記の神原氏は3番目の妻です。5人の内、実家を確認しているのは3人ですが、最初の妻を除いて、親子ほどの年齢差があるのが今の時代では不思議な感じがします。最初の妻は、賀陽郡八田部村(総社市総社)の油屋堀源右衛門重長の娘、2番目の妻は窪屋郡三田村(倉敷市三田)の守屋権兵衛宗直の娘です。
4番目の妻は福田新田之過去帳に天城杜田(秋田か?)と記され、5番目の妻は古新田石原家墓地に戒名と歿年月日のみ記された墓碑があります。

伊原
兵右衛門正由――+――九兵衛
享保13    |  宝永6
室佐野氏    |  室石原氏
        |
        +――伊助 間野家嗣
        |
        +――吉之助
        |
        +――義平治旭随――+――?
           天明2    |
           室石原氏   +――次郎四郎 間野家嗣

正勝の子、孫次郎は伊原姓を名乗ったようです。

壱軒
一家内5人男         孫次郎
    内
 壱人    孫次郎    歳50
 壱人    子繁右衛門  歳23
 壱人    子作之助   歳15
 壱人    子吉之助   歳13
 壱人    子繁之丞   歳7
  牛2疋
  馬1疋

作之助は間野家に養子に入って五三兵衛義明と名乗ります。繁之丞は後に義平治(旭随)と改名します。これは五三兵衛の養子となった次郎四郎英明の父です。孫次郎の「女房」は宝永3年に死去していますので、ここに記録はありません。
伊原家はのちに絶えました。
イシハラからシを抜くとイハラとなります。岡山市西大寺に伊原と石原姓の混在集中地域があります。福田新田之過去帳に宇野津村(倉敷市児島宇野津)の川井家(もと梶田姓)の先祖が記されていますが、川井家と西大寺の庄屋伊原家とが重縁関係にあることから、西坂屋石原家のルーツは西大寺方面と考えています。

上記の2軒を上の系図のように組み立てるのに、寛文11年の備陽郡中手習所並小子之記という文書が参考になりました。ここに原津村の寺小屋通学児童名が記されています(岡山県史)。原津というのは西坂の中の一部を指す地名で、石原家の旧屋敷のあった場所と考えられます。文書に、庄屋文右衛門弟八太夫十四歳という記録があります。百姓帳と過去帳の記録から計算してみると、八太夫は孫次郎の幼名であると考えられます。親の正勝とは歳が孫くらい離れているので孫次郎になったのかも知れません。

百姓帳によると、孫次郎の所有林は8反3畝の松山と6反7畝の小松山、合計1町5反で、茂一兵衛の持ち山3反7畝に比べるとかなり多いようです。牛2頭と馬1頭の所有も西坂村内で他にはありません。特に、馬の所有は近隣の村にもなく、今流に云うと高級車ベンツを所有していた金持ちということかも知れませんが、この時代にはもう一つ軍事的な意味もあったと思います。つまり、秀吉の刀狩りに始まる兵農分離政策によって、せっかく分けた農民に軍用馬を持たせるというのは、この伊原家が士分として扱われていた証拠ではないでしょうか。このことは、後に福田新田に移住した石原家で鉄砲が所持されていたことと併せて考えてみると興味深いことだと思います。

孫次郎は茂右衛門の次男でありながら、いろんな事情で祖先の財産の大部分を相続したのかも知れません。石原家の墓地は西坂明神ノ内にありますが、茂右衛門正勝の墓碑だけが孫次郎と同じ西坂加須の墓地にあって、孫次郎が伊原姓を名乗っているのも、このためかも知れません。
年をとってから生まれた子供は可愛がられるものです。子もまたそういう親になついて、末っ子を連れて隠居して分家を立てる(隠居分家)という家がけっこうあります。そういう場合は、当然末っ子が親の老後を看るわけですが、親孝行を褒め称えて奨励する意味もあってか、隠居分家は栄えると云われます。伊原家もそうした家だったのかも知れません。

加須の墓地には、茂一兵衛義芬の最初の妻堀氏の墓碑や、茂一兵衛の3妻の縁戚(或いはその姓を冒しただけ?)と思われる「清水嘉兵衛玄體」という医者の墓も建てられていて複雑です。
旧家の墓地を訪ねると、たくさんの墓碑が林立していて、一瞬びっくりすることがあります。しかし、落ち着いて一つずつ調べて行くと、同年代に生きた人が重複していることがわかります。つまり、墓地全体の歴史はそんなに古くないわけです。
時に、家の歴史が古いことを墓碑の数に結びつけて自慢げに話す方が居られますが、私のような系図マニアが聞くと、こういう人は自分の家系をよくご存知ないのだということがすぐに判ります。一般の人が抱いているイメージの墓を庶民が建てられるようになったのは、江戸時代になってから、今のような形の墓碑が普及しだして約300年ほどです。夫婦の墓はたいてい一つになっていますから、単純計算で10数個あれば十分です。これが20だとか30だとか云うのは、後妻、早世した当主の兄弟、他家に嫁いだ娘の墓碑等々、ゆっくり検討して行くと、直系系図には描けない人の墓碑ばかりだということが解ります。

茂一兵衛義芬は前記の百姓帳には茂市兵衛と記載されています。他にも、嘉介(嘉助)と名乗ることもあったようで、明神ノ内の墓碑には「石原加介義芬」と深く彫り込んであります。茂一兵衛と小右衛門の父子は享保年中の児島郡福田新田の干拓に力を注ぎました。この新田開発の文書は倉敷市福田町古新田の佐藤家に所蔵されていますが、茂一兵衛は一貫して嘉介という名で登場するので、干拓史上で石原家は正当に評価を受けていないようです。

茂一兵衛は福田新田の干拓事業で多額の出資と世話をしています。もともと石原家が当地(現在の古城池高校北の一画と云われる)で独力で小規模な干拓に着手していたところへ、近郷の5ヵ村(福田、浦田、広江、呼松、宇野津)が林村(倉敷市林)の大庄屋佐藤九郎兵衛をたてて藩に正式に大規模干拓の出願をすることになり、茂一兵衛もこの仲間に加わることになりました。
新田は高梁川河口にあたりますので、下流に潮止め堤防を築くと上流の水田の水はけが悪くなると云う理由で反対されました。干拓事業は上流の村々との間の折衝に難航しました。児島は備前領、上流は他藩の領地が入り組み、争いは複雑になり、茂一兵衛は九郎兵衛と共に江戸に8年間ほど逗留して交渉にあたりました。この裁判は8代将軍吉宗(米公方というあだ名がある)の新田開発奨励政策によってようやく決着し、大岡越前守忠相によって新田開発にゴーサインが出されました。残念なことに茂一兵衛は干拓完成前の享保8年に死去していますが、260町歩余の新田は享保10年に検地を終えました。
茂一兵衛の長男小右衛門は佐藤九郎兵衛の推薦によって、干拓完成直後の名主に任命されています。新田の開発担当者がその村の名主に任命されると云うのは当時の常識でした。
この干拓完成の暁に石原家と佐藤家の受け取る分け前は、各々50町歩ということでしたが、その殆どは借金の返済で消えていったようです。実際の工事費用よりも反対住民の説得や、それに伴う政治的なかけひきにけっこうたくさんの資金が必要だったのかも知れません。今も昔もこんなことは一つも変わらないようです。
なお、この福田新田は、嘉永年中に児島郡柳田村の篠井汲五平と同郡味野村の野崎武左衛門によって、その南側に650町歩の新田が完成したので、福田古新田と改称されました。

享保十四年閏四月十八日の「切支丹宗門判形帳」に依れば、当時の入植者は五世帯二十人で、初代名主は(石原)小右衛門、佐藤家の先祖は記録になく、その後引っ越してきたようです。

 真言宗窪屋郡子位庄村行願院旦那
一、小右衛門 歳三十三
  備中窪屋郡西坂より家内三人、四月十八日願上引越参申候、則宗門御状取置候
  子 六治郎 同 十
  母     同五十
   合 三人 内男弐人、女壱人
   馬 壱疋
   牛 弐疋

宝永五年に十二才であった亀之助は、享保十四年に三十三才(小右衛門)になっています。新田墓には「天明七年五月十五日歿本覚妙観大姉」という妻の墓碑がありますが、この宗門帳には妻が載っていません。
六治郎は多惣兵衛(茂一兵衛)常英のことでしょうか。観譽浄圓居士宝暦六年十二月朔日歿なので、享年五十八となります。
小右衛門直筆ではないかと思われる文書があります。清水家所蔵、生坂神社の土地所有権をめぐる争いを記録した文書の筆跡と非常によく似ています。

小右衛門以降の石原家墓碑は倉敷市福田町古新田の通称「新田墓」という共同墓地にあります。この地は旧高梁川上流方向を「上(かみ)」と呼びますが、古新田干拓の2つの功労家、石原家と佐藤家の墓地は並んで陣取ってあり、墓地の位置関係からみても、石原家は佐藤家より偉そうにしていたことが窺えます。なお、新田の石原家の居住跡は、現在の古城池高校のグランドの南西に接してあり、古城池線を挟んで佐藤家の屋敷と旧高梁川砂州の上下の位置関係にあります。昔は方角にたいへん拘ったようです。一般に分家は西へ西へと建てられることが多いようです。いまでも、市街地は西へ西へと拡がるのが普通で、西への法則は今の都市化でも実証済みでしょうか。

小右衛門の跡は、多惣兵衛常英、茂一兵衛正雅と続きますが、多惣兵衛の妻の戒名は清水家の過去帳に記録がありますので、清水家から嫁いだ人、おそらく利八郎の長女「さき」だろうと思っています。また、茂一兵衛正雅の妻は生坂村間野次郎四郎英明の娘地久と彫られていて、このあたりの関係はひじょうに複雑で、石原家の血が濃く濃くなっていることが窺えます。多惣兵衛常英、茂一兵衛正雅夫婦の位牌は、いずれも丈が30センチ近い大きな位牌です。

新開地で3代続いた石原家も茂一兵衛正雅の晩年から家運が衰えてついに破産、長男多惣次常春は出郷し、次男清左衛門正明が小田郡江良村(小田郡矢掛町江良)の庄屋渡邊家の養子に出て、絶家となりました。茂一兵衛正雅は墓碑も確認できません。

古新田の石原家墓地は、たくさんの墓碑が林立する中、笠の付いた大きな立派な墓碑で、一際目立っています。もとの福田村の砂浜だったそうですから、基礎工事のいい加減な墓碑は傾きます。この墓地が造られるときには、目の前に墓地を造られて迷惑な福田村内と争いがありました。結果として造成されているわけですから、その裏には政治的な圧力や金の流れがあったでしょうし、その裏舞台の主人公も石原家の先祖(小右衛門)であったのではないでしょうか。ともかく、こういう砂地の墓地にあって、石原家の墓碑はどれも寸分傾いていません。茂一兵衛義芬、小右衛門常季の親子2代が心血を注いで完成させた新田で、3代で家産も家を嗣ぐべき人も失ってしまうとは、何という運命のいたずらかと思います。最後は正雅の墓を建てるどころの話ではなかったのでしょう。系図調査の基本は墓碑の調査ですが、いまでは当たり前のように建てられている墓碑も、1〜2昔前、とりわけ江戸時代はたいへんな経済的負担だったわけです。1つ1つの墓碑を眺めながら、先人の苦労を偲ぶこともたいせつなことです。

そういうわけで、石原家は生坂の清水家とも間野家とも音信が途絶えてしまいました。しかし、江良村渡邊家を相続した清左衛門の娘田鶴が、児島郡塩生村(倉敷市塩生)の大庄屋原元太郎康正(のちに能勢と改姓)の妻となり、更に、その娘喜和を古新田石原家の相続人として家が再興されたようです。多惣次、清左衛門の晩年のことであり、渡邊家と原家の苦心の末に行われたお家再興であったと思います。

「絶えた」と伝え聞いていた石原家が健在であることを知ったのは、清水家にとってたいへんな驚きでした。大正8年、古新田の干拓200年記念祭典が当地の浜田神社にて挙行されましたが、喜和の長男右太郎が、佐藤家の子孫澄治と共に干拓の功労者の子孫として並んで写真におさまっています。
右太郎には父親の違う弟幸平があります。仁兵衛常政が早く亡くなった後に、塩生村三宅實平長男(石原家除籍より)常吉が喜和の後夫として入家し、喜和と常吉の間に生まれたのが幸平です。三宅實平の妹は能勢源十郎の妻で、塩生能勢家墓地には實平の墓碑が建てられています。


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