中島家・塩田屋
児島郡天城村
・ ――・ ――+――善次郎 ――+――源吉泰継――安次郎定正――+――いく 享保11 | 宝暦6 | 享和3 文政6 | 高戸忠順妻 室 室 | 室岡崎氏? | 室守屋氏 室中島氏 | | 室小川氏 | 室 室篠井氏 +――みよ | | | 栄武妻離縁 +――平十郎 +――佐与 | 岡忠蔵妻 宝暦3 分家 | +――九一郎豊重 ――+――志保 | 文久2 | 嘉永7 | 室高戸氏 | | 室則武氏 +――賢吉義熙――+――源太郎 ――+ | 室足利氏 | 明治30 | 昭和18 | | | 室石井氏 | 室高戸氏 | +――かづ | 室金谷氏 | | 篠井汲五平妻 | 室高戸氏 +――篤五郎 | | | +――平兵衛 室 | | 嘉永5 | | | +――亀次郎重之 | | 安政5 | | | +――金七郎重成 | 明治2 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――貢 ――+――光彦 | 昭和50 | 昭和63 | 室逸見氏 | | +――女 +――男 檜垣家嫁 | | +――茂 明治42
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清左衛門――+――三郎四郎宣光――+――富次郎栄武――+――順 脇本氏 | 文政3 | 万延1 | 三宅常太郎妻 寛政11 | 室間野氏 | 室定正次女 | 平井清左衛門妻 室本家娘 | | 室亀川氏 | 山路之利妻 +――幾之介 | | 平野久右衛門妻 | 岡崎家嗣 +――辰五郎 | | | 天明7 +――常太郎直方 ――+――猶蔵栄清 +――さと | 明治2 | 慶應2 中島定正妻 +――梶 室加藤氏 | | 荻野修孝妻 +==維三郎 ――+――孫太郎 | | 桑田氏 | 明治6 +――録 | 大正15 | | 小野久明妻 | 室直方娘 +==泰郎 ――+――紀幸 | 片岡徳輔妻 | 室馬越氏 田邉氏 | 昭和22 | 高戸孝善妻 | 室菅氏 平成26 | | | 室福本氏 +――NH ――+――NH +――元次郎 +――多紀 | 寛政9 | 安政2 室石原氏 | | | +――久治郎栄方 +――TY 分家
佐与の夫清左衛門住殊が同村五人組頭から名主に就任し、三郎四郎宣光に至り大庄屋を任命されます。
その子富次郎栄武も大庄屋を勤めていますが、富次郎は味野村の庄屋荻野家に嫁いだ妹梶の娘町の夫、即ち義理の甥になる昆陽野(野崎)武左衛門が足袋の製造から塩田経営に転身する時に世話をしています。
富次郎のもう一人の妹録は、浅口郡舟尾村(浅口郡船穂町船穂)の柳屋小野家の分家篤治の妻となりますが離縁となり、邑久郡幸田村片岡家に嫁いで離縁、最後に浅口郡鴨方村(浅口郡鴨方町)の高戸家に嫁いで一男一女をもうけています。
富次郎の子常太郎直方も名主を勤めますが壮年で亡くなっています。
直方の嗣子猶蔵栄清が戊辰の役で戦死したため、御野郡上伊福村(岡山市)の岡鷹太郎へ嫁ぎ子の孫太郎を連れて復籍していた長女の君(きみ)に、備後国沼隈郡熊野村の桑田家から維三郎を養子に迎えて跡を嗣がせました。孫太郎を相続人にするための縁組みでしたが、孫太郎は幼くして亡くなり、維三郎と君の間に子が出来ないまま、君は亡くなってしまいました。
その後、維三郎は後月郡木之子村(井原市木之子町)の医師馬越元泉の娘頼(京)を後妻に迎えますが、頼も子が出来ないまま亡くなり、備後国深安郡神辺村(神辺町)の福山藩儒官菅晋賢の長女節子(ときこ)を妻として迎えました。維三郎は明治の新しい市町村制下で三期藤戸村長(町長)を勤めています。
順は浅口郡鴨方村島屋三宅家に嫁いだ後離縁、その後、岡山城下石関町山田屋平井清左衛門に嫁ぎ離縁、その後、備後鞆津土佐屋山路之利に嫁いでいます。之利も早く亡くなったので、福山城下鍛冶屋町尾道屋平野久右衛門の妻となっています。その位牌は中島家にあります。
久治郎栄方――+――小政 明治20 | 日笠家へ 室日笠氏 | +――厚一 ――+――遊亀子 大正5 | 守安由一妻 室小野氏 | +――匡子 森一太郎妻
中島家所蔵の古文書の中に親族関係を記したものがあります。富次郎栄武が記した操草という冊子に、槙が生坂村の間野多利介の娘であること、卯吉(富次郎)、辰五郎、梶、録、元次郎の五人いたことが書いてありました。また、思いもかけないことに、間野(清水)家の縁戚関係まで記した文書まで見つかりました。その解読書写文を作ってみました。。
一、生坂多利介
間野後三兵衛家は本家分家と申伝候共
古記無之身代宣候ゆへ高名言伝候共先祖格別
の家に無之多利介方西坂に有之時皆死絶娘
壱人残申候ヲ後三兵衛方へ引請之是身代益成
○倉城水沢氏 後三兵衛方より参候に無之多利介
家ヨリ参也
○多利介妻 井手村与右衛門方同
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○祖母 三本木ヨリ之参同
○茂利治妻 玉島岡本や
○文太夫妻 尾上与四郎娘此腹に
後妻 玉島守屋氏より出此腹に
○大谷新田中島氏ヨリ来嫁候○惣社清水やも来嫁候也
生坂にて尋候処、三本木に直縁無之井手より
三本木行居申候
後三兵衛は五三兵衛(ごさんべえ)の異音表記ですが、聞き書きの文章にはしばしばこういうものがみられます。
「五三兵衛の家(今の間野家)は、多利介の家(今の清水家)の本家とか分家とか云うけれども、はっきり証拠となる古い記録もなく、五三兵衛の家が裕福になったので世間でそういうかたちで名を知られるようになっただけで、五三兵衛の家の先祖は格別良い家ではない。多利介の家が西坂(今の鼻生坂)にあった時、一家がみな死に絶え、娘が一人残ったのを五三兵衛が引き受けた。この時から五三兵衛家が裕福になった。倉敷村の水澤家に嫁いだ人は五三兵衛家の人ではなく、多利介の家から嫁いだ人だ。多利介の妻は井手村の与右衛門家(井手家)から来ている。多利介の祖母は三本木(服部家)から来ている。茂利治の妻は玉島の岡本屋(太田家)から来ている。文太夫の妻は尾上村の与四郎の家(則武家)から来ていて、文太夫との間に(久良という娘がある)。文太夫の後妻は玉島の守屋家から来ていて、文太夫との間に(利太郎という男子がある)。大谷村新田の中島家、総社の清水屋(安原家)も親戚になる。生坂の多利介の家で尋ねると、三本木(服部家)とは直接の縁はなく(多利介の祖母が服部家から来ているわけではなく)、井手家から服部家に嫁いだ人があるということのようだ」
文太夫の後妻は玉島の守屋家ではなくて、三田村の守屋家であることは、墓碑文からも明らかで、玉島の守屋家は久良が嫁いだ家です。聞き書きにはこの程度の誤りはよくあります。ある程度の幅を持たせ、いろんな可能性を考えながら推理するのがたいせつです。まさに、推理小説どころではない謎解きの面白さを体験できるわけです。
それにしても、最後の二行に書いてある浅口郡大谷村新田(現在の浅口郡金光町大谷新田)の中島家、総社の安原家については清水家でその縁戚関係について聞いたこともない家でした。
もともと、清水家には天城中島三郎四郎の妻となった女性の戒名と歿年月日を記した過去帳があっただけでした。倉敷市史を丹念に読んでいく内、天城中島家の系図に中島三郎四郎の妻、間野利介女(間野多利介)と歿年月日、戒名が並記されてるものを見つけ、手元の資料と見事に一致するので中島家を訪ねてみました。
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